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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第五章 萌芽少女
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あなたが下を向くのなら

 有村くんだ。

 予告通りにゲートを過ぎて間もなく速度を落とした馬の背にゆるゆる揺られ、首へ回した腕に込める力を迷いつつ、草間は思う。

 有村くんだなぁ。

 もう力一杯にしがみ付く必要なく、けれど解いてしまうわけにもいかない腕。寄りかかる胸に耳をすませば鼓動まで聞こえて来そうで、不思議な安心感の中、おかしいくらい草間は思う。

 有村くんだ。

 何度も、何度でもそう思っては、想う胸が温かい。

 見せたい場所があると言っていた。だから、きっとそちらへ向かっているのであろう道は次第に、白い土から瑞々しい緑へと色を変えていた。進む蹄の音もじっくりと聞けば、最初と違う。

「嬉しいなぁ」

「え?」

「草間さんがこんなにしっかり抱き着いてくれるなら、もっと早く馬に乗ればよかった」

「だっ! だってこれは、し、仕方なく……!」

「わかってるよ。でも、嬉しいのだって仕方ないでしょう?」

「…………っ」

 仕方がない理由がないと、真っ赤に爆ぜて俯いた草間はまだ、相当な勇気を出さなければ有村に触れない。

 恥ずかしいだけ、緊張してしまうだけで、本当はこうして触れ合い、その体温を感じると無性に嬉しい。嬉しいし、何故だか少し泣きそうになる。バイト先の先輩、堀北に相談したら、それは幸せだからだと教えられた。幸せも過ぎてしまうと胸がいっぱいになって、涙が出そうになるらしい。涙はいつも大忙しだ。

「だいぶ山っぽくなって来たでしょ? もうすぐ着くよ」

「どんな場所?」

「んー……なんだろう。昼寝とかに最適そうな場所? 最初はこの子のおばあちゃんが教えてくれてね。単に近くの川で、水が飲みたかっただけかもしれないけど」

「よく行くの?」

「ここに来たら、毎回ね。誰かと行くのは初めてだよ。下手に教えて迎えに来られたら嫌だからね」

「和斗さんにも?」

「もちろん! 彼には一番、教えたくない!」

 そういえば、草間は今朝も少し泣いた。それが随分と前のことのように思える。

 何日も、何週間も、何ヶ月も前のことみたい。草間は躊躇いながら、有村の胸に頭を預けてみたりした。温かくて、ちょっと硬い。不思議だ。始まりだったはずなのに、有村が微笑みの王子様からかけ離れるほど、思いもしなかった顔を見せるほど、この感触や体温がひどく大事な物のような気がする。今ここにいる有村が何より、大切に想う。

 烏滸がましいな。相変わらずの草間はそこで頭を離した。

 こんな私でも、少しでも、有村くんになにか。草間は最近、そんなことをよく考えている。

「体勢、つらくない? 僕はこのままが嬉しいけど、跨るなら一度止めようか」

「……もう着くなら、行きは、これで……」

「いま初めて、乗馬を習っておいてよかったって思った」

「乗りたかったからでしょう?」

「ううん。習う前から乗って……いや。しがみ付いてたんだ、最初。それだと絶対に落ちるからって、佐々木さんが。このくらいの高さでも落ちたら怪我をするし、緊急時には命令が必要でしょう? それを習った。君を乗せるなら、やっと覚えた甲斐がある」

 本やテレビで見たものでは、手綱を引いたり、腹を蹴ったりしていたアレのことだろうか。

 思い出しながら、草間は流れていく景色を映す視界の隅で有村を見つめる。

「佐々木さんが、有村くんは動物に命令しないって」

「しないよ。僕がするのは、お願い。みんなは優しいから聞いてくれる」

 有村くんが優しいからだよ。

 言わない代わりに草間はコツンと、勇気を出して有村に少しだけ体重を預けた。

 そうして斜めになった視界で、ふと気付く。どうやら高台を目指して登っているらしい。見晴らしはどんどんと良くなって、真っ青な空が近付いて来るみたいだ。

 夏らしい空。薄い雲のひとつもない。おかげでジリジリと暑いけれど、選んで進んでいる気がする木の影に抜ける風は爽やかで、汗がじっとりと絡む、ということはない。そうでなければ恥ずかしい。なにせピッタリと貼り付く有村のシャツは、少しも濡れていないのだもの。

 考えたら、ふと心配になってしまった。草間は、どちらかというと暑がりだ。汗も結構かき易い。

 もしかしたら回しているこの腕も、燃えるように熱かったりしていないだろうか。気になったら、別のことに気が付いてしまう。なんだろう。この、触れている場所の贅肉が少しもない感じ。そういえば藤堂が自慢気に持ち上げたシャツの下に見えた腹もぺったんこだった。有村は見た目以上に痩せているのかもしれない。

 対して草間はというと、座る体勢では少しだけ、どうにも腹が柔らかい。別にウエストに乗ってしまうほどではないのだ。しかし、それが言い訳がましくなるくらい、ぷにぷにしている。

 下腹に力を入れてみた。それで息が止まってしまう。近くの声が笑うので気付かれてしまったのかと思ったが、間もなく馬が足を止めた。

「着いたよ。いやぁ、ビックリするくらい変わってない」

 先に降りた有村が差し出す手を取り、草間も馬を降りた。勇気を出して飛び降りたのだが、着地はふわりと羽根のよう。絶対に、バレたと思う。有村は草間の腹を抱きかかえて降ろしたのだ。

 気まずくて、数回だけ腹を擦った。しかし、目にした景色に一瞬で心を奪われてしまう。

「なに、ここ……すごい……」

 近くの木に手綱を結び、隣りまで戻って来た有村を見上げた時、草間には興奮しかなかった。目や表情だけでなく、うっかりピョンっと飛び跳ねてしまったほどだ。

「キレイ! 映画みたい!」

 それはよかったと、有村が微笑む。その反応は冷静過ぎる。

 エリザベスの背中に揺られて降り立ったその場所は、森に開いた自然の踊り場。小さな滝から流れ落ちる透明な川のせせらぎを中心に広がる、一面の新緑だ。

 水縁に転がる石以外は鮮やかな緑の絨毯で、そこかしこに名前のわからない可愛い花が咲いている。ドーム状になっていると言ってもいい。囲む木々は大きくて、天然のパラソルのようだ。その木陰に寝転んでしまったら、早速、川の水で喉を潤すエリザベスの姿を含め、この優雅で雄大な景色を何時間も見つめてしまう気がする。

 興奮と感動で、草間は口を覆った自分の手が震えているのに気が付いた。呼吸も少し浅くなっている。泣いてしまいそうにもなっていた。東京と変わらない照り付ける太陽のはずが、ここでは太く差しても木漏れ日のように淡い。なにもかもが、途方もなく優しい。

「気に入って貰えたようで」

「うん! ああもう、携帯持ってくればよかった。写真撮りたかった」

「また来ればいい」

「みんなと一緒に?」

「いいや。君以外を連れて来る気はない」

 有村は両腕を上げて伸びをして、草間に背中を向けた。近付いて行ったエリザベスを撫でてここまでの走りをひとしきり褒めると不意にしゃがみ、「美味しい?」と尋ねながらエリザベスが口を付けているすぐ近くの水を掬ってひと口飲んだ。

「この冷たさも、変わらないなぁ」

 そこからふらりと木陰に入り、招かれたので、草間も大樹が作る安息地で腰を下ろした。

「君、藤堂に巻き込まれたね?」

 頭を振るエリザベスか水面を見て、有村の横顔が言う。

「いいんだ。悪いのは僕だ。僕の弱さが、君にあんな醜態を見せた。心苦しく思ってくれた藤堂が君に洗い浚い話したところで、僕に彼を責める権利はない。君の同情を要らないと言う資格も」

 有村は両膝を立てて座っていた。草間と同じ体勢だ。

 爪先の位置も、そう大きくは変わらない。

「君が手を取ってくれて嬉しかった。些細なことで息が出来なくなるような男の手だ。最後のデートなら、ここが良かった。写真を撮りたいのなら今度は車で、ここと似た場所に案内しよう」

「……最後だから、連れて来てくれたの?」

「まさか。未練がましく、君がここを気に入ればいいと」

 何も考えず座る時、草間がこの体勢になるのは癖だ。膝を抱えて、背中を丸める。この座り方の良い所は草間が思うにひとつしかない。膝の間に顔を埋めて、自分だけの世界に入れるということだ。

 彼の長い脚は、気ままに放り出されている方が似合う。なのに、膝を抱える腕が妙にしっくり来ているのがわかった。ずっと見ているのに、有村がこちらを見ない。草間はたぶん二回目だから落ち着いていて、そっと腕に重なる骨張った手に触れた。

「次も、ここがいいな」

「…………」

「私は、具合が悪くなった有村くんしか見てないよ」

 もしもここが本当に誰にも打ち明けられていない秘密の場所なら、草間もここを秘密にしたいと思った。

 なによりも目の奥が素直。悲しくて、寂しくて、そんな目を隠せない不器用な有村を自分だけが知っているのなら、誇らしいくらいだ。

「身体、つらくない? 藤堂くんが、副作用があるって」

「大したことはないよ。何十錠飲んでも死ねないような弱い薬だ。でも、藤堂はきっと君に言ったろう。僕は薬で眠る必要がある病人だから離れろ、と。正論だ。彼は誰よりも今朝のような場面に出くわしているから、僕の異常性が君を傷付けてしまうのを案じている。僕と、同じくらいに」

 今は泣いているみたいに見えた。表面が潤んでいるというわけでもないのに。

 草間は、触れているだけだった手に指を回した。

「私は、傷付いてない」

「…………」

「それに、もう知ってる。有村くんは結構、心が繊細」

「…………」

「……キレイだね。ここ」

 どうなるか、わかっていた気がする。目が合った時から、もしかすればエリザベスを撫でる背中を見た時から。馬上から誘われた時に気が付いたよと言えたら、格好がつくのだろうけれど。

 まだそこまで大人ではないから、伸びて来た腕が二の腕の横を過ぎ、背中に触れて抱き寄せられても、しっかりと抱き返すことが出来ない。腕を持ち上げてから、有村は顔を上げなかった。俯いたままで草間を抱きしめた。肩に埋まるようにして摺り寄せられる仕草が、抱きしめる力の強さが、こんなにも心に痛いのに。

「……ごめんね。気持ち悪いのを、見せてしまって」

「…………っ」

 囁きほどのか細い謝罪はトドメだった。草間の目は見開き、噛み締めた奥歯の所為で頬が妙に引き攣れる。

 苦しいでも、辛いでもない。こんな時でさえ見せてしまったと、相手を気遣い詫びるのだ。落ち度はないのに謝らせてしまったのが、草間は悔しい。

「……そんな風に、思ってない」

 悔しくて仕方なかった。なにかしたいのに、何を言えばいいのかもわからない。

 わからない頭で、懸命に考えた。励ますのが良いか、慰めるのが良いか。考えて、考えて、どちらも自分がするのはおかしい気がした。それでもひとつだけするべきだと思ったから、草間は初めて、掌の全部で有村の背中に触れた。

「……でも今日は、朝から気持ちが忙しいな。楽しかったり、嬉しかったり、驚いたり……幸せ、だったり。有村くんといると、いつもそうだけど」

 触れてみて初めて知る。彼の身体がそんなに大きくはないこと。浮き上がる骨のおうとつが、やけにハッキリとしていること――見るだけでは気付けないくらいに小さく、震えていたこと。

 少しずつ抱き寄せる方に力を込めながら、前にもあったのを思い出す。存外、有村は震えやすいと思う。言葉にすると少し面白い。嬉しくても震えるのだもの、本当はそれだけ強い感情がこの中にあるのだと思うと、草間は更に身を寄せていた。

 そうじゃないような顔をしているのに。いつでも、淡々と話すのに。だからこそ、この震えがやけに嬉しい。大切にしたくなるのだ。彼が耐えて耐えて我慢出来なかったものならば、尚更に。

「さすがにね、ちょっと慣れたよ。嬉しいとか恥ずかしいが限界超えちゃうんだけど、そうやってすぐに最後とか言うの。早く麻痺しちゃったらいいと思う。どっちも、有村くんと居るんだなぁって思うから」

「……情緒が不安定なのは僕の方か」

「だったらいいな。私だけじゃ恥ずかしいもん」

 言葉を紡ぎながら、草間は思う。彼も、自分と同じだ、と。

 完璧に見えるけれど、完璧じゃない。頑張っているし、我慢もしている。後悔や悩みもある。

 好き。改めてそう感じたら、草間は頬が緩んでしまった。

「私ね、ちょっと意地悪になろうと思うの。だから言うね。有村くんがこうやって、ちょっと寄りかかってくれるの、嬉しいです」

「……意地悪の意味、知らないの?」

「知ってます。有村くんて、すごいんだよ。幾つも目があるみたいに色々見ててね、みんなのこと知ってるの。それで、一番嬉しくて、受け取りやすい優しさをくれるの。出来ないよ、普通の人じゃ。そんなすごい人にしがみ付かれてる私って、ちょっと、すごい」

「……わからない」

「ホラ、すごい。有村くんに勝った」

「……うん。うん。勝った。勝った」

「ねー?」

 楽しくなって、クスクス笑った。

 つられてくれるのを期待したのに、有村は抱きしめる腕の力を強くした。

「本当に、つらいところない? 身体、どこか変だったりしてない?」

「……少し、怠いだけ。記憶も、大体はすぐに戻ってるんだ、いつも」

 戻らないのは、ほんの一部。明かした有村は抱擁の腕を解き、草間に一枚の紙を見せた。

「ポケットに入ってた。これ、何か知らない?」

 二つに折られた、無地の白い紙だ。

 書かれているのは電話番号。草間は正直に、首を横へ振る。

「知らない。たぶん、私と藤堂くんが離れたあとに、メイドさんから貰ったんじゃないかな。それまではずっと、そばにいたから」

「そっか。多枝さんじゃないとなると、受け取ってるってことは個人的なものではないだろうから、渡すよう頼まれたもの、志津さんのかな。でも、なぜ僕に? 和斗を通した方が確実なのに、なぜ別の人に」

 軽薄かなとは思ったけれど、草間は「すぐに思い出すよ」と微笑んだ。妙な自信があったのだ。少しだけ驚いたように目を大きくした有村ならきっと、気になることを忘れたままでいるはずがない。

「……君は、本当に何とも思わないの? 見聞きしたことを忘れる、僕のこと」

 小さく鳴いたエリザベスに気を取られ一瞬だけキラキラ輝く小川を眺めたが、草間は無理なく、ずっと微笑んでいた。

「今だけでしょ? 私なんてドジだから、忘れたいことたくさんある。何もない所で転んでも、有村くんは怪我の心配しかしない。私もそう。いま有村くんが元気なら、それでいい」

 見ていたら、草間も喉が渇いてしまった。エリザベスが美味しそうに飲む水の味を知りたくなってしまったのだ。

 思い立ったらすぐに立ち上がり、草間は川の近くまで走って行った。しゃがんで覗き込むと、本当に透明な水だ。手を入れれば指先が痺れるほどの冷たさで、掬い上げた水をひと口含むと背筋が伸びる。

 冷たくて、美味しい。気持ちも気分もキリリとした。

「……わっ!」

 後ろから抱き着かれた草間の手から零れた水が、川の中へと戻って行く。

「君、ここと同じイロをしてる」

「いろ?」

 振り向こうとするけれど、草間は首から上しか動かせずに、横目で有村を窺う。

「僕は、自分のイロがわからない。わからなくて、怖い。藤堂なんかじゃどうにも出来ない。だからもし君が僕を怖いと感じたら、どうか僕に言ってくれ。どうにかして、君から離れるから」

 数回の瞬きを落とす間だけ草間は考えて首以外に動かせる腕を伸ばすと、指先で掬えるだけのありったけの水を自分の肩と、そこにくっついている有村の頭にかけた。

 パシャッ。濡れたTシャツが、少しの割にとても冷たい。

「目、覚めた?」

「…………」

 今度こそ真ん丸になった有村の目を見て笑い、草間は急いで靴を脱ぐ。

 靴下も脱いでパンツの裾を数回折り、立ち上がる時には有村の手を両手で引いて川の中へと入って行く。

「うわぁ、冷たい! でも気持ちいい!」

「…………」

「ね。意地悪でしょ、私。自分は靴を脱いで、有村くんはそのまま。仕返しだよ。嫌なこと言うから!」

「…………」

「えいっ!」

 次は両手を使って、有村に水を浴びせた。

 飛び散る水の粒が輝いて、上手く届いた有村の髪の先からポタポタと垂れる。

「有村くんなんか怖くないよ! どうせ、やり返したりしないでしょ?」

 本当は浸かってしまいたいくらいに気持ちの良い水だ。木陰から出て太陽が燦々と注ぐけれど体温は上がり切らずに、ついでの飛沫で濡れた服が汗を冷まして心地良い。

 得意げに笑う草間の前で、開いていた有村の口の隙間が、一回閉じた。

「……確かに、君の服は濡らせないなぁ」

「ほらねー!」

 濡れた髪を掻き上げた有村が、やっと笑った。草間は嬉しくて、緩やかなせせらぎを小さく蹴り上げてみる。

「あ! いま、魚がいた気がする」

「どこ?」

「あの辺。ビックリさせちゃったかな」

「あーあ」

 クスリと笑い出したのは、どちらが先だっただろう。

 見つめ合い、笑い合って、草間は逃げた小魚を探すべく、有村と一緒に川底を覗き込んだ。

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