無彩色であるはずの世界
「それじゃ、おやすみ。良い夢を」
「うわぁ。寝しなに美形がキザで胸焼けするわぁ」
嫌そうな顔で楽しそうに軽口を叩く落合や草間たちと分かれ、間もなく通り過ぎた手前の部屋の前でも二手に分かれたのだけれど、ドアを開けた有村は先を行く藤堂に続く途中、背後から鈴木に飛び付かれ、肩に体重を乗せるニヤリ顔を見下ろした。
日付が替わるには、あと少しの時間があった。日頃早寝の藤堂はともかく、鈴木はまだ元気そうだ。
「どうしたの、のんちゃん。そんな無理に高い所に手をかけて」
「ぶら下がってら」
「うっせ」
鈴木の奥にいる山本も全く眠そうではなくて、欠伸をした藤堂は退屈でないのならという風体だ。移動で疲れた初日くらいゆっくりすればいいのにと有村は思うのだけれど、脳裏には多少、知識だけの枕投げや怪談話に興じる夜更かしが過っていたりはする。
「お前さ、もう、すぐ寝る感じ?」
見れば、後ろの山本はスナック菓子を抱えていた。
今夜、彼らが付き合ってくれたのは枕投げでも怪談話でもなかったのだけれど、「僕はまだ眠くないかな」と返した有村は、更に笑みを大きくして「俺も」と言った鈴木と山本が未知の夜更かしを教えてくれる予感に、誰より大きくはにかんだ。
あと少しで壁に背中が付きそうな塩梅でベッドに横たわった藤堂がいつ寝落ちてしまってもおかしくない、静かな夜。
秒針も些か緩慢になった気さえする寛ぐ時間に、有村は山本と向き合うようベッドの縁に腰かけ、胡坐をかく鈴木と涅槃像の藤堂を振り向きながら他愛のない談笑を楽しむ。
言われてみれば確かに口頭での説明が難しい、この土地のこと。秘密の研究所みたいで面白いとは言いつつ、まだ飲み込めないほど驚いたという彼らの話。夕食のカレーの話を蒸し返したりもして、「明日からはお前が作って」と声を揃えた三人の内、一番切実そうだったのはやはり藤堂だったので、有村は返答を保留にクスクス笑う。
「とりあえず明日の朝食は作るよ」
「いや、昼も夜も頼むって! 一週間、一日一回でもアレはキツイ!」
まだ鼻に臭いがこびり付いていると鈴木はしかめっ面をして、同意を求められた藤堂が無言で頷く。スナック菓子を頬張る手が止まらない山本に「作って貰ったら文句言ったらダメなんだぞー」などと先を越され、「ねー」で同意した有村は鈴木が繰り出す理不尽なパンチに、また笑った。
特別はことは何もない。四人でいればいつもしているようなやり取りだった。
普段と違う場所に来ても、普段通り。それこそが彼ららしくて、ただダラダラと過ぎて行くこの時間の心地良さは予想通り、有村の知らない夜更かしだ。
「マジかよー。近所だからって有村んチ泊まり過ぎじゃね? いいなぁ。俺もそんくらい行きてーわー。姉ちゃん三人、マジ多い!」
「いつでも泊まりに来ていいよ。遠慮なく音楽を聴きたい日とか」
「それな! 姉ちゃんたちの話し声のがよっぽどうるせーっての!」
「えー、忍が行くならオレも行きたくなんじゃんよー」
「山本は、夜はトウリの面倒見ねぇとだろ?」
「そーだけどぉ」
表情は曇ってもテンポ良くポテトチップスを頬張る山本へ、「トウリくんも連れておいでよ」と言ってみる有村はその実で、一度くらいは連れて来て欲しかったりする。
藤堂の妹より二歳下の山本の弟は、兄以上に素直で元気。彼がいると賑やかさは倍では済まない。
楽しくならないはずがない。想像して、つい頬が緩んでしまうこうした瞬間は大体、藤堂たちと出会うまで思考を向けたこともなかった『きょうだい』というものに有村が憧れのような想いを抱くタイミングだ。
しかし、それは所謂、無い物ねだりなのだろう。当たり前に持っている彼らは時に邪魔にするほどで、友達の家でまで弟の世話はしたくないと言った山本は、気の毒そうに鈴木を見る。
「つか数もだけど、忍んトコの姉ちゃんズは普通に部屋入って来んのがしんどいよな」
ノックもナシで。確かに、鈴木の姉たち三人はまるで気にせず、鈴木の部屋の扉を開ける。
半分寝ている藤堂までが、「あぁ」と嫌そうな声を出した。三人の顔を見比べる有村だけが不思議そうだ。
「プライバシーの問題?」
「だろー」
「見られて困るものでもあるの?」
「あるだろ、そりゃ!」
素直な疑問を投げただけなのに「お前はないのかよ」などと噛みつかれてしまい、有村の目は丸くなる。
ない、のだけれど。みんなは違うのかもと思ったら、助けを求める視線が藤堂へ向いた。その甲斐なく、彼は長い瞬きの最中だったのだが。
すると鈴木がうんざり言った。
「まぁ、有村はエロ本なんか見ないしな」
追随の如く山本も、元より糸のような目を細めた。
「シコるにしても、佐和さん、いない時間のが長いしなー」
それで、「いいよな。お前は」と続いたのだ。
「なにがいいの?」
湧き上がるままに素直で、純粋な問いかけだった。
聞き覚えのない単語があったのだ。だから有村は藤堂を起こそうと、近くにあった脚を揺する。
「ねぇ。しこるってなに?」
何かゴロゴロするの、と。真っ新な無邪気を纏う有村を映すべく渋々開いた三白眼は引き続き嫌そうで、気配を感じて視線を配れば、鈴木と山本も似たような顔をしている。
「出たよ、箱入り」
「なぁ、シコるって辞書に載ってる言葉だと何になるん?」
「……自慰、か」
「ああ、自慰。なるほど」
やはり藤堂は頼りになる。会話より文字で言葉を覚えた有村は時折、略語や別称に置いてけぼりを食らうのだ。
解決して一部分はスッキリしたが、疑問が晴れると有村は彼らが心配になった。念の為に藤堂にも「君もするの?」と尋ねてみて、心底嫌そうに頷かれてしまったから尚更だ。
「ごめんね。僕が君に面倒ばかりかけるから」
「いや。別にお前といるから女作らねぇわけじゃねぇし、いたってするだろ、普通に」
普通。その単語は有村にとって鬼門も同じ。
瞳の中で虹彩が丸見えになるほど見開いた有村の目がパチパチと瞬くと、山本の指からポテトチップスが零れ落ちた。
「もしかして。お前、しない派の人?」
「派閥があるの?」
ポリシーなどないのだけど。主題が理解出来ても不安は消えず、有村の手は藤堂の脛を持ったまま。
「え。潔癖だから?」
「ちげぇだろ。こいつ、なんだかんだ女の気配あったじゃん。すげぇイイ匂いさせて学校来たり。うわぁ、感じ悪ぃー。アレか。ボク別に困ってないんで、か!」
追い付けていないのに鈴木は睨むし、山本もじっと見て来るし。
今は何を尋ねるつもりもなかったが、有村の手は藤堂を揺する。
「だって自慰でしょ?」
「しねーヤツっているかー?」
「みんなするの?」
「してんじゃねー?」
手持無沙汰に動かしているだけなのに前後の動作は次第に大きくなり、ついに藤堂は頭まで揺れ始める。
枕に着いた肘を支点に、グラグラと。
「みんな、なにがそんなに悲しいの?」
「は?」
「それともなにか苦しいの?」
「え?」
「あれ? そもそもどうして吐精するのを慰めるって言うの? 処置じゃないの? ん? アレも排泄だって話? 生成はされていて、排出しないと害になるとか?」
藤堂は恐らく枝がしなるような揺れに耐えかねて身体を起こしたのであって、久々に宇宙人に出くわしたふたりから有村を庇う為に、その無駄な思考を巡らせる頭に手を置いたわけではない。
証拠に、鷲掴まれた衝撃で有村の首は一回弾み、洗い晒しの髪も僅かに毛先を浮き上がらせた。
「そんな顔してやるな。気持ちはわかるが、こいつには性欲がないらしい」
「はぁっ?」
詰まるところ、今は藤堂もふたり側だったのだ。余計に異物を見る目を向けられ、動かせない頭の代わりに、有村は目だけで藤堂を見遣る。
「害はない。たぶんな。溜まるから抜くんだ。なんで慰めるって言うのかは知らん」
「ぬく?」
「出すことだ。射精。必要があるか知らんが、したくなるからする」
「へぇ。そうなんだ」
納得に頷いたのも、藤堂の手が邪魔をしてロボットみたいな動きになった。ちょっと待て、で、割り込んで来る鈴木にすれば、いっそロボットが目の前にいた方が気がラクそうだ。
「お前、性欲ないってマジで言ってる?」
「うん」
前のめりになられると、鈴木と有村の顔は随分と近付いた。覗き込まれる見上げる角度が、有村は少し懐かしい。
四月の中頃から五月中にかけては殆ど毎日そうだった。鈴木も多少は久しぶりを感じていたのだろう、「久々に意味すらわかんねぇわ」と零しながら、何回も首を傾げる。
「え。待てよ。じゃぁ、お前もしかして童貞?」
「ううん。経験はあるよ」
先程の仕返しとばかりに掴んだ頭で円を描きつつ、藤堂が補足する。
「あるっつーか、数は俺より全然エグいぞ」
「だよなぁ! 結構あったもんな、イイ匂いの日!」
教室ではうっかり姉のシャンプーを使ってしまったということになっている日は、数えるのも面倒なくらいに多い。信じている人数など嘘を吹聴してくれた鈴木をはじめ、そう多くはないだろうけれど。
「やってんじゃん。あんじゃん、性欲」
「したいと思ってしたことない」
「え。なにそれ。え。藤堂、俺いまちょっと急に難聴。なんつった、こいつ」
「やろうと思えば出来るんだってよ。したくないけど」
「はぁ? マジお前なに。は? なんなん。マジで」
「なにって言われても、その通りだから……あのね、のんちゃん。僕は別にセックスが好きじゃないだけで、不能ではないんだよ。藤堂にもね、前に言ったんだけど」
「わかんねぇ」
「わからないって言われても……」
責め立てられたところで、正直に打ち明けている有村は俯くしかない。藤堂に指摘されるだけならまだしも、興味津々な鈴木が声を荒げるだけならまだしも、まだ口で言うほど差し迫って求めていない山本にまで無感情な目線を向けられてしまうと、有村まで本当に自分が異質に感じて羞恥心が込み上げて来る。
おかしいのかな、僕。
不安に駆られて上目遣いに見上げると、藤堂は溜め息ひとつでやっと味方になってくれる気になったらしい。
「まぁ、気が乗らなくても出来るのが男ってヤツなんじゃねぇか?」
「うっわ。知ってたけど最低な、お前。風体改めろ。エセ硬派が」
「別に自分で名乗ってねぇよ」
鷲掴んでいた手は頭のてっぺんで二度弾み、何事もなかったかのように離れて行く。
食って掛かる鈴木と不毛な言い争いを初めて悪者を買って出てくれた藤堂をしばらく見ていたが、有村は間もなく真っ白なシーツを見るだけになった。
変なのかな、僕。楽しいも嬉しいも遠くなっていく頭で想う。
また、みんなと違うみたいだ。寂しくて、だんだん悲しくなってくる。
だって、どうしたって好きになれないのだ。見ないようにしても視界に入ってしまうグロテスクな性器だとか、あのヌメヌメとした感じ。あとでべた付くのも嫌だし、最中はひたすらだらしなく歪む女性の顔も、なるべくなら見たくない。考えるほど、思考がどんどんと落ちていく。
スカしてるだのムカつくだのと放った鈴木が、いよいよ膝立ちになった。
そのタイミングで、ずっと黙っていた山本が口を開いた。
「でもさぁ。オレ、いま考えたんだけどぉ。経験あるのに興味ねぇって、めちゃくちゃ草間さん向きじゃねぇ?」
部屋には沈黙が走り、視線を上げて山本を見たのは有村が最後だった。
「好都合っつーか、むしろ奇跡じゃねぇ? 興味ねぇからガッつかねーんだろ? でもヤるコトやってってから女には慣れてるわけじゃん。草間さんってそーゆーのすげー苦手そーだし、なんならソコはちょいケッペキ入ってんじゃんかぁ。やべぇ。オレ気付いちゃったんじゃね? マジでお似合いなんじゃん? 有村と、草間さんって!」
元気いっぱいに同意を求められ、さすがの鈴木もトーンダウン。再び座り込んだ向かいでは、藤堂までも物憂げに天井を仰ぐ有様だ。
当事者であるはずの有村はただ、パチパチと瞬きをしながら山本を見ていた。どういうわけか得意気に胸を張る、満面の笑みを浮かべる山本を。
「だったら、別にいーんじゃん? 有村と草間さんがそれで良くて、上手くいってんなら。つか、ちげーじゃん! お前ら忘れてんだろ! オレも! 有村んチ泊まって美味いメシ食いたいってハナシ!」
藤堂ばっかりズルいと、今度は山本がヒートアップした。実はホラー映画好きだった彼も三本一気見がしたいと駄々を捏ね、波打つベッドで全員が揺れる。
「なら、今度やるか。鈴木も来いよ。有村んチで朝までホラー三昧」
「いいけど。あ、スプラッタはナシな。やめろよ、絶対!」
「と、言いつつぅ?」
「ねぇから! マジで、グロいのはナシだかんな!」
「からのぉ?」
「うぜぇぞデブ!」
「ふん。ビビりが」
「てめコラ藤堂。いいか俺はビビってねぇ。わかってねぇなぁ。精神的にクるホラーの方がなぁ」
「じゃぁ忍、風呂最後な」
「最初に入るわクソが」
「ビビる満々じゃねぇか」
「ビビってねぇ。シャワー派だから先入るっつってんだ!」
「ふん。小せぇのは背だけにしとけよ」
「あー藤堂、それはあかんヤツ」
「いい度胸してんじゃねぇか。立てコラ、デカけりゃいいってもんじゃねぇんだぞ!」
「上等だ。潰してもっと小さくしてやろうじゃねぇか」
「やめてー」
「来いよホラ。キュッと縮めてやるから」
「巨人族の言葉はわかりませーん」
「やめろってもー。夜なんだからー。あーもー止めろって、有村!」
友人たちと過ごす時間は賑やかだ。賑やかだった。しかし、有村の周囲には静寂が満ちていた。
ベッドを降りた藤堂と鈴木が始めた、いつものじゃれ合い。煽るだけ煽って制止に本腰を入れない山本が仲裁役を有村に押し付ける定番の流れは無視をされ、止め時を見失った三人が振り返ると、混ざらなかった有村はひとり、明後日の方向を見ていた。
「ん? どしたん?」
「知らん」
耳が音を捉えていないわけではない。しかし、それが言葉の体を成していないというような素知らぬ顔で有村が見ていたのは、窓の外。無視をする気はなかったが、意識はとっくにガラスの向こうへ捕らわれていたのだ。
ベッドに腰かけた角度では、月も星も碌に見えなかった。代わりに一面の黒がある。
考えていた。山本の言った、奇跡について。
個別に生まれた生き物が、寄り添う際の取り決めについて。その形が対などを描く、幻想について。
あの黒の支配下に長く居過ぎた生き物が、白む太陽に育まれた清潔と釣り合う可能性について。ゼロ以外を想像し難いそれはもはや奇跡でなく、あってはならぬことのようにすら思える。
「ありむらぁー。おーい」
「おーい。こーたくんやーい」
互いの領分を弁え、不可侵でなければならない。月は夜へ、太陽は昼へ。有村は無性に、朝焼けや逢魔が時の藍色が恋しくなった。
一日にほんの僅か訪れる、曖昧な時間。どちらでもなく、どちらでもあるあの時間が好ましいのは、ただの死に損ないが生者を気取っても許される気がするからかもしれない。そうと気付いた瞬間、窓ガラスに大きな影が割り込んだ――訝し気に有村の顔を覗き込んだ、山本の丸い身体だ。
「……アイス食べたい」
「ほ?」
「アレが良いな。丸くて、モチモチ美味しい。お餅で包まれてるヤツ」
「オレで雪見大福連想しねぇでくれる?」
伸ばした人差し指で、柔らかさしかない山本の頬を突いた。何の誤魔化しでもなく、有村はただそうしたくなったのだ。
続けて少し摘まんでみた。有村の頬には摘まめるだけの肉などないので、ほんの少し羨ましい。
「で、なんだっけ?」
「出た。ナチュラルに全スルー」
「今日はもうお開きだ」
いつもは仲裁役として有村がするとの同じように今夜は藤堂が掌を打ち鳴らし、トボトボとした足取りのふたりを部屋から追い出してしまう。
見送りに、有村は手を振った。返って来たのは、明日の朝は朝食まで起きないから、という宣言だ。投げた「おやすみ」には短い「ん」や「おー」が返され、閉じたドアの内側、藤堂と二人きりになった部屋には数秒間の、本物の静寂が訪れた。
「お前、さっき何を考えた」
「街灯って本当に邪魔だなぁって、夜空を見てた」
「……そうかよ」
優しい藤堂はそれ以上を訊かず、既にシーツを皺だらけにしている方のベッドへ潜り込む。向けられた背中は間もなく規則正しい上下を繰り返すようになり、有村はもうひとつのベッドで仰向けに寝転んだ。
その角度でやっと、夜空に開く風穴めいた月が見える。昔から思うのだけれど、誰かが爪を引っ掛けて出来た傷跡のようだ。悪さをしそうな雲は近くに無いようだから、きっと明日も暑くなる。
「……なにを、か」
どう応えれば正しかったのだろう。端的に言えば、草間のことを考えていた。
お似合いだと言われて、単純に嬉しかった。嬉しかったのに、喜びが沸き上がる前に全速力で例の黒い靄が駆け寄って来た。まるで、浮かれ切った有村を叱責するかのように。
「……草間さんって、何色なんだろう」
綺麗な、いろ。気持ちいい、におい。だから、草間が好きだ。
彼女が近くに居るだけで、嫌な『いろ』も『におい』も薄くなる。穏やかだ。朗らかだ。心地良い――だけど、彼女の色にはまだ名前がない。
リリーを欠いた世界は灰色にもなれなくて、どれも嘘か、死んだみたいに味気ない。
物心がつく頃には傍らにあった色彩は消えてしまった。離れてしまった。もう、戻って来ることはない。それでいい。リリーとの約束ひとつ守れなかった、罰として。一番大切なものを裏切った。だから、一番大事なものを失くすのは当然のこと。
失くしたのだ。もう、この手の中にはないのだ。
草間を映した視界が騒ぐ――そんなのは勘違いだ。未練が見せる、幻覚だ。
有村は瞼を閉じて、持ち上げる。そして見つめた。何もない天井を。あれが、いまの僕の世界。
鉛の身体が何処までも沈んでいくような静寂の中、秒針が拍を打つ。冷たい布の感触。けれど自分以外の気配があり、耳をすませば寝息が聞こえる。それが妙に懐かしく、気付いた有村の瞳が一回りほど大きくなった。
この場所には、リリーとの思い出しかない。
なのに、今日初めて、ちゃんとリリーを思い浮かべた。
「…………リリー。ごめん」
口が勝手に呟いていた。すると、『構わない』とでも言ってくれるかのよう、目には見えないリリーの気配が、触れない感触で有村の頬を撫でた。
「来て。リリー」
呼びかければすぐ、腕に、足に、リリーを感じる。
「…………おやすみ」
もう、夢の中にいるような気分だった。
朦朧として。曖昧で。
リリーは常にそばに居るけれど、リリーへのおやすみを口に出して目を閉じたのは、一年以上、随分の前のことだった。




