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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第四章 黎明少年
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あっち

 藤堂との間に挟むと、草間がその位置を嫌がった。

 どっちを見ればいいかわからない、というのは草間らしい理由に思えたが、続けてポソリと零した「捕らわれた宇宙人みたいだし」というのがよくわからず、有村と藤堂は視線を合わせて首を傾げる。

「身長差のことを言ってる?」

「有村くん……!」

「両脇SPに守られてる海外セレブとか思えよ」

「いいね、それ!」

「よくないよ!」

 なので残りの帰路は有村がセンターに収まった。

 そうなると有村は、藤堂に後頭部を向けている時間が長い。その肩を、藤堂が不意に叩いた。

 顎で促される視線の先に、ふたつの人影がある。進行方向と押している大振りのカートを見るに、和斗が言っていた不用品の回収に来たのだろう。着ている服は志津の屋敷にいるメイドたちの物で、コンタクトレンズにもう少し頑張ってもらえるよう目を凝らした有村は、前を行く方の顔にだけ見覚えがあった。

 隣りで草間がそわそわしていたし、気付いたふたりに会釈をされると、有村は歩調を速めて近付いた。その女性は昔からここにいる人物で、到着の際に和斗に声をかけたメイド長でもある。無論、有村が口を利いていい人物だ。

「おはようございます。そのお荷物、みなさんで菜園へ行かれましたの?」

「おはようございます。せっかくですので、お邪魔して来たところです」

 会釈を解いてもらえなかったのでもうひとりの顔を見て挨拶は出来なかったが、彼女が話しかけたということは、大丈夫な人なのだろう。そのくらいの信頼は置いている彼女に草間が声をかけ、朝の挨拶と回収の礼を言っていた。言わずもがな、藤堂は「おはようございます」のひと言だ。

「昨日、あまりに坊ちゃんにされてしまったので、もう話しかけて頂けないのかと」

「意地悪を仰らないでください。まだ本家の方にお会いしたことがない新人がおりまして」

「なるほど。僕に慣れてはいけませんね」

「お察しくださり、恐縮です」

 基本的に、メイドたちは名乗らない。なので有村は彼女の名前を知らないが、志津は確かマリーと呼んでいる。見たところ純粋な日本人のようなので志津が癖で付けた愛称なら、それで呼ぶのは憚られた。

 やり取りの口調自体は堅苦しいけれど、もし名乗って貰えたならその名前を呼びながら駆け足になるくらいには、有村はマリーにだいぶ世話になった。川に入ってしまい、びしょ濡れになったリリーの巻き添えで水浸しになったのを、慌てて風呂へ運ばれたのがいい思い出だ。

 失礼しますと言われるなり、小脇に抱えて走られた。あれから、ふと数えて十年ほど。

 今では追い抜いてしまった身長が、有村は少し照れ臭かった。

「相変わらず、坊ちゃんの朝はお早いようで」

「ここの朝は格別、気持ちが良いものですから」

「それは、よろしゅうございました」

 目線が、すっかりと仰ぐ角度だ。殊更小さな子供だった有村には大きく見えた体格も、実際は至って平均的。

 ただ働き者のマリーは華奢でなく、ほんの少しふくよかで、肌も健康的な薄い小麦色をしていた。ひとつに纏め上げられた髪は脳天近くの高い場所で団子にされ、僅かに吊り上げられた目元が上目遣いと相まって、より彼女をハツラツとして見せる。

 その健やかが、ほんの僅かに翳った。

「もしかして、お目に掛かれるかと。楽しくお過ごしのところ申し訳ございませんが、そうお手間は取らせませんので、少し、お時間を」

 多少の重量を纏ったマリーの声には、剣幕とも呼べそうな強さがあった。出来損ないでも、血族の端くれ。坊ちゃんの有村にはこの場所で、それに応える義務がある。

 ましてマリーの申し出だ。断る理由がなかった。有村は振り返り、藤堂にもう片方の荷物を差し出した。

「すまないが、これを持って先に戻ってくれるかい? 草間さんも一緒に行って、藤堂に野菜を地面に置かせないで」

「置かねぇよ。お前は嫌がる」

「どうだか。草間さん、見張りをお願い」

「……うん。わかった」

 無表情が常の藤堂は別として、草間はどこか悲しげだった。物言いたげに有村を見上げても唇は固く閉ざされ、草間は目線を先に、次いで身体ごとマリーたちの方へ向き直ると、深々と頭を下げる。

「私、草間仁恵と言います。昨日は言えなかったので、これから一週間、お世話になります」

 一束で降りた、ポニーテールの先が揺れていた。放たれた声も、小さく揺れていた。

 それほどの緊張は会釈を解いても草間の全身に纏わりついたままで、一連を見つめていた有村は再び視線が重なる強い目に、見える感情のいろを迷う。

 誇らしげ、ではない。憤っている風でもない。強張っているようにも見えず、ただ、やはりどこか悲しげな色味が差している、草間の瞳。

「先に行くね。暑くなって来たし、お部屋涼しくして待ってる、ね……?」

「うん」

 早々に歩き出していた藤堂を追いかけ、草間は駆け足で遠退いて行った。見送る有村は、ふと思う。今のは少し、草間らしくない気がした。彼女は異様に気を遣うから、この場で敢えて待っていると口に出すのは違和感がある。

 なんだろう。どうしたのだろう。

 ひどく気に掛ったのだけれど、背後からした「素敵な方ですね」と言うマリーの声に有村は振り向き、ニコリと笑った。

「本当に、僕には勿体ないくらいで」

「……本当に、わかっていらっしゃる?」

 マリーは、有村よりもずっと大きく笑っていた。

 そして、随分と優し気に目を細めて言った。もう相当に小さくなった二つの背中がある方を見つめながら、安心しました、と。

 意味を汲み取れない有村を見上げて、マリーの笑顔が儚くなる。

「いけませんね。私たちはまだ、あなたから奪ってしまう」

「別に、何も奪われていませんが?」

 先の意味も、次の言葉も汲み取れないまま否定する有村から視線を外し、マリーはゆるゆると首を左右に振った。

「どうかそのお言葉が、坊ちゃんのお気遣いでありますよう」

 マリーは本当に有村を長く引き留める気はないようで、ポケットから取り出した白い封筒をそっと静かに差し出して来る。

「志津様からのご伝言です。いつでも、待っている、と」

 折られただけで閉じられていない封を開けると、中には二つ折りの小さな紙が一枚入っていた。

 訝しむまま紙を開き、目にしたものに有村の瞳が開く。たったの一行。ハイフンを間に挟む、十一桁の数字の羅列。

「これは?」

「他の誰も介さない、志津様の連絡先です」

「どうして、それを僕に」

 問いかけに、マリーは答えなかった。けれど、これが答えだとでも言うような強い目で有村を見つめ、閉ざした口の中で唇を噛む。

「わたくしは一介の使用人でございますので、どうかご容赦を。ただ志津様は、坊ちゃんはきっとそれをお使いにならないだろうと仰っていました。それでも、お渡しするように、と」

 鼓膜を震わす声に耳を澄ました。目を凝らして、伝達人の瞳を覗いた。

 汲もうとした。見つけようとした。探した――しかし、有村はマリーから何も読み取れなかった。

 わかるのは、彼女が何かを伝えようとしていること。それがわかるのに、何ひとつとして入って来ない。全てが通り抜けてしまうかのように、若しくは、かなりの手前で弾かれてしまうかのように。そこへ来て、有村にはもうひとつわかった。まただ。記憶を呼び起こそうとする度に脳裏を覆う、分厚い靄。思考を妨げ、頭の中を空白にしたがるアレがまた、邪魔をしている。

 わからない。なにもみえない。

 その靄を越えた先にはきっと失くした何かがあるのだろうが、足が竦んで動けない――入るのが、怖い。

「…………っ」

 知らず奥歯を噛みしめていた有村の手が片方、不意に掬い上げられた。

 浮き上がらせたマリーは包む両方の親指で、たった一度、有村の指先を撫でた。触れるより、ずっと薄く。爪の上に感じるささやかな体温が、震えていた。

「坊ちゃんがまた水浸しになってしまわれたら、わたくしは何度でも、脇に抱えて走りますよ」

 見せられたのは、精一杯の笑顔。堪えようと強張るのに、震えてしまう口の赤。

 それは樹海に射した道標のようだった。出口はこちらと教えてもらい、立ち込める靄が仲間の耳鳴りを連れて遠ざかっていく。

「……温かいお湯に肩まで浸けたあと、また、甘いココアを淹れてくださる?」

 おずおずと離れて行く指先を留める為に取り直し、有村はその手を自らの胸の近くへ引き寄せる。

「ええ……ええ。とびきり甘い、とっておきのココアを、淹れて差し上げます」

 マリーは有村を見なかった。見遣るどころか更に俯き肩まで震え出したので、有村は間違うのを覚悟で腕を引き寄せ、抱きしめる。

「失礼ですが、マリーさん。お名前は?」

「香田真理と申します」

「本当にマリーさんなんですね」

「志津様は呼びやすくて良いと」

「僕も構いませんか? マリーさんとお呼びして」

「勿論でございます。洸太坊ちゃん」

「洸太がいいです。マリーさん」

「お戯れを……」

 そっと胸を押されて腕を解く頃には、やはり間違いだったと思った。有村の家の者は使用人を抱きしめたりしないし、有村は特例の祖母とは違う。

 草間に、もう他の女性には触れないとも言った。流されるべきではなかった。でも、この間違いは有村の中で、悔やむべきものではなかった。

「もう小さな子供ではないのですよ。そういうことは、気軽になさってはなりません。他の者に示しがつきません。お控えくださいませ」

「すみません」

 少なくとも、表面を潤ませる涙を瞳の縁から零さずに済んだ。泣かれるのは苦手だ。それが自分の為なら尚更に、一度のハグで避けられるのなら、有村にとっては安い。

 これで晴れて正式に『マリー』になったメイド長は姿勢を正し、清々しい面持ちで向き直る。

「そういえば、昨晩は素敵な演奏会でしたね」

 次に見せてくれたのは、かくも懐かしい笑顔だ。

「聞こえました?」

「ええ。歌っていらした男性の声も、ハッキリと」

「煩くして、すみません」

「いえいえ、滅相もございません。実に素晴らしい音色と歌声のサプライズに、寮のみんなで聞き耳を」

「……恥ずかしい」

 優しいが、そこにほんの少しだけ揶揄う色が見え隠れする。マリーの笑顔はそうでなくては。明け方の捜索隊の一員として迷わずスカートをたくし上げ、木をよじ登ろうとする彼女だからリリーは見逃し、有村も急いで幹を降りたのだ。

 そういえばのついでに、思い出す。初めて祖母にピアノを弾いて聴かせた日、マリーは志津と一緒にそばに居て、いの一番に泣き出した。演奏を終え祖母が抱きしめてくれたあとには、盛大な拍手を。そういえば、あの時は確か、志津が最後に煩いと叱っていた。

「坊ちゃんのピアノを、もう一度聴けるとは。感動して、つい泣いてしまいました。よろしければご滞在中、あと二度三度、お聴かせ願えれば。志津様のお部屋には届かなかったようで、先程、大層悔しがっておいででしたよ」

「さっきの仕返しですか?」

「いいえ。ただのメイドのおねだりです」

 変わらないなと思った。嬉しかった。途方もなく。

「それは、叶えないとなりませんね?」

「楽しみにしております。毎晩。激しく」

「あははっ」

 有村は変わった。なにせ、こうして声を上げて笑えるようになった。

 口籠ることもなく会話が成り立つようになった。真っ直ぐに視線を合わせることも、出来るようになった。そうした変化が彼女の目にどう映るのか、それは読み取れてしまいそうで、有村は緩む頬を隠すふりで下を向く。

 一度落ちた沈黙が、良い切っ掛けになった。

「引き留めてしまい、申し訳ございませんでした。せっかくの休暇を思う存分にお楽しみください。わたくし共にお手伝い出来ることがございましたら、どうか是非に、なんなりと」

「ありがとうございます」

 マリーはお辞儀を解いたあと、もう一度だけ込み上げるように笑った。再び落ちる、今度は奇妙な沈黙の間。有村はハタと気付き、顎を上げる。

「実は、見送られるのは苦手なんです。見送らせてください。昨晩の鑑賞代に」

「安過ぎます」

「受け取って頂きたいなぁ」

「その口振り……あとで和斗くんにお仕置きですね!」

「お手柔らかにしなくていいですよ」

「かしこまりました!」

「あははっ」

 さすがに手を振るのはやめにしたけれど、有村はヒラヒラと振っていてもおかしくない笑みを湛えてマリーを見送った。

 カートを押す位置に戻ったマリーが、有村とは別の方を向いて「行きますよ」と声をかける。そうだ。ひと言も話さないからマリーとだけ話してしまったが、ここにはまだもうひとりのメイドがいる。

 話しかけられたくない人かもしれないので、有村はそちらのメイドを見て軽い会釈をした。ずっと下を向いているのだもの、何か訳ありな人なのかもしれない。

「行くよ。早くおいで」

 一回目より強くなったマリーの語気にも反応しないので、もしかすれば体調でも優れないのかと、有村が背中を丸めて覗き込んだ――まるで、その瞬間を待っていたかのようなタイミングで見知らぬメイドは顔を跳ね上げ、浮かぶ険しさを有村と同時に見たのであろうマリーが「やめなさい!」と叫んだ。

 あっという間のことだった。意を決した顔の見知らぬメイドは地面を蹴るなり、抱き着いた有村の耳元で囁いた。

「……ごめんね、洸太くん。助けてあげられなくて……」

 一時的に遠退いただけで、あの靄が主の樹海が消えてなくなるはずがなかった。

 全開に見開かれた有村の目の中で眼球だけがぐるりと動き、すぐそばにある人毛を映す。

「やめなさい! 離れなさい! 約束を忘れたの?」

 黒い毛束が離れて行く。

 引き摺られていく肌色が、騒々しく喚いている。

「ずっと、ずっと、謝りたかった! 出してあげるって約束したのに! 連れて逃げるって言ったのに!」

「黙りなさい! 庇い切れなくなる!」

「間違ってるのよ、あんな家! 君は自由に生きていい! 君を見殺しにして平気で過ごす大人なんて、捨てていい!」

「サツキ! いい加減にして! また、ここも追い出されたいの?」

「逃げて! 全部捨てて逃げて、洸太くん!」

「サツキ!」

 肌色が肌色の方へと動き、パチンと弾ける音がした。

 それで有村の耳は静かになった。そして、何も見えなくなった。

「…………ヒュッ」

 閉じられない目が乾いて、水面になる。この身体にはきっと気管などなくて、入り込んだ酸素が結晶の棘になり、見つからない肺を探して、喉で詰まる。

「……クッ……カ、カ……ッ」

 首を横へ捩じったまま脚の存在が薄くなり、粉々に砕けるような感覚で崩れ落ち、膝を着いた有村の耳にひとつ、届く音があった。

 においがする音。誰かの声。呼ばれている気がする。誰を――あれ。ぼくに名前なんてあったっけ。

「――――ッ!」

 誰かが呼んでる。応えないといけない気がする。なんで。だれが、ぼくなんか呼ぶの。

「――――ッ!」

 音が近付いて来る。よく聞くと、ふたつある気がする。同じ音で叫んでる。なんて言ってる。わからない。ちがう。きっと、ボクじゃない。

 ぼく、なんだっけ。息が苦しい。息なんてするんだっけ。景色が揺れる。ちがう。ぼくがゆれてる。なんで。ガクガクふるえて、なんで――壊れそう。

「――――ッ!」

 そうか。僕はシッパイ作で、できそこないは、おとうさんが床にオトシテ割るんだから、こわれてイイんだ。いらないボクはこわれるんだ。ほかの、ちょっとちいさいボクとおなじで。

 急に、なんだかイイにおいがした。あまい。リリーに似てる。でも、ちがう。

「――くん!」

 なに。しらない。いいニオイ。すき。

 だれだろう。この子。キレイ。すごく、きれい。

「……くん! 有村くん!」

 キレイで、あまい。

 甘くて、いいにおい。あったかい。気持ちいい――ほしい。これ、欲しい。

 ぼくの。ボクの。僕の、もの――!

「――洸太!」

 大きな手に額を掴まれ、後ろへ倒された。

 そこで、有村の世界は、本当の真っ黒になった。

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