暴走と、信頼
嫌な予感がする。
そう言った有村が注視した森の奥から唐突に飛び立った、大量の鳥。
十羽、二十羽近くいただろうか。しなる枝や葉の音と、鳥の羽搏き。馬たちは一斉に暴れ出し、青い空に悲鳴が響き渡る。
「キャァッ!」
馬たちは鳴き声を上げ、同じくのアリスは高く前足を振り上げる。バランスを崩した草間はなんとか手綱だけは掴み続けていたけれど、有村に体重を丸ごと預ける格好で、小さく呻くような低い声が自分の悲鳴の合間に聞こえた。
「落ち着くんだ、アリス。大丈夫、ただの鳥だ。怖くない」
甲高い悲鳴は他に二つあった。鈴木や山本の慌てた声も響いている。
前足を下ろしたアリスの上で目を開くと、前方にいる落合の馬はロデオのように暴れていて、桜子が宥めようとしているようだった。
「まずい」
有村は強く手綱を引き、アリスの動きを止めさせる。
「草間さん、ひとりで降りられる?」
「うん!」
「降りたら離れて、木の後ろへ行って。焦らなくていい、怪我のないように」
「わかった!」
大量の鳥が飛び立ってから、ほんの数秒間の出来事だった。
制止したアリスから滑り落ちるように降りた草間の足が地面に着いたのと、ひと際大きな悲鳴が突き抜けたのは殆ど同時。
「離れて!」
草間へ向け放った有村は力強く、アリスの腹を蹴る。
駆け出した有村が向かう方、絶叫が尾を引く先には、桜子の手を振り払った馬がしがみ付く久保を乗せて走り去る姿があった。
「絵里奈!」
叫ぶ藤堂の脇を抜け、有村が低い声を響かせる。
「来い! 藤堂!」
応えるように藤堂はすぐさま、馬の腹を蹴る。
「お兄ちゃん!」
言われるまま多少の距離を取り、立ち尽くした草間には、駆けて行く三頭の馬、落合が乗る馬の手綱を握りながら有村を呼ぶ桜子、それぞれなんとか落馬を免れた面々が全て見えていた。
腰を上げた有村を乗せ、アリスはどんどんと加速していく。あとに続く藤堂もそれなりのスピードが出ているのだろう。先頭を行く久保の馬との距離が次第に詰まり、見守ることしか出来ない草間は呼吸も忘れて息を飲む。
「手を離すな! 絵里奈!」
「じきに減速するはずだ! だが、止まるまで待てない!」
「どうしろってんだ!」
「追い付いて脇から掻っ攫え!」
「こっちに乗せろってのか!」
「そうだ! 彼女の腕は限界だ。振り落とされる前に追いつけ! 意地でも堪えろ、絶対に落とすな! 手綱を引き横へ向けて、馬を止めろ!」
「やったことねぇ!」
「わかってる! 君なら出来る! やれ、藤堂!」
「クソが!」
本来であれば、最も乗馬に慣れている桜子の出番なのかもしれない。
しかし桜子はまだ中学生で、「お兄ちゃん!」と叫び続ける彼女がいま手を離せば、落合の馬がまた暴れ出しそうだった。
出来ることは何もない。わかっているけれど、草間の手は左右できつく重なる。
心配で心配で、気が気ではなかった。早く追い付いてくれと願う反面、全員が無事で済む成功例が思い浮かばなければ、追い付いた後に何が起こるのかの見当も付かない。
「あと少しだ! 頑張れ!」
「踏ん張れ、絵里奈! 俺が着くまで、手ぇ放すんじゃねぇぞ!」
先に追いついた有村が手を伸ばし、隣りから手綱を掴む。
「藤堂!」
僅かに遅れて、藤堂が追い付いた。
「絵里奈! 手を――」
怒鳴り合うような声はそもそも、途切れ途切れではあった。しかし確実に、放せ、の声は聞こえなかった。草間からは藤堂が並んだ瞬間、久保の身体がふわりと浮いたのが見えた。
「くっ!」
「堪えろ! 藤堂!」
受け止めた藤堂の馬が揺れ、草間と落合は短い悲鳴を上げる。
なんとか堪えた様子ではあるものの、慣れない馬の上で片腕になるのは至難の業であるはずだ。久保の悲鳴が突き抜けて、藤堂は開けた芝生の方へと進行方向を変えるが、折り返すようにして近付いて来る速度はそう格段には落ちていない。
落ちる。見ていられなくなった草間は目を瞑り、顔を逸らした。
「藤堂!」
聞こえた気がした声に視線を投げた。
一度は視界から消えたはずの有村が、猛スピードで駆けて来る。
「止まってくれ、トニー! アリス!」
背後から突撃し、いっそ、体当たりでもしてしまうのかと思うほどの速度だったのだ。
けれど有村は追い抜くように駆け込んだトニーの並びでアリスを止め、前足を振り上げられた体勢で放した片手を、今まさに振り落されかけていた藤堂へと伸ばした。
「――いい子だ、トニー。アリス。大丈夫。もう、怖くない」
掴んだのは、藤堂の腕。引き戻した有村も、引き戻された藤堂も、ようやく止まった馬の背で呼吸を荒くしている。
「……死ぬかと思った」
「よくやった。さすがは僕が見込んだ男だ」
先に降りた有村が久保を受け取り、次いで降りた藤堂へと引き渡す。その頃には草間は勿論、他の面子も馬を降りて駆け出していた。
「絵里ちゃん!」
「絵里奈!」
実際の時間は瞬く間であったはずだ。けれど草間は永遠を味わったかのように心が重く、近付くほどに視界が霞む。
ダメだと思った。落とされて大怪我をしてしまう想像をした。
そうでなくて良かったと安堵する気持ちがあとから押し寄せて来て、みるみる目頭が熱くなる。
「怪我はないか」
「どこか痛めていない? 久保さん、手を見せてもらうよ」
久保は膝を折った藤堂の腕の中にいた。掌を見た有村が、苦い顔をする。
「絵里奈。絵里奈、俺を見ろ」
抱きかかえる腕の中で、藤堂の手が久保の頬に触れた。
「もう大丈夫だ。よく、頑張ったな」
「…………ッ」
駆け付けた草間たちが三人の表情をしっかりと目視出来る距離にまで辿り着いた時、久保は藤堂に抱き着いて大声で泣き始めた。
草間は、初めて見た。小学生の頃から知っているのに、子供みたいに泣きじゃくる久保を初めて見て、咄嗟に声もかけられない。
「怖かった……! 怖かっ、た……!」
「ああ。俺もだ。お前が大怪我をしなくて良かった」
「…………っ」
力強く抱き返し、頭を撫でてやりながら、藤堂は何度も「よくやった」「偉かったな」と言葉を変えて久保を褒める。そんなふたりを久々に見たのも、草間と落合を無言させた原因ではあったのかもしれない。
初めて出くわしたであろう鈴木と山本はホッとひと息吐いていて、有村もそちらは大事なかったのかと尋ねている。名前から苗字を呼び合うようになったタイミングを知っている草間と落合は自然と、互いへ目を遣り合っていた。
「草間。悪い。ハンカチかなんか持ってないか」
藤堂に呼びかけられ、草間はやっとふたりの元へ駆け寄る。
「怖かったね、絵里ちゃん。大丈夫? 怪我、してない?」
「仁恵……っ」
芝生の上に両膝を着き、ポケットから出したハンカチを向けると、久保は抱き着く相手を草間に変え、ぎゅうっときつく腕を回した。
ハンカチで濡れた頬を拭き、いつもは久保がしてくれるように背中を擦って落ち着くのを待つ。草間も藤堂と同じ気分だった。怖かった。久保が無事で、本当に良かった。
そうしてあやすように宥める視界に、最後のひとり、桜子が駆け込んで来た。
「お兄ちゃん!」
叫ぶなり、桜子は相当な剣幕で真っ直ぐに向かった有村の腕を掴む。
「どうして藤堂さんなの! 馬の扱いならわたしの方が慣れてる。ウチの子は調教もちゃんとしてるし、少し走れば止まるのに!」
掴むというよりは、掴みかかるという風だった。声にも表情にも不満が露わで、爪先に重心がかかるほど前のめりになる態度も全てで、有村を責める。
「鳥に驚いたんだ。調教とは関係ない」
「でも!」
「強いて言うなら、緩慢な速度でも常に緊張していた久保さんと、信頼関係が築けていなかった。あと少し走れば勝手に止まっただろうけどね。彼女の腕も、かなり疲れていたんだよ」
返す有村の声はよくよく知る、通常通りの穏やかなものだった。つい今しがたまで競走馬のようにアリスを走らせ、歯を食い縛るほどの力で文字通り、藤堂たちを落馬の危機から引き摺り上げたこともなかったかのようだ。
宥める手を止めないまま草間が見遣れば、既に呼吸も整っているようだった。肩は上下に揺れておらず、見える横顔も鬼気迫る桜子に掴みかかられているとは思えないくらいに涼しい。
「だとしても、どうして慣れてない藤堂さんなの? わたしならもっと上手く誘導出来た! もっと、安全に止められた!」
「そうだね。咄嗟だったとはいえ、あまり頭の良い方法ではなかった」
「お兄ちゃんはわたしを信用してないの? 子供だと思って、信じてくれてないの?」
「信じたさ。一番数をこなせるのは君だと思った。落合さんたちをフォロー出来るのは君だ、と」
「でも、来いって言ったのは藤堂さんだった! まだちゃんと走れないのに! トニーだって、言うこときかないのに!」
どうして、なんで、と桜子が詰る。掴んだ腕を揺すり、繰り返しの文句を投げる。
腕の中の久保はまだシクシクとしゃくり上げていて、見渡せば気まずそうな落合や鈴木や山本、珍しく俯いた藤堂が目に留まり、草間は久保を抱きしめる腕を強めながら有村を見た。
そちらもあまり見ない顔だ。冷たい風ではないが無表情と言って差し支えがなく、怒りに任せて声を荒げる桜子をじっと見ている。
似た勢いで詰め寄った経験がある草間からすると、正面に居るか横から眺めているかの違いではなく、有村の様子はそれらの記憶と異なっていた。真摯に耳を傾けて丁寧に受け答えはしているが、弱々しく視線を外すことがない。ふと、声が温度を失くすことも。
「ねぇ、どうして? わたしがまだ子供だから?」
有村はゆるゆると首を左右へ振り、「ちがう」と断言する。
「僕は彼らのご家族に一週間、怪我も大事もないよう努めると約束してここへ来た。違えるわけにはいかない。僕には連れて来た全員の身を守る義務があり、果たすと決めている」
「だったら!」
「確かに、藤堂は馬の扱いに不慣れだ。僕も他人の馬なんか止めたことはなかった。だが今、君に任せなくて正解だったと思っているよ」
「どうして!」
「君が今も目の前にいる僕しか見ていないからだ、桜子」
「…………ッ」
言葉を飲む桜子を前に、草間にも緊張が走る。
抱きかかえる久保が止まりかけの涙を連れて、更に悲しい顔をした。
「そもそも動物にとって、人間は二の次。君は、彼らにそれを伝えたか。自分の教えた通りに乗れば安全だと、言いはしなかったか? 飼育していたとしても、馬は生き物であって乗り物ではなく、君の下僕でもない。いざという時に身を守る術を、彼らにきちんと教えたか」
「…………」
「疲れれば止まる。が、それを待てずに落ちるのは、彼女らに限って見過ごせない。僕は追いつける。藤堂は必ず、僕のオーダーを完遂する。僕にはその自信があった。間違いなかったことを、ひとつ言おう。この中で何があっても久保さんを落とさないと決めていたのは、僕と藤堂だ」
「ちがっ……わたしだって!」
「それは嘘だ。僕の対応に不満があるのはわかる。文句を言いたい気持ちも理解はする。けれど、それは今この状況で最優先すべきことか? 冷静になって、周りを一度、よく見てごらん」
唇を噛み、顔ごと視線を逸らした桜子の返事を待たず、有村は「すまないが、借りるよ」と告げて桜子が腰から提げていたタオルを引き抜く。
そうして近くにあった水場へ向かい、濡らしたタオルを絞りながら、草間たちの方へとやって来た。
「久保さん、もう一度、手を見せて」
片方の膝を着いた有村が掬い上げた久保の掌は、指先まで真っ赤に腫れていた。
「染みるかもしれないけど、冷やせば少し、痛みが引くと思うから」
パンツのポケットから出した自分のハンカチを添えた上からタオルを当て、有村は久保に握っているように言う。その声があまりにも優しく響いたのだ。顔こそ向けなかったものの、久保が素直に従うくらいに。
「桜子。君がもう子供じゃないと言うのなら、和斗に連絡をして車を寄こすよう伝えてくれ」
「わたし……」
「わかってる。僕も彼らに出会うまで、言葉などなくていいと思っていたから」
痛くないか、きつくはないかと尋ねながら、有村は久保の赤みの酷い方の手を巻くようにタオルを結ぶ。逆の掌を添えるようにも言って、久保がその通りにすると、安堵するどころか苦し気に睫毛を伏せた。
「でもね。僕はやっぱり、辛い思いをした久保さんに、たったひと言、かけて欲しかったよ」
続けて、「藤堂、君は?」と有村の視線は仰ぐ格好で、藤堂へと向く。
「平気だ」
「そう。無理をさせて悪かったね」
「お前の無茶振りには慣れてる」
「そっか」
そうして立ち上がりつつ、今度は落合たちの方を見遣り、ようやく笑って見せたのだ。
「ビックリしたね。もう怖くなってしまったかもしれないけど、もし、もう一度乗馬したいと思ってくれたら、早い内に乗ってみて欲しい。時間が経つと乗れなくなるから。みんな次第だけど」
目を閉じて、小さく笑った。動けなかった草間の代わりに、すぐさま藤堂が動き出した。
すっかりと落ち着いた様子のトニーの元へ行き、以前に有村がしたように首を撫でてやりながら、「乗ってもいいか」と尋ねている。
「乗せてくれ、トニー」
藤堂は馬上へ跨り、トニーを褒める。その言葉は『ありがとう』だったから、褒めると言うより仲直りのようにも見えた。
「……あたしも乗る」
次いで踵を返したのは落合だった。彼女も、怖かった、死ぬかと思った、と言っていたのだけれど、引き返す面持ちは平然としていて、鈴木と山本も駆けっこのようにあとへ続く。
皆を見送り、有村はもう一度、草間と久保の脇に膝を着いた。
「久保さんは、今はやめておこうね。でも大丈夫。また乗りたくなったら、今度は僕が全力で、君と仲良くなれる子を探すよ」
久保は答えず、草間の胸に一層深く身を寄せた。
「草間さん」
「うん。任せて。和斗さんが来るまで、絵里ちゃんは私が見てる」
代わるつもりがあったわけでも、補うつもりで笑ったのでもなく、草間は有村にニッコリと微笑んで見せた。目が合って、彼もまた微笑みを返して来る。言葉のないやり取りが、草間に久保を抱き止める手を強くさせた。
膝を伸ばした有村が振り向いた先で、桜子は脇へ提げる両方の手を拳にしていた。俯いた顔は座る草間からも髪しか見えず、年下の女の子と思うと胸が痛い。
「きつい言い方をしてごめんね、桜子ちゃん。君も驚いたろうに、冷静に対処してくれて助かった。よく、やってくれたね。ありがとう」
「…………」
「今日のところは出直すよ。また来た時には是非、案内の続きをお願い出来るかな」
「…………うん」
「君も、怪我はない?」
「……うん」
「そう。よかった」
頭へと伸ばされる有村の手を避けるように桜子は踵を返し、走り去って行った。落合たちを先導しながら遠くなる後ろ姿を見送る有村にかける声を迷っていると、そこへやはり、藤堂が近付いていく。
「ガキでも女は気難しいな」
「生まれ以って、というのは、そういうものさ」
馬上から見下ろす藤堂と、見上げる有村。顔を見合わせて小さく笑い合うふたりから、草間はふと視線を外した。




