苦手とまたしても
さて、草間は今、それなりの危機に直面している。
特に山本のスナック菓子を買い足す為、一度車で山を下りることになった。そうと決まって落合と鈴木が目を付けたのが、サイクリングコースなども備えている自然公園。貸し出している自転車で自然を満喫する為でなく、無料で遊べるアスレチックがお目当てだ。
そこで、なのだが、草間は運動神経に難があり、体力も筋力も人一倍ないだけで、身体を動かすこと自体は好きだったりする。
日常生活の中で何かをやり遂げるという達成感をあまり得られない不器用さの所為でもあるが、飛び石のように地面から突き出した木の杭を端から端まで渡りきれたら有頂天。ターザンロープも低い方を成功して感無量。ひとつ乗り越える毎に勇気が湧いて、つい「やめた方が」という久保の助言を突っ撥ねてしまった。
「……はぁっ……はぁっ……っ」
鈴木が調べたところ、全部で三十あるアスレチックは徐々に難易度が上がる設定。上級とされているのは最後の五つだけなので、八つ目の蟻地獄は息を切らす草間を尻目に小学生くらいの子供たちが笑いながら駆け上って行く。
二回試して、足はパンパン。草間は特別、脚力がない。
上で、「どうする?」と相談しているのは聞こえている。申し訳ない。どうするも何も自分で登り切るしかないだろう。今度こそ。気持ちを強く持って体勢を低くしたところ、久々に有村が声を放った。
「草間さん。深呼吸」
「…………」
「次で登ろう。だから、もう少し休もう。深呼吸して、手と足をブラブラ振ってごらん? 力を抜いて。大丈夫。登れるから」
言われるまま手をブラブラさせていると、気に入ったのか敢えてもう一度降りて来た少女が「頑張って!」と励ましてくれた。
「斜めに走るんだよ!」
ありがとう。でもね、お姉ちゃんもそれは知ってるの。足がついて行かないだけで。
笑って見せた草間は既に心の中で泣いていて、行ける気が全くしなかった。
「いま、無理だって思ってるでしょ」
「え?」
エスパーと言えば有村だ。彼は縁にしゃがんでいて、頬杖を着く格好で草間の強敵、すり鉢の底を覗き込んでいる。
「無理だって思っちゃ出来ることも出来ないよ。その子の言う通り。二回目の速度でも倍くらい角度を付けて大丈夫だから、走るより上に向かうことを考えてみて? 君は三周も走ったら疲れちゃうんだよ。だから二周で決めるつもりでやってみて?」
「二周?」
「一周半でもいい。そのくらいの気持ちでやってごらん?」
不思議だ。具体的な数を出されると、それくらいなら頑張れそうな気がしてくる。草間は呼吸を整えたあとで息を止め、地面を蹴った。
「もっと上だ! もっと駆け上げるように!」
もっと。もっと。聞こえる声に応えるよう斜めに向かって走りたいが、コンクリートの斜面が滑ってしまう想像が頭から離れない。
「考えない! 登れる!」
目を閉じて、一生懸命走った。つらい。小さい子でも出来るのに、なんでこんなに難しいのだろう。答えは簡単。草間は運動が苦手で――私は、愚図だから。
「あと半周! 走って、草間さん!」
きっと無理だ。だっていつも、こういうのは出来た試しがないし。
思った途端、想像したより大きく足が滑った。
「あっ!」
落ちる。転ぶ。それできっと怪我をして、みんなの楽しい時間を邪魔してしまう。一瞬が随分と長い時間のように、草間に唇を縛らせた。
しかし草間は身構えた場所から滑り落ちなかった。ダメだと思った瞬間に腕を掴まれ、目を開けて見上げた先で、悠々と有村が笑っている。
「だから言ったろ! 君は出来るんだよ、諦めなければ!」
片腕一本で引き上げられ、草間は一歩、斜面を歩いた。
「ほら、出来た!」
至近距離で見上げた有村の笑顔は大きく、草間は背後のすり鉢の底を振り向く。
「出来た……」
冷静に見ると、結構深い。思う冷静な心に、じわじわと高まって来る感情がある。
滑り台より急な、こんな斜面を登って来れたのだ。足の遅い私が。運動が出来ない、私が。三回目でやっと登れた。
「登れた! 私、出来た!」
「うん! 出来た!」
草間は堪らなく嬉しくて、今度は有村を背にぴょんぴょんと飛び跳ねる。そのまま落合と久保の元へ走って行くと、ふたりも頭を撫でてくれたり、一回目と二回目の失敗で砂の付いた足を手で払ってくれたりした。
「やったじゃん! 仁恵!」
「うん!」
みんなにとっては一回で普通に出来てしまうこと。少なくとも、褒めてもらえるようなことではないこと。わかっていても草間は嬉しい。これまで出来たことがなかったから。
「お前、草間抱えて登れたろ」
ふと、後ろからそんな声がした。
「意地悪だなぁ、藤堂。出来るの知ってて余計な手出しをするのを、野暮って言うんだよ?」
揶揄うみたいな声色で、有村が答える。そうやって当たり前に『出来る』と言ってくれるところが、草間は大好きだ。
数字が十を越え、十五を過ぎる頃、難易度を増すアスレチックに苦労するのは草間だけではなくなっていた。
代わりに多少レベルを落とした『小さい方』や『低い方』が横に並ぶようになり、山本や久保もそちらを選ぶことが増えている。そんな中ひと際目立っているのが、真っ先に取り掛かるのにアスレチックの使い方を平然と間違える有村だ。彼はどうやら少し、身軽が過ぎてしまうらしい。
「違う。ぶら下がって腕の力で渡るんだ。雲梯。上に登ってどうする」
「あ。そうか。だよね。歩いて行くだけじゃ随分簡単だと思ったんだよ」
「降りろ。危ねぇから」
「はーい」
基本的に、何でも上に立とうとするのだ。今は草間が選んだ簡単な方より距離があり、登って下る造りになっている雲梯の上に真っ直ぐに立っていて、藤堂が手招くとひょいっと軽く飛び降りた。
「まるでサルね」
吐き捨てたのは久保だったが、草間も少し思っていたから咄嗟に言葉が出なかった。前に藤堂が有村は指先がかかればどこでも登ると言っていた気がするが、確かにその通りだったのだ。
しかし草間がその腕力より驚いているのは、有村が高所をまるで怖がらないことだ。さすがに簡単な方でも足が竦んで、下から見ていた二つ前。命綱を付け、遥か頭上に渡された板の上を歩くというものだったのだが、有村は「高い!」とケラケラ笑って駆け抜けた。
落ちるかも、とか思わないのかな。藤堂でさえ慎重に挑んでいるというのに。
だから藤堂はもう二十回くらい『危ない!』と叫んでいるし、『やめろ!』と叱っている。
「有村! お前ホラ、綱着けろ」
「それ嫌い。落ちなきゃいいんでしょ?」
「そういう決まりだ。着けろ」
「えー」
渋々腰にロープを固定し、有村はまた一切の躊躇いないスピードで、寧ろ蹴り出す前に勢いまで付けて大木から大木へ渡るスケボーのような乗り物で風を切る。因みに、恐らく掴まれるように張られてるロープは減速した際に使っただけ。
「あはははっ! ねぇコレすごく楽しい! モモンガになった気分! 手を広げてみて、藤堂!」
「無茶言うな!」
「じゃぁ、のんちゃん!」
「バカじゃねぇの! お前、ぜってー体幹異常だかんな!」
底抜けに楽しそうな有村の笑い声の響くこと。下から見上げる草間には笑っていることしか見えない上空で、彼はいつにも増して無邪気である。
二十を過ぎ、いよいよ二十五がやって来て、腕が怠るさが限界と鈴木も草間たち観覧組のひとりになった。これで次へ挑むのは有村と藤堂だけ。二十九番は垂直の壁を登る、クライムウォールだ。
二十八番の頂上付近がネズミ返しのようになった壁を駆け上る関門を、何とか腕の力でよじ登った鈴木は「足も怠い」と、両方の腿を叩く。十は前から一回休ませろと言っているのに有村と藤堂がどんどん進んでしまうから、単に疲労困憊でもあるらしい。
「ったく、アイツらホント、体力鬼だぜ」
怖いのさえ乗り越えてしまえばという物もあるが、番号が進むほど鈴木曰くの『よじ登る系』が増えているのだけれど、高い壁を見上げてなにやら話し合っているふたりはまだ一度も、休憩らしいひと呼吸を取っていない。
体力自慢は藤堂だけのように言うくせに有村も相当だと、顔にも『お疲れ』が滲む鈴木が嫌そうに言った。
「あ、足もかけて良いの」
「じゃねぇと無理だろうが。どうしてそう難易度を上げる」
「いやホラ、指の形になってるから、指用なのかと思って」
「用とかねぇから。手と足使って、上まで行きゃぁいい」
「なるほどー」
壁は横にも広く、「競争するか」としたり顔の藤堂が尋ねる。有村は指を鳴らし、「いいね」と乗り気な様子。ふたりはいつもそうやって何かと競争するのだと、山本が教えてくれた。賭けるのは大抵がアイスか珈琲で、戦績は五分五分なのだとか。
「藤堂と張り合えんのは、ウチのクラスじゃ有村くらいなもん」
「そうなんだ……」
そうは言いつつ、スピード勝負なら有村に分があると、山本はふたりの背中に声援を送る。
「競争って言った時の有村はすげーぞー?」
「すごい?」
逆隣りの方から、ようやく真っ直ぐに立った鈴木が付け加えた。
「別に手ぇ抜くわけじゃないみたいだけど、有村は基本、勝ちに拘らないからな。出来たら満足なんだ、アイツ」
わかる気がして、草間も軽いストレッチで首を回したりするふたりを見た。
「じゃ、行こっか」
「おう」
用意、も、どん、もなく、横並びで互いを見ていた有村と藤堂は突然、同時に登り始める。山本の予想は正しく、先行したのは有村だった。迷いがないのは藤堂も同じだが、やはりここでも有村の方があまりに身軽。ひょい、ひょい、という具合に次の石まで飛び跳ねるように進んで行くから、中盤に差し掛かる頃には足が藤堂の頭近くにあった。
きっとこのままぶっちぎりでゴールするのだろうと思っていた矢先、遠くなっていく有村の背中を見ていた草間は、ふとした違和感に小首を傾げた。
気の所為だろうか。高い場所が怖くないはずの有村が心なしか慎重になり、スピードが落ちた気する。見ている限りではその減速を原因にして、競争は藤堂の逆転勝利と相成った。
降りて来た有村に、草間はこっそりと尋ねてみる。
「上の方すごく汚れてて、ちょっと触るの嫌になっちゃって。ヌルってしたんだよね。途中で」
「…………」
あまりに有村らしい気がして草間は笑ってしまい、勝因に『不潔だったから』という理由が出来てしまった藤堂は不満たっぷりに、手の汚れを気にする頭を後ろから叩いた。
ポスッと弾む毛先。しかし、微動だにしない身体。
念の為に持って来ていたウェットティッシュを差し出した草間は、藤堂にも一枚あげた。
そうして面々は大とり、三十番の入口に立った。最後は腕力も脚力も必要のない関門、木製の壁で作られた巨大迷路だ。
中頃には全体を見渡せそうな背の高い櫓があり、両親や兄妹と手を繋いだ小さな子供達も次々に入って行く。七人組の草間達は同時に入ってもつまらないということで、どうせすぐに抜けてしまうであろう男子達が一人ずつ一分おきに出発し、最後に女子三人が一緒に挑むことになった。言わずもがな、相当な方向音痴である草間を久保と落合が出口へ連れて行く為に。
通路は狭く、高校生が手を繋いで並ぶのは窮屈なほど。そこを縦横無尽に子供達が駆け回っているので、草間達は縦に一列で先を急いだ。
一番背の高い久保でも見晴らしは悪いらしい。何度か行き止まりに阻まれたあと、元気の良い落合が先を偵察して来たりして三人は少しずつ櫓へ近付き、通り越して行く。
「キミちゃんは櫓、登らなくて良かったの?」
「だって、さっき登ってた姫様の悪目立ち見たら恥ずいって」
「子供しか登ってないものね」
「あっちの方、指差してたよね」
「有村くんのアレはアテにしない方がいいと思う。出口じゃなくて、何か気になっただけかも」
「……へぇ。仁恵も言うようになったんねぇ」
「え?」
「仁恵に苦労かけて。アイツ、やっぱり一回懲らしめておこうかしら」
「えぇ!」
先頭からは揶揄う気配、すぐ近くからは不穏な気配がして草間は慌て、そうして少しだけ余所見をした。
擦れ違う子供に道を開けたほんの数秒。それが草間の致命傷。
「……あれ? キミちゃん? 絵里ちゃん? どこ?」
見えなくなった姿を探して小走りに、迷路の中を彷徨った。油断大敵。命取り。これまで何度も痛感しているものの、今回も敢え無く迷子の誕生である。
「えっ、キミちゃん! 絵里ちゃん! どこにいるのー!」
叫びながら、焦りに急かされ草間は走った。行き止まり。こちらも行き止まり。右へ左へ折れて曲がって引き返し、気付けばグルグルと三回目の櫓の麓。
「……迷っちゃった……」
櫓を過ぎてから入った通路は覚えている。道なりへ進み、最初の突き当りは確か右、そう思って先程行き止まりになったので、今度は左。息を切らして、草間は走る。笑いながら駆けて行く子供に混じってただ一人、今にも泣き出しそうな顔で。
「――草間さーん! どこにいるー? 聞こえたら返事してー!」
また、行き止まり。
いよいよ目の表面が潤み出したその耳に届いた救世主に応え、草間は精一杯の大声で「ここです!」と叫ぶ。櫓が中心なら、そこから右寄りの辺り。告げて待つ間、これで出られると安堵する反面、また迷子になった草間は情けなくて進路を阻む壁に手を着いた。
「あ、結構古い」
腐ってはいないまでも、屋外に設置されて何年かという木製の壁だ。黒い変色は老朽化の証で、思い切り押せば非力な女の力でも揺らせそうな気がする。
等間隔に並べた角材に薄い板を張り付けただけの、元々そう頑丈な造りでもないのだろう。所詮は入口から出口までを囲うだけの壁。何を支えるわけでもなし。
そう、何の重さがかかるわけでもなし。
「動かないで待っててねー! すぐに行くからー!」
なにせ、通路を通路たらしめる為だけの物。立っているだけで事足りる壁に三方を囲まれながら、草間は空いた一方を正面に待っていた。
待っていたのは足音だ。だから耳を澄ましていたというのに、背伸びをする準備をしていた草間の元へやって来たのは、薄い影。
真横からふわりと、地面へ落ちた。
「いた。お待たせ、草間さん」
声のする方へ、草間はゆっくりと視線を向けた。
そうして仰いだ目が丸くなり、開いた口が用意していなかった言葉を叫ぶ。
「なんでそんな所にしゃがんでるの! 危ないから降りて、有村くん!」
万が一にも落ちて怪我をしたら、小さな子供がマネをしたらどうするの。
昼下がりの迷路に響き渡った草間の怒声。パチパチと瞬く有村の丸く大きな目に草間は再び、「早く降りて!」と力の限りに叫んでいた。




