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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第四章 黎明少年
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記憶と、想い出

 オリジナリティが若干爆走したカレーが相当堪えたようで、極端に無口になった久保の気分転換になればと、片付けを済ませたあと、有村はすっかり日の暮れた夜の散歩を提案した。

 久保ほどではないにしろ、随分と気に病んでいる元気のない草間と落合も気がかりだったし、鈴木と藤堂はやはり少々騒ぎ過ぎた。有村の急場凌ぎ程度で奇跡の絶品カレーになったのだから、それで良しとすればいいものを、言い過ぎたのを気にしている鈴木はまだしも、藤堂が不機嫌になるのはおかしい。

 外灯のない暗がりを歩くのにランタンを灯し、先頭を行く有村の横には草間が、その後ろに落合と久保が着け、後方を行く鈴木と山本が照らす明かりから多少外れても藤堂にはあまり関係ないのか夜目でもきく顔をして、その足が不意に裏手の漆黒を指して止まる。

「昼間に藤堂たちは見たかもしれないけど、向こうは本当に手つかずで残しているただの森。人はまず立ち入らないから道もないし、危ないから、特に陽が翳ったら入らないようにしてね」

 離れの前には手入れされた庭があった。有村たちはそこを進んでいるのだが、この庭の中でさえ最低限の通路に石が敷かれているだけなので、今もそこかしこから虫の声や草木の揺れる音がひっきりなしに聞こえている。

 建物内が人間の住処なら、あの森は動物の国。この庭は丁度中間という具合だ。

「動物もいるの?」

 覚束ない足元に有村の袖を時折引きながら、草間が問う。ここへ来る度に脱走してはあそこで夜を明かした有村は数回、木々の間を移動する熊や猪を見たことがあったが、敢えて怖がらせる必要もあるまい。

 あの森は豊かで、彼らは実に穏やかな住人だ。住処を荒らされたと思えば牙を剥くこともあるだろうが、和斗が入ればそそくさと奥の方へ逃げて行った。人が獣を怖がるように、彼らもまた人間が怖いのだ。この世で最も残虐で強欲な、無法者だと知っているから。

 森の暗がりを見つめる内に胸に沸いたそれらを隠し、有村は大物は鹿くらいだと濁した。そして微笑み交じりに、入れば必ず出会ったタヌキやリスの話をする。確か、美しい羽根を持った鳥もいたはず。朝になれば、きっと囀るだろう。

「共存っていうのかな。先住民はあくまでも、あそこに住まう動物たち。それを勝手に切り開いて間借りしていることを僕たちが忘れなければ、ここは優しく迎えてくれるよ」

「もののけ姫みたいだね」

「それってジブリだっけ。ごめん、草間さん。観てない」

「自然と生きる、みたいな?」

「んー、それはどうかな。僕たちは恩恵を奪い取るばっかりで、彼らに何ひとつ返せていないからなぁ」

 後ろで落合が「シシ神さまがいそう」と言った。草間が教えてくれる。森の主、とのことだ。

「もし居るなら、会ってみたいね」

 リリーを伴っていなくても、色を知り汚れた今の自分でも、あの森が受け入れてくれるのなら。不意に、左腕に感じる無垢の体温を、有村は見遣った。

「入ってみるかい? 昼間に」

「うん!」

「じゃぁ、近い内に案内するとしよう」

 この純粋な子なら、或いは。もしもいたとしてその森の主とやらが草間を気に入るかはわからないが、リリーなら彼女を好いたのは確か。

 そうすれば有村はもっと早くに、草間が特別な存在と気付けたかもしれない。その想いが、ランタンの弱光の元で有村を小さく微笑ませ、もう一度、森の奥深くへと意識を連れ去る。

 祖母もあの森を愛していた。だからこそ、決して立ち入らなかった。

 あそこで夜を明かせる有村は彼らに愛されているのだと祖母は言ったが、それは逆に人間からはみ出た者と言われた気がして、あの時、自分が何を想ってリリーを抱きしめたのか有村は思い出せなかったし、考えてもわからなかった。

「有村くん?」

 隣りからかけられた声に首を回すと、覗き込む角度の草間の丸い目が、ぱちぱちと瞬きをする。

「ああ、ちょっと懐かしくて。確かにあんなに暗いんじゃ、入って怒られるのは当たり前だね」

「姫様って結構野生児?」

「怖いものを知らなかったんだよ」

 こっちの世界の方が、よっぽど怖かったから。

 有村はそれを口にせず、庭の通路を先へ進んだ。

 一応、目指す場所もあったのだ。建物の中では本当に役立たずだった携帯電話が、奥の東屋では使えるそうだと和斗から聞いたので、有村たちはそれを確かめに行く最中だった。

 着いた東屋には円形の机と、ベンチがあった。柱にはランタンを吊るすでっぱり棒が突き出していて、入口の両サイド、残りのひとつを机に置くと木の天井がここを立派な部屋にする。

「ホントだ。微妙に電波あんな」

「でも微弱だねぇ。やっぱりお母さんには部屋の電話からかけようか」

「そうだね。途中で切れたら、それはそれで便利かもしれないけど」

「うわ。仁恵が珍しくブラック」

「だって、お母さん絶対に話長いもん」

「みんなも使うなら好きに電話を使ってね。一階のは内線だけだけど、二階の各部屋に備え付けのやつは、履歴も残らないようになってるらしいから」

「え、なにそれ」

「知らない。どうなってるのかわからないけど、そういう造りなんだって」

「怖いな。有村家」

「本家って言って」

 携帯電話が使えるとわかったところで何処に連絡するでも、連絡が来るわけでもない面々は東屋から出て、満点の星空を眺めることにしたらしい。

 東京の空と違う。星が近いと言って、草間と落合がキャッキャとはしゃぐ。

「山の上だから?」

「お前はエベレストでも登ったんか」

 首を傾げる山本に鈴木がツッコミを入れ、それすら聞こえないかのように真上を見る藤堂から視線を外し、有村はひとり東屋で携帯電話を見つめる久保の横に腰を下ろした。

「一応、ここに来る時は一声かけてね。彼氏さんとの電話の邪魔はしないけど、絶対に安全ってわけじゃないから」

「付いて来るつもり?」

「んーん。一時間もしたら見に来るよ」

「来ないで」

「心配してるんだよ。これでも」

 その電話に、恐らく着信はなかったのだろう。先に戻ろうかと言ってみたが、久保は別にいいと答えた。こんな日は、そうしてくれと言ってくれた方が有難いのだけれど。

「僕も、かけないかな」

「は?」

「草間さんが友達と遊びに行くって言ったら、声が聞きたくても我慢する。楽しんで欲しいからね。置いて来た僕のことなんか、思い出してくれなくていい」

 夜空に夏の大三角形を見つけて盛り上がるが、草間も落合も、当然のように藤堂たちも、誰も近くの星座は知らないらしい。

 明るい星を勝手に繋いで「あれ、オリオン座じゃない?」などと言う落合の適当を信じる草間に、もし本当にすっかり見えているなら幸運が過ぎるよ、と水を差さないのと同じだ。この季節なら見れても明け方に薄っすらのそれが本当にオリオン座でも、別の何かでも構わない。草間が楽しそうに空を見ている。それだけで充分だ。

 お土産は、たくさんの土産話で。そう言ったらしい久保の恋人は、たぶん有村と気が合う。年上の強がりであろうと、何であろうと。

「で?」

 有村のお節介で、久保は一層不機嫌になった。

 けれどやっと、いつもの強気が帰って来た。

「でも、かけてくれたら嬉しいと思うなぁ。で、余計、生殺しみたいになるかも」

「なにが言いたいの」

「かけたら? 電話」

「余計なお世話」

「でしょーねー」

 追い出される前に有村は席を立ち、草間たちに混じって空を見上げた。やっぱり、オリオン座じゃない。ここの綺麗な空気ならと期待してみたものの、そもそも見ている方角が違う。

 でも久々に見るこの夜空は、相変わらず美しかった。昔を思い出し、有村は芝生の上に寝転ぶ。すると草間や落合、藤堂たちも次々芝生に転がった。

 冷たい地面の感触が、心地良い。

「絵里ちゃんも一緒に見ようよ! すごいよ! 天然のプラネタリウム!」

 草間が手を拱いて、久保も渋々やって来た。寝転ぶのは嫌なようで、芝生に座り、足を伸ばす。その横顔をチラと見た有村は彼らとここに来られてよかったと思ったし、もっと色々な場所を案内したいと思った。

 しても、いいかな。

 胸の奥で、リリーに問いかける。

 僕たちだけの想い出を、みんなに教えていいかな。

 この星空だけじゃない。綺麗な花がたくさん咲いていた、あの開けた場所。小さな鳥が教えてくれた、甘い木の実。澄んだ風が吹くあの秘密の隠れ家を、大切なこの人たちに教えたいんだ。許してくれるかい? リリー。

 君を置いて育った僕を。君を残して今も生き永らえる僕を。

 君がいない世界で明日を期待し始めている僕を、リリー、君は、許してくれる?

 ふと空に翳した手の指先に、今夜は、あの焼けるような痛みはない。

「……明日は、牧場の方へ行ってみない?」

「牛ぃ?」

「他にもいるよ。馬とか、牧羊犬も。あと、ウサギがいる」

「行きたい!」

「抱っこも出来るよ」

「本当?」

「仁恵、速攻噛まれそう」

「あっ」

「ちゃんと抱き方も教えるよ」

「教えても噛まれるのが仁恵」

「キミちゃん!」

「委員長はそういうキャラだよな」

「鈴木くんまで!」

「ふっ。草間なら乗れるサイズもいるかもな」

「ひどい! 藤堂くん、それはね、ひどいよ! そこまで小さくな――」

「ふふっ」

「有村くん?」

「いや、想像したら、可愛いなって」

「んー!」

「あははっ」

 息すら出来ないと思ったのに。リリーがいない世界には色も匂いも何もなくて、追いかけることばかり、もう一度リリーに会うことばかり考えていたのに。

 あの家から出られるなんて。こんなに大きくなれるなんて。自分に、リリー以外の友達が出来るなんて。笑える日が来るなんて思ってもみなかったのに。夢見ることすら諦めて、諦めたことさえ忘れてたのに――どうしよう。星が、綺麗だ。

 口の端を上げて笑う藤堂に出来ない分までぶつけるように、込み上げる笑いを堪える素振りだけはある有村の肩を突き飛ばし、悔しそうな草間が芝生の上にちょこんと座った。

 その顔を見上げて、有村はどうにも呼吸が詰まりそうになる。

「怒らないでよ、草間さん」

 ぷっくり膨らんだ丸い頬に、自然と手が伸びていた。

 リリーとの最後の夜。必死に毛布を引き摺った脆弱な手と比べれば、二回り以上も大きくなった有村の手。爪の生え揃った指先でその柔らかな頬を撫でれば、あの日の痛みが鮮明に蘇りながら、少しずつ癒されていくような気がした。

「君が笑ってくれたら、僕はもっと幸せだよ?」

 許してくれるかい? ねぇ、リリー。

 僕にはリリーしかいなかったのに、この子がね、どうしようもなく好きなんだ。

「――抱きしめてくれたら最高」

「……っ、でっ、出来ないよ!」

「知ってる」

「もう!」

 寝転がったまま草間へ向けて両腕を広げた有村に、隣りから「他所でやれ!」と鈴木が蹴りを食らわす。仲が良いのは良いことよの、と目を閉じて呟く山本は仏のような顔をしていて、久保が睨んでいるのは見なくてもわかるし、「キザぁ」と零した落合のうんざり顔が視界に入れば、有村は草間にパシパシと叩かれながら堪らず声を上げて笑い出した。

「照れ屋さんだなぁ。仕方がない。じゃぁ、代わりにのんちゃんを」

「死ねや!」

 鈴木は声と表情の両方で、本気で嫌がる。

「大丈夫。サイズ感は近いと思う」

「マジで死ね!」

 脛を蹴られて、睨まれて、有村は鈴木に感謝していた。

 騒いでいないと、泣いてしまいそうだったのだ。嬉しくて、でも少しだけ、それだけでない想いがあって、胸の内に収まりきらない何かが喉にまで詰まっていた。

 来る途中のバスの中でも考えた、いつか泣けるならこういうタイミングでという夢物語は、二回目で有村を気恥ずかしくさせる。心配しなくても、どうせ泣けやしないのに。次いで沸いたのが可愛くない憂鬱だと気付いたので、有村は邪険にされた腕を引き戻し、芝生から背中を浮かせた。

「少し、風が冷たいね。気持ち良いけど、そろそろ戻ろうか」

 草間の家に電話をしなくてはいけないし、有村の提案で使う気のない携帯電話を取り出した鈴木が画面を開いて「九時だ」と言うと、藤堂たちはそれぞれ何かしらのリアクションをしたが、それが意外でもそうでなかったのでも続けて何を言うでもなく、微妙な顔をする。

 そうした妙な沈黙の間合いが、有村は堪らなく面白かった。

 自然の中でも都会でも一分が六十秒なのは同じなのに、体感の一時間が六十分ではないような気がする。長いような、短いような。ハッキリしない感覚が彼らに浮かべさせる表情こそ、有村がここで紹介したかったものだった気もしたのだ。

 再び手にしたランタンに足元を照らされながら、そういえば少し疲れたと山本が言い、欠伸をする。そこまで眠そうではない藤堂は日課の運動が出来ずに、まだ本日分の体力を持て余していたのだろう。同じくらい元気そうな鈴木もまだ全然寝る気がないと言って、有村の隣り、草間が振り向きながら小さく笑った。

「お風呂に入ったら、眠くなるかな」

「仁恵はなるんじゃん? 暗くなるとすぐ、眠くなるし」

「なんだよ。委員長も全然、野生じゃん」

「田舎の年寄りみたいだな」

「……ひどい」

「健康的で、僕はいいと思うよ? 太陽が出たら起きて、沈んだら寝る。草木や動物と同じ、理想的なサイクルだ。草間さんが健やかなのは、とてもいいこと」

「て、言う姫様は夜強そー」

「お構いなく」

「どんな返しよ!」

 行きよりも緩慢な足取りでウッドデッキへ上る二段の段差を上がると、ランタンを消した有村はガラス戸を開け、最後尾の藤堂が部屋へ入るまで待ちながら、もう一度だけ静かな暗がりを見る。

 胸の中で、おやすみを言った。

 その背後で、落合が「やっぱりすごい存在感」と言った。有村が藤堂に続いて部屋へ入った時には、草間と同じ、この出入り口を挟んでキッチンとは逆の右側にある一角を見てのことだ。

 そこにはエル字のソファや座れば揺れるロッキングチェアーが置かれており、リビングらしい寛げるスペースだ。大きな葉を付けた観葉植物などもあり、つられて眺める有村を勢いよく振り向いた草間が目を合わせた瞬間、灯っていた輝きを引っ込めてしまった。

 どうしたのだろう。尋ねる前に、落合が歩き出す。

「ザ・お金持ちって感じする。たまにしか来ない別荘に、グランドピアノ」

 もう一度、草間と目が合った。

「興味があったら弾いてもいいよ。たまにしか使わなくても、きっと調律されてるから」

「弾けないし。でも、鳴らしていい?」

「どうぞ、どうぞ」

 落合の指先が、ポン、ポン、と短音を鳴らす。

 また、草間と目が合った。

 ダメだよね? そんな声が聞こえて来た。一瞬合って逸れる草間の目と、躊躇いがちの表情から。

「それ、よく知らないけど、良い物らしいよ。澄んだ音色が綺麗だろう?」

 声は落合にかけたが、有村は草間を見てニコリと笑った。

「せっかくだから、なにか弾こうか」

「弾けるんかい!」

「…………っ」

 そうしてまた、草間と目が合う。

 いいの? 今度は、そんな声が聞こえて来た。

「…………?」

 不意に伸ばしてしまい、頬を指で撫でてしまった手を、有村は慌てて引く。

 抱きしめたくなった――無性に、触れたくなった。

 照れ臭さと気まずさを誤魔化すように、有村は久々に自ずからピアノの前に腰を下ろした。

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