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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第五章 萌芽少女
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雪を解かす

 引き返したあとの、その日の午後。落合たちは別荘のプールで遊ぶことにしたようだ。

 窓の外からは楽し気で賑やかな笑い声が聞こえており、ノックに応えてドアを開いた草間の前には、そもそも水着を持って来なかったという有村が、トレイにアイスティーを二つ乗せて立っていた。

「久保さんの様子は?」

「もう落ち着いたよ。和斗さんが手当てをしてくれて、赤みも、だいぶ引いてきた」

「そう」

 後ろのベッドを気遣いながら小声で話し、草間は有村を部屋の中へと招き入れる。

「ごめんね、久保さん」

「なんでアンタが謝るのよ」

「その方が僕の気がラクだから。保冷剤を持って来たけど、替える?」

「……替える」

 ベッドとベッドの間に置かれた小さなテーブルへトレイごと下されたグラスには、スマイルカットのレモンが刺さっていた。敢えて言わなくてもいいであろうひと言や、淡々と保冷剤を取り換える有村は、久保の扱いを良く心得ていると草間は思う。

「……ありがと」

「冷やすと気持ち良い?」

「それもだけど、助けてくれたでしょ、さっき」

 久保は中々素直になれない。優しくされるほど、余計に。

 とはいえ有村は久保が告げた感謝への返事として、「藤堂には伝えないよ」と放った。草間は慌てて、有村の名前を呼ぶ。

「自分で言いな。その方がいい」

 正論ではあるが、直接言えるくらいなら久保はとっくに伝えているはずだし、俯いて唇を噛んだりしない。素直じゃない久保に、有村は過ぎる優しさを配らない。常々そうではあるけれど、草間は駆け寄り、有村の腕を掴んだ。

「有村くん。あのね、絵里ちゃんは――」

 庇おうと思ったのだ。久保と藤堂との間には、他人が入ってはいけないわだかまりがあると知っていたから。

 しかし、そんな草間のTシャツの裾を、ベッドの上から久保が引いた。

「アンタ、何か聞いてるの?」

「いいや? 僕には関係ないことだし」

「そう」

 まただ。どうしてそういう言い方をするの、と、草間はそうした想いで有村の腕を揺らす。

 交互に見る両者が全くの無表情でいるのだ。久保にも心苦しいところがあるのだから、もっと優しくして欲しいと思った。いつも、自分にしてくれるように。

 いつもみたいに柔らかく笑って、受け止めてくれたっていいじゃない、と思っていた。有村にはそれが出来ると知っている。なのに久保に対してしないから、草間の目付きは睨むのにも近かった。

「でも、気になってないわけじゃないから、話す気があるなら聞くよ」

「…………」

 口振りも冷たいし、声だってどこか冷たい。

 久保が更に俯いて、黙ってしまうのは当然だと思った。

「君のことはよく知らないけど、藤堂のことは多少わかっているつもりでいる。彼は過去を気にしないようだね。引き摺っている方からすれば、まるで出口のないトンネルみたいだ。君が自分から入り込んだように見えるけど。呼び方を変えたのも、どうせ君だろ」

 我慢出来ずに、草間は苛立ちを帯びた「有村くん!」で遮った。そんなにも突き放すように言わなくてもいいはずだ。憤る草間を僅かに見て、有村は表情ひとつ変えなかった。

「……そうよ。私が言ったの。もう下の名前で呼ばないで、って」

「それで、君の気は済んだ?」

「…………っ」

「もうやめてよ! 有村くん!」

 草間は有村を突き飛ばした。思い切り力を込めたのに有村は半歩ほど下がっただけで、より遠ざけようと身体の向きを変えた草間は、強く引かれた久保の指先に振り向いた。

「……アンタ、本当に嫌い」

「知ってる」

 真下を向いてTシャツを引っ張る久保は草間に、「いいの」とだけ言った。

 見遣る指先が白い。垂れ下がる黒髪は細かく揺れていて、草間は有村を遠ざけるより久保の近くに身を寄せ、離れた手を両手で包んだ。

「出てって、有村くん!」

「仁恵」

「どうして絵里ちゃんを苛めるの! 出てって!」

「仁恵。ちがう」

「違わないよ、絵里ちゃん! だって、あんな言い方――」

 さっきまで保冷剤を握っていた久保の手は、冷たいのに熱かった。そして、草間が見つめた久保は苦しげだったけれど悲しそうではなかったから、ひと呼吸分の沈黙が落ちた。

「違うの、仁恵。コイツは今、私に言わせようとしてる」

「え……」

 嫌い、大嫌いと呟いて顔を上げた久保の、有村を睨む目が赤かった。

「アンタもそうなの?」

「多少は。僕は友達だと思ってるけど、彼は僕をたまに弟や女性にするから」

「自覚、あるのね」

「諦めてそばに居るわけじゃないけどね。僕も彼を八割方、熊だと思っているし」

「……ふふっ」

 笑い声はしたのに久保の表情は泣き出す方へ歪み、結局また俯いてしまう。草間には、包んだ手をそのままでいることしか出来なかった。

 絵里ちゃん、と呼びかけてみたけれど、更に俯かせてしまうだけだったのだ。

「……彼は君を、下の名前で呼んだよ。何度も何度も、大声で。君がもし、ただの呼び方の問題と思えるのなら、しれっと元に戻るのは今がチャンスかと思うけど」

「余計なお世話」

「ご(もっと)も」

 コトリと音がしたので振り向けば、有村はグラスを下ろしたトレイを持ち上げたところだった。

 目線も向けずに「気が向いたらふたりもおいでよ」と投げかけ、忘れ物のようにポケットから出したガムシロップを、テーブルへ転がす。

「さっき、血の気が引いた。君に大事なくて本当に良かったけど、怪我をさせてごめん。出来ることがあれば言ってほしい。早く、自慢の右ストレートをお見舞いしてくれるくらいになってね」

「…………」

「夕食は期待してて。腕によりをかけるから」

「嫌味?」

「ご機嫌取り。君の所為で草間さんが僕を嫌いになったら恨むから」

「バカじゃないの。さっさと出てってよ。邪魔」

「……お大事に」

「出てけ」

「はいはい。あとはふたりで、ごゆっくり」

 恭しく会釈などして、有村は部屋を出て行った。遠くなる足音が小さくなり、階段を降りて行ったのがわかると、草間の手から抜け出した久保の手が逆の手を連れて首元に抱き着いて来る。

「仁恵。私、アイツのことは嫌いだけど、仁恵の相手がアイツで良かったとは思ってるの」

「絵里ちゃん……」

「聞いてくれる? くだらない話だけど……」

 抱き返した草間に、断るという選択肢はなかった。



 外からは相変わらず、楽しげな声が聞こえている。

 きっとプールの中でボール遊びでもしているのだ。落合が「姫様もおいでよ」と誘っているが、有村はそろそろ夕食の仕込みを始めるらしい。

「圭一郎が事故に遭ったのね、アレ、私の所為なの」

 テーブルの上に水滴を溜めるグラスの氷は、殆ど角がなくなっていた。

「試合が近くて、朝も放課後もずっと練習で。私、寂しくて、少し熱が出ただけなのに、絶対にお見舞いに来いって言ったの。急いで来いって、朝も様子を見に来てくれたのに、すごく具合が悪いフリして言ったの。練習終わって、圭一郎は本当に急いでくれたんだと思う。だから、余所見なんか……信号が青だって、普通ならわき見運転の車くらい、気が付くもの……」

 事故のことは草間も良く知っていた。ぶつけられたのは自転車で、跳ねられたというより飛ばされて打った場所が悪かったのだと、見舞いに行った病院で、藤堂の母親が草間の母親に話しているのを聞いた覚えがある。

 その時、草間は心底、残酷な神様を嫌った。右腕の靱帯が傷付いた以外は、掠り傷程度だったからだ。左腕なら良かったとは言わないが、選りに選って、と。

「おばさんに、私の所為じゃないって言われた。でも、圭一郎はかなりスピードを出してたんじゃないかって聞いたの。だから余計に大怪我になったんじゃないかって。怖くてお見舞いに行けなかった。どんな顔をして会えばいいのかわからなかった。あんなに頑張ってたのに……期待されて、推薦だって決まってたのに……私が、ワガママ言ったから……」

 何も言えずに聞いていたけれど、草間も久保の所為ではないと思う。不運だったけれど、『もし』を考え始めたらキリがないのが、事故だ。

 久保がもし、急げと言わなければ。藤堂がもし、いつも通りに注意を払っていれば。その先に、何かが待っているわけではない。しかし久保の気持ちは、痛いほどよくわかった。

 泣き出してしまった久保の手を握り、草間は一度、呼吸を整える。

「退院した後、藤堂くんと絵里ちゃんが喧嘩して、そのあと私、藤堂くんの家に行った」

「仁恵が?」

「うん。絵里ちゃんがお見舞いに行かなかったのは、行けなかったんだって言いに行ったの。藤堂くん、わかってるって言って、色々聞こうとしたら、追い返されちゃったんだけど……でも、絵里ちゃんのこと、全然悪く言ってなかったよ」

 もっと上手く言えたらいいのに。藤堂は苛立っていたけれど、事故は自分の所為だと言って、恨み節などひとつもなかった。

 しかし、たとえ草間が上手く言葉を紡げたとして、久保を思い詰めさせたのはそこではなかった。

「知ってる。圭一郎だもん。自分の不注意だって、誰かの所為になんかしない」

「なら……」

「だから……つらいの。ホント嫌い、アイツ。さっき有村が言ったでしょ? 謝りに行ったのよ、私。野球やめたって聞いて、慌てて。でも、自分で決めたことだって、私には関係ないって取り付く島もなかった。圭一郎もつからったのよ。わかってるけど、気にするなって普通の話を普通にされたら悔しくて、文句いっぱい言って……もういい、って……初めて、喧嘩にもならなかった」

 それがもし草間が思っていた最後の大喧嘩だとしたら、そうでなかったから久保は酷く落ち込んでいたのだと今更、妙に納得がいった。

 学校にも来ず、家へ行っても電話をかけても出てくれず、ただ理由だけを知った草間の足を、まともに話したこともない藤堂の自宅へ向かわせてしまうほど。

 ポロポロと零れていた涙の量が増し、久保はとうとうベッドの上で蹲った。草間は腰を上げて丸まる背中を撫で、つられて泣いてしまうのだけ堪えようと必死だった。

「私、生まれてすぐからそばにいた。なんでもない顔して、どれだけ努力してたかずっと見てた。いっそ、お前の所為だって言われたかった。ワガママよ。わかってる。これまで通りに接するのも、圭一郎の優しさで……でも、つらかったのよ。風邪はもういいのか、なんて、バカじゃないの……」

 布団にうつ伏せた久保から零れる、何週間寝込ませる気よ、端から大したことなかったわよ、というような次々出て来る文句じみた言葉が、やっと流れ出した水が押し出す土砂みたいに止め処なく溢れて来る。

 責められた方がマシだった。吐いてしまった小さな嘘と胸の想いを、自分勝手と口にする久保。草間にはその全てが苦しくて、切なかった。

 わかる気がした。藤堂なら言いそうなことも、それを受けて久保がどう思うのかも。

 喧嘩にもならない。それが一番、久保を苦しめていたのだろうということも。

「絵里ちゃん」

 草間は久保の手を取り、精一杯に微笑んだ。

「絵里ちゃん。もう、け、圭一郎、でいこうよ」

「え?」

 まさか生まれて初めて呼び捨てにした異性が、藤堂になるとは思っても見なかった。

 詰まりながら告げて、告げたあとにも気恥ずかしい咳が出て、それでも草間は心を強く、包んだ久保の手を上下に揺らす。

「さっき、絵里ちゃんを助けるってした時の藤堂くん、すごくカッコ良かった。必死で、絶対に助けるって感じだった。大事に、今も、絵里ちゃんのこと大切に想ってるんだなって。だから……ゆ、許してあげない? 謝らせてくれない頑固な藤堂くんも、素直になれなかった、絵里ちゃんも」

 仲直りしようと言いかけて、それは違うと他を探す。和解、では同じことだ。元通り、も少し違う。

 そうして行き着いた『許してあげよう』は随分と偉そうな響きで、勇気が長続きしない草間の口はすぐに、「ごめん」を呟いてしまった。

「……ふふっ。謝るの?」

「ごめん。なんか、偉そうで。そういう話じゃないよね。でもあの……なっちゃったことは変わらないっていうか、絵里ちゃんの気持ちわかるけど、ずっと気にしてこのままっていうのは……ええと、なんて言えばいいのかな。だからあの、私は、ね? せっかく幼馴染なんだしね? 前は仲良かったし、今も想い合ってるんだから、絵里ちゃんと藤堂くんがまた、あの……」

 ゴニョゴニョと言い淀む草間が困り果てた末に、握っていた久保の手に額を擦り付けると、慰められているはずが縋られてしまった久保は我慢出来ないといった様子で、高らかに笑い出した。

 上体を仰け反らせ、ケラケラと。更に困惑した草間の目には涙が浮かび、それを見た久保は更に笑う。

「仁恵だね」

「うん?」

「そうやって最後は泣くの、仁恵だなぁって」

「絵里ちゃん……」

 よしよし、などという言葉と一緒に頭を撫でられ、への字の口で上を向く草間はまるで子供だ。

 恥ずかしいやら、情けないやら。けれど久保の笑顔を見ると、頑張って無理に泣き止まなくてもいいような気分になって来る。

「ありがと。早く聞いてもらえばよかった。話したら、だいぶスッキリした」

「うぅ……違うんだよ? もっとね、ちゃんと……」

「ううん。充分。ちゃんと伝わった。いつまでも引き摺ってるのは変よね。うん。変わったね、仁恵」

「ふぇ?」

 さっき、変わってないみたいに言ったのに。

 完全な泣きべそになる草間の頭を撫で、久保が静かな笑みを見せた。

「アイツ、見た目あんなだけど中身はただのガキ大将だから、私が大人にならなきゃね。熊ですって? あんなバカに言われるなんて、ムカつく!」

「…………」

「……有村!」

「ああ」

 しかし最後は苛々した顔になり、久保は納得した草間を避けて手にした窓際のアイスティーを一気に飲み干すと、もっと不機嫌な顔をして「薄い!」と文句を言った。

「なによコレ。下、行って淹れ直させるわ。これじゃ紅茶の味がわからないじゃない」

「氷が溶けたからじゃ……」

「これから話すって時よ? それくらい考えて淹れて来るべき。気が利かない男」

「絵里ちゃん……」

 何か晴れやかになったようなのに、結局、有村のことは嫌いなままなのだと切なくなった草間に抱き着き、久保はその肩口で「でも」と口火を切る。

「……嫌いじゃないわ。いけ好かないけど」

「絵里ちゃん!」

 腕を解いた久保は颯爽とした足取りで部屋を出て行き、草間は残されたグラスをふたつ持って後を追う。

 どうにも堪らなく嬉しくて、つい小走りになった。「あっ!」。不器用な足は何もない所で躓き、危うくグラスを落としかける草間を振り向いた久保は、いつものお姉さんな久保だった。

「もう! だからいつも気を付けてって言ってるでしょ? 仁恵はすぐ転ぶんだから、両手を塞いで走っちゃダメよ。グラス貸して。私が持つわ」

「ごめん……」

「気を付けて。怪我でもしたらどうするの」

 怒られてしゅんとした草間だったが、すぐに気分が上向いて駆け寄った久保のすぐ後ろへついた。目が合って、ニコリと笑う。同じように返してくれたから、なんだか久々に『大好きな絵里ちゃん』だと思った。

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