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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第五章 萌芽少女
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向こう側の気配

 四日目の朝は空に灰色が少し混じっていて、寝起きの草間が覗き込む窓も、まるで冬の冷気を纏っている。

 そういえば、ここへ来てから天気予報を見ていない。夜はテレビがついていたりするけれど、鈴木や落合が観ているのはバラエティー番組で、天気のことは話題にも出ていない気がする。

 夏の真っ盛り。草間も、当たり前に明日は晴れだと思って眠る。いや、改めて考えるまでもなく雨具は用意しておらず、みんなが起きる数時間後までに、あの分厚い雲が遠くへ行くのを願うばかりだ。

「…………」

 目が覚めてしまってから、まだ着替えるかどうかを悩んでいた。

 時間は六時過ぎ。普段から起きていておかしくない時間ではあるが、昨日のアスレチックが堪えたのか、身体が少し怠いのだ。今朝は畑へ行かないと聞いていれば尚更に、特に足が、足音を立てずに歩くあの『なんとか拳』みたいな動作を嫌がっている。

 なのでしばらく、窓から外を眺めていた。

 あの雲が雨雲じゃありませんように。もし雨雲でも山の天気ということで、あっという間に移動しますように。窓枠に肘を着く草間が両方の手を顎の下で組む『お祈りスタイル』だったのは、たまたまだ。

「…………」

 窓の外、視界の下の方で動く人影が見えた。

 二階の窓から眺める中庭。サラサラと風に揺れる茶色の髪もよく見えるし、そもそもこんな朝早く、彼以外の誰が活動を始めているだろう。

 有村は当然に着替えを済ませていて、右手に白いビニール袋を提げているようだった。

「…………」

 草間は微笑み、三度目でだいぶ慣れた静かな着替えに取り掛かる。

 静かに静かに部屋を出て、静かに静かに廊下を渡り、気持ちだけを急がせて、ゆっくりゆっくり階段を降りる。リビングに電気はついていない。昨日と同じ。大きなガラス戸からはそれなりの明かりが届くので、手先の作業でもしない限りは草間でも、自然の明るさを満喫するかもしれない。

「……あ。ふふっ」

 通りすがりに覗いたゴミ箱。残ったままの中身に、草間はつい笑ってしまった。

 すぐに中庭を見渡したけれど、見える範囲には既に有村の姿はなかった。どこへ行ったのだろう。靴を履いて外へ出ると、窓を冷やしただけはある空気が寒いくらいに冷えていた。

 せっかく昨日買った長袖があるのに。部屋に置いて来てしまったので、露出した腕を数回擦った。その間に左右を見て正面へ戻り、遠くを見ると邪魔になる薄靄の奥にぼんやりとした人影を捉えた草間は迷わず、板張りの階段を降りる。

 東屋がある辺り、それよりも奥だろうか。進む間にも腕を擦り、何回か空も見上げた。

「……あっ」

 顔のすぐ近くを小さな鳥が飛んで行き、上げた声で目指す人影が立ち上がった。

「草間さん? おはよう。今朝は、少し冷えるね」

 建物のそばより東屋に近付くほど、靄は濃くなっていく。声のした方へ視線を向けても、慣れない霧の奥では表情までは捉えられない。

「来るなら、ゆっくり近付いて来て? 足元に注意してね」

「……うん」

 慎重に歩を進め、草間は東屋が目前に迫ってから顔を上げた。

「……え……」

「ふふっ。驚いた?」

 驚くもなにも、草間は言葉も失くして周囲を見渡す。それほどに視界が悪かったのだ。微笑みが見える距離に近付いて初めて、草間は有村といた小さな先客たちに気が付いた。

「やっぱり、逃げて行かないね。そうだと思った」

 さっき通り過ぎた鳥が、テーブルの上で羽根を休めている。正確に、どの鳥がとは言えなかった。同じ色をした鳥が三羽いて、一回り大きい別の鳥も二羽いる。

 どちらも、あまり見たことがない鳥だった。再びベンチに腰掛けていた有村に尋ねようとして、その手の上にいる小さな毛並みに目を奪われる。薄い茶色に、太い尻尾。リスだ。

「こっちへおいでよ。足元の子たちも、君が動くのを待ってるみたいだ」

「え?」

 言われて下げた目線の先に、思いのほか大きなモフモフの毛が見えた。こちらは濃い目の茶色。灰色にも近いかもしれない。間近で見るのは初めての、タヌキが二匹。

「なに、してるの?」

「挨拶。だって、朝だもの」

 おいで。有村にそう呼ばれたのはタヌキだったようで、よく見れば大きさが多少違う二匹は行儀よく、東屋へと入って行く。

「飼ってるの? この子たち」

「ううん。住んでるの。そこの森にね」

 住んでいるということは、野生の動物なのだろう。躾など当然されていないだろうに、一匹として鳴いたり、暴れたり、有村に飛び掛かったり、噛んだりしない。

「……連れて来たの?」

「来てくれたんだよ。僕はいま、この子たちとデートしてる」

「デート……」

「取り返しにおいでよ。僕の隣り、取られちゃうよ?」

 別に、そこが自分の定位置だとは思っていない。いつもの軽口なのもわかっていて、おずおずと近付く草間はただ、クスクスと笑って迎える有村に駆け寄って行けなかっただけだ。

 取り囲むようにそばにいる動物の所為。視界を遮る霧の所為。

 実際に隣りに座ってみるまで、有村が随分と遠くに見えた。

「なにをあげてるの?」

「ナッツ。贈り物のお礼にね」

「贈り物?」

「君にもくれるそうだよ。食べなくてもいいから、受け取ってあげて」

「なに、を――」

 ――コトン。

 音がしてから目を遣れば、テーブルの上にまだ揺れている赤い木の実がひとつ、置かれていた。

「これ、昨日、ウッドデッキにあった……」

「うん。今日は三つ。三つになったのは、初めて」

「……うん?」

「きっと明日も三つだよ」

 手に取って、香りを嗅いでみる。酸味を少し、強い甘さを感じた。

「どうして、三つなの?」

「君が増えたから」

「有村くんが、二つってこと?」

「…………」

 一匹、二匹。一羽、二羽。

 少しずつ、数が増えていく。

「……美味しいよ、それ」

「……うん」

 綺麗な赤色と甘い匂いに誘われ、草間はパクリと、名前を知らない木の実を頬張る。

「わかる? だから君は入れたの」

 舌の上にあった実が邪魔をして言葉にならず、慌てた草間の口の中、奥歯の方で匂い通りの甘い果汁が溢れ出す。

「それが毒だったらどうするの。人間が言う『どうぞ』なんて、鵜呑みにしちゃいけないよ」

 甘くて。とても甘くて、飲み込んだあとに少しだけ、酸っぱい。

「有村くん」

「なぁに、草間さん」

 草間は有村の腕を引き、揺らされた掌からリスは飛び降り、ナッツが落ちる。

「おはよう。ちゃんと、顔を見て、言いたくて」

「…………そう」

 有村はシャツのポケットに草間が食べたのと同じ赤い実を入れていて、ベンチの背もたれに寄りかかるまま上を向き、開けた口へと放り込んだ。

「……ごめん。少し、考え事をしてた。あと、このくらい時間は、どうも苦手で」

「どんな風に?」

「言わないよ。気味が悪いのは知ってる」

「有村くんが不思議なことを言うのは、いつもだよ」

「ははっ。 ……美味しいね、これ」

 有村は身体を起こし、集まっていた動物たちを一通り眺めてひと言、帰らなくちゃ、と言った。

 それが、何かの合図だったのだ。鳥は飛び立ち、動物たちは走り去って行く。朝靄の東屋にふたりきりになって、草間はベンチに投げ出された有村の手を取った。

「僕は昔、あの森の中が一番、よく眠れた」

「夜に?」

「うん。朝になったら帰るようにしてた。でも何度か寝過ごしてしまって、それが見つかったのが、脱走って言われてる数回」

 取った瞬間、つい放してしまいそうだった。有村の手は氷のように冷たかった。

 冷えて、固まってしまっているようにすら思える。草間は両手で包み込み、自分の体温を分けられればと願った。

「……本当は、ずっと、あそこにいたかった。戻りたくなかった。 ……誰にも、言えなかったけど」

 今はもう、寒いかどうかも気にならない。

 分けて、分けて、もしも凍えてしまっても、草間はこの手を離せないだろう。

「……言えたよ、いま」

「…………」

「次は邪魔したりしないから、私にも、ナッツ、あげさせてくれる?」

「…………」

 目が合ったままゆっくりと、強く手が握り返される。

 きつく、きつく、痛いくらいに。それが有村の手なら草間は構わず、ゆったり微笑む。

「……次は、僕たちが会いに行こう」

「森の中に?」

「大丈夫。帰り道は、わかるから――」

 そうかなと思っていたから、抱きしめられた背中に草間は柔く、指先を添えた。

 あまりに静かな朝だから、トク、トク、トク、と鼓動が聞こえる。これも、昨日と同じ。自分のかもしれないし、有村のかもしれない。どちらでもいいと思って、草間はそっと目を閉じた。

「――――んっ」

 気が付くと、草間の視界にはまず、モコモコのブランケットが映った。

 座っているのはソファ。居る場所も東屋ではなく、別荘のリビングだ。

「あ、起きた? おはよう、草間さん。ぐっすり寝てたけど、身体、どこか痛くしてない?」

「えっ……わたし、寝て……?」

 咄嗟にという具合で、草間は慌てて口元を拭った。そこに何か感じたわけではなく、座った姿勢で寝ている時によくしてしまう失敗の確認だ。擦った指先を見る草間を笑った有村は腰に巻くタイプのエプロンをしていて、そういえば部屋中に美味しそうないい香りが漂っている。

「拭いておきました」

「えっ!」

「うそ。可愛い寝顔は見せてもらったけど」

「…………っ」

 口は開けても声が出ない驚愕の草間を笑った有村は「あははっ」を残し、キッチンへと戻って行ったようだ。起き上がりながら自分の目で確かめて、草間は時計と部屋の中、目を遣りながら気まずい脚を擦ってみる。

 いつ、寝た?

 東屋に居て、抱きしめられて、それで。

 駆け寄ったガラス戸の向こうは、快晴の青空。霧も靄も跡形もなく、そこには鳥の一羽も飛んでいない。

「……え、夢?」

 呟きながら、小刻みに頬を叩いた。痛い。それはそうだ。だって今は起きているもの。

 勢いよく振り向くと、キッチンカウンターから出て来ていた有村が驚いた顔をしたあとで、また笑った。解けるような優しい笑顔。彼らしい、穏やかな微笑みだ。

「どうしたの。まだ寝ぼけてる?」

「……の、かなぁ……」

「もう少し寝ててもいいよ。あと三十分は誰も起きて来ないだろうし」

「あ……う、うん」

 流れで頷いてしまったものの草間は眠いわけではなくて、すぐに「平気」と背中を伸ばした。

 そうして尋ねてみたところ、草間は()()の間、ソファで眠っていたらしい。心配していた失敗は、有村は見ていないとのことだ。それを聞いてひと安心。しかし、一番の気掛かりはそこではない。カウンターの中を行ったり来たり、忙しそうな有村に少しずつ近付きながら、草間はもじもじと左右の指先を揉み合わせる。

「……あの……」

「うん?」

 切り出してから、気付いて気まずい。しまった。どう言えばいいのだろう。

 数パーセント夢であった可能性があるとして、東屋で動物と戯れていたか、では変だ。ここまで運んでくれたのか、は訊くこと自体が恥ずかしい。

 自分自身の身体としては、すっきりとした目覚めのあとという風だ。当然のこと。たったいま目が覚めたのは、事実だし。

 そこで草間は恐る恐る、上目遣いで有村を見た。

 彼はどうだ。あの繋いだ手を離してはいけないような不安に駆られた、不思議な雰囲気はどこにもない。気落ちしている風も、気弱になっている風でもない。寸分違わず、普段通り。背中が真っ直ぐな、綺麗で格好良い有村洸太がそこにいる。

 だけど。

「…………今日は……何個?」

 思い切って問いかけた。霧の中の東屋にいた有村はまるで、そのまま霧に混じれて消えてしまいそうな儚さを纏っていたから。

 返答を待つ間の気まずさにヘラリと笑う草間から一、二秒。有村は数回の瞬きを落として、重たそうな口を開いた。

「……ごめん。それは、卵の数? それとも、今日は紅茶にお砂糖を?」

 顎を引く有村は頬に『わからなくて申し訳ない』とでも書かれていそうで、その風体には些細な不自然さもない。

 気まずそうで、困ってもいそうで、草間が思うに、本当にわからないでいる時の顔だ。

「あ、ごめん。なんだろう。私まだ、寝惚けてるみたい。忘れて?」

「そう? うん。わかった」

 夢だな。そう思った。

 考えてみれば、まだ手を繋ぐことも相当に気合を入れなくては自分からは出来ないのに、実際に抱きしめられて抱き返すなど自然に出来るはずがない。自分にしては、会話の察しが良過ぎた。夢だ、きっと。草間は照れ臭くて笑い、何か手伝おうとキッチンまで駆け寄る。

「あ。私も、手伝っちゃダメなのかな。分担……」

「いいんじゃない? 別に。うるさいのはまだ、爆睡してるだろうし」

 今朝もサラダを任せてもらい、草間は手を洗ってから冷蔵庫を覗く。

「今日は走りに行かないのかな、藤堂くん。毎日じゃないの?」

「ウチの方では毎日走ってるはずだよ。昨日は何かと動いたし、夜も遅くまで起きてたからね」

「何時くらい?」

「何時だったかな。一時くらいにのんちゃんたちが部屋に戻って、一時間以上は話してたと思うけど」

「えっ」

 レタスとキュウリ、パプリカは赤と黄色を両方。トマトは小振りの物を選んで扉を閉め、草間はツンと唇を尖らせる。

「それで、有村くんは何時に起きたの?」

「…………覚えてない」

「少しは休めてる? ここに来てから」

「休んでるよ。大丈夫」

「……そう……」

 そうだ、オレンジを忘れてしまった。すっかりとお気に入りになったドレッシングは昨日レシピを教えてもらい、もう草間でも作れる。

 冷蔵庫へ向かい、扉を閉めて、戻る草間の足取りは、のろのろと亀のよう。

「明日の朝、私、目が覚めたらすぐに降りて来るから、ソファで少し寝る? 起こすよ。言われた時間に。誰かが起きて来ても、起こすから」

 有村は少し考えて、「お願いしようかな」と、優しい笑みを浮かべた。

「……ごめんね、草間さん」

「いいよ。どうせ起きてるんだし。起きてから、上で本を読んでるの。ここで読んでも、同じだから」

「うん。 ……ごめん」

「いいってば。どうして謝るの?」

 口に出して言わないだけで、笑った草間は『ありがとうでしょ?』と胸の中で呟く。

 ごめんより、ありがとうがいい。草間もそうだから、今はお互い、そうなのに。

「朝から心配かけちゃって、悪いなと、思って」

 穏やかで、とても温かい気持ちで、草間は「いいよ」と微笑む。

 それくらいしか出来ないから、それくらいはさせて欲しいと思う。

「私は、有村くんみたいに色々気付けないから。どうかなって思うだけだから、しんどいなって時は言って? 嬉しいから。私」

「……うん。そうする」

「…………」

「……ありがとう」

「どういたしまして!」

 作れはするが出来は不安で、シャカシャカと混ぜ合わせたボウルの中身は有村にも味見をしてもらった。

 昨日よりは手際が良い。明日も明後日も作ったら、帰ったあともひとりで作れるようになるかもしれない。料理下手な娘がいきなりこんなに美味しいサラダを出したら、きっと驚く。ひっそりと、草間はそれを目標にしている。

 ふたりでキッチンに並ぶ、静かな朝。

 明日も、明後日も。

 新鮮な野菜を和えながら笑ってしまう草間は何度か隣りを見たけれど、パン生地を丸める横顔は一度も、向ける視線に気付いてくれなかった。

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