女神と聖女
「……僕の思ってる多少って、感覚おかしいのかな」
「いや。お前じゃなくて、おかしいのはお前の家のヤツらだ」
近くの食料品店まで買い出しに出る前にと食材を改める有村と一緒に冷蔵庫を覗き、その潤沢ぶりに藤堂の目から力が抜ける。さっき開けた野菜室も選びたい方だったが、調味料もズラリと並ぶこのキッチンは、まじまじ見るほど買い足す物が殆どない。
料理の序盤、冒険家を気取った山本が食器を探すついでに食材庫のような小部屋まで見つけて来たのだ。小麦粉、缶詰、クラッカー等々、袋戸棚に入っていたパスタの予備も詰まれており、小さなスーパー並みに大体が揃っている。
「つか、さっきのパスタもだけど、なんでここにあるもん商品表示ねぇの?」
同じく冷蔵庫の前に立つ鈴木が取り出した瓶の牛乳、ヨーグルト、そして、ジャム。見ればわかる品々だが、どれひとつとしてラベルがない。
「乳製品や卵なんかは、佐々木さんの牧場で加工までしてるからね。それを分けてくれたんじゃないかな」
「牧場まであんのか! ここ!」
「さっき車内で酪農の話が出たろう? 牛、豚、鶏、羊に山羊、ひと通りいる。佐々木さんは酪農のプロで、獣医でもあるんだ。この裏手には大きな畑もあるし、ここは基本的に自給自足だよ。食品の加工も昔から。まぁ、製粉までしてるのは知らなかったけど」
知らなかったというか、やはり有村は興味がなかったのだ。
だから何度も泊ったはずのこの建物の中で、扉に隠れた大きなゴミ箱や食糧庫などという新しい発見を今更する。
「なんつーか……すげぇな」
「ふふっ。そうだね。言葉を選んでくれて、ありがと」
とはいえ、自然志向ってレベルかな、と有村が呟くのを、藤堂は軽く安堵の想いで見遣った。
先程の草間ではないが、せめてこの別荘の中にいるのは百円そこそこのアイスを二つに分けて喜ぶ、藤堂がよく知っている有村だ。何故だか無性に抱き寄せたくなった。勿論、行動には移さなかったけれど。
「買いに行くとしてもお肉くらいだとは思ってたけど、これだけあるんじゃ何も要らないな。あ。見て? こんなに大きな塊が」
「スゲー! 骨付いてる!」
「これ牛じゃないね。羊、色的にラムかな。書いて欲しいな。開けて匂い嗅がないと自信がない」
「……なんなんだ、ここ」
「わかんない。いま僕もちょっと驚いてる」
「まぁ、食いモンで出費かさまねぇのは有難ぇよ! な!」
「ありがとう、のんちゃん。僕、ちょっと泣きそう」
「俺は安心したぞ。お前の感覚が庶民で」
「うお? 有村ぁ、コレなんだー? スゲー重い!」
「……ラクレットチーズ……やだ、もう、なんか、やだ……」
「しまってやれ、山本。有村の庶民心が荒んでる」
「……僕、いま無性にファストフードが恋しいよ、藤堂……」
「大丈夫だ。ホント、俺はホッとしてる」
「有村ぁ! コレは――」
「山本、あとにしてやれ」
なので買い出しはまたの機会に。有村はそう決めて藤堂が閉めた冷蔵庫のドアに背を向けたのだけれど、対面式キッチンのカウンターの向こう、丁度、荷解きを終えて一階へ降りて来た草間たちにそれを伝えたところ、三人の、特に草間の表情が露骨に曇った。
「あっ、何か欲しい物があった? なら行こう」
「あ、うん……ええと」
行けば喜ぶ人はこちらにもいる。この旅行中、地域限定のスナック菓子を制覇するのを密かに楽しみにしている山本だ。鈴木も、冷蔵庫にはなかった炭酸飲料を求めているはず。
和斗の話では最寄りのスーパーまで車で二十分とかからないらしいし、平屋建ての巨大スーパーには有村だって興味がある。なので草間が言い淀むうちに、買い出しには行こうと藤堂たちを振り向いた。
その有村のシャツを、草間が小さく摘まむ。言い出したいけど、言い難い。でも頑張って言葉にするから待って欲しい。そんな時の、彼女の癖。
「あの……うん。あの、今日の晩御飯は、私たちが作る、ます」
ハッキリと聞こえたのに、返しそうになった『うん?』を有村は飲む。同時に沸いた『なんで?』も、当然いつもなら構う『噛んだ』も今は、お口にチャック。
決意した顔の、草間のつり上がった眉が愛らしい。
「長い移動で有村くんも疲れてるだろうし。お昼、作らせちゃったけど。でもあの、これから一週間もお世話になるし、ずっと有村くんにお料理させるの、悪いし。だから、あの……」
閉じた口の手前まで来た『別に構わないよ』も、有村は飲んだ。疲れているとしたら、数時間の移動のあと、慣れない場所で緊張した草間たちの方だろう。有村にとって料理は大した労力ではないし、冷蔵庫の肉の塊は草間には手に負えないだろうとも思った。が、しかし。
やはり、尻窄みになる声と相反して草間の見せる目の奥の強い意志が、有村をそっと微笑ませてしまう。何かを頑張ろうとしている時の草間は、それがたとえ些細なことでも、まるでジャンヌダルクだ。
「ありがとう。じゃぁ、楽しみにしていい?」
「うん!」
「冷蔵庫にある食材は好きに使って。というか、出来れば先に使って欲しい。特に野菜」
「わかった!」
「では、出掛けるとしよう」
よくよく見れば、草間は既に斜め掛けのポシェットを提げていた。落合も久保も、小さなバッグを持って準備万端だ。
鈴木と山本が部屋に財布を取りに行く間に有村が和斗を電話で呼び、その電話を切った途端、手すきになった耳元に藤堂が頬が付くほど近付いた。
「本気で任せる気か? アイツらに」
「うん。あの感じなら、多分カレーでしょ。草間さんだし」
「お前、見張るよな?」
「見張らないよぉ。任せてって言われたら、残念だけど僕はノータッチ。見てたら手を出したくなっちゃうからね。そばにもいないよ」
「いろよ」
「なんで」
「胃薬の世話にはなりたくねぇ」
「そこまで酷くないよ。草間さんは味付けはしっかり出来る。包丁捌きがちょっと、ガチャピンさんみたいでヒヤヒヤするけど」
「草間じゃない」
「うん?」
有村が首を回すと、藤堂の真顔は息もかかる近距離に寄せられていた。
「ヤバいのは、草間じゃない」
その今にも有村にぶつかりそうな口が言う。草間は真面目だし、自分が料理下手なのを自覚しているから、書かれている手順通りにそのものを作ろうとする、と。有村もそう思う。と、いうか、普通はそうだと思う。
しかし、そうでない人物があちらには潜んでいたらしい。
「久保だ。アイツは出来もしねぇのに、オリジナリティを出して来やがる」
「だとしてもカレーだ。そうそう不味くはならない」
「お前は久保を甘く見てる。アイツは、アイツの料理は、ヤバい」
本当は、藤堂がそこまで言う久保の『ヤバさ』に興味が湧いた。
でも有村は草間に逆らえないあと半分の理由を推して、やっぱり僕はノータッチ、と近い顔を人差し指で、額を押して引き離す。
「なら、お前も何か一品作ってくれ」
「作らないよ」
「有村」
「だーめ」
しつこいよ、と、有村は藤堂の頬を両方の揃えた指先でむぎゅッと潰した。
せっかくの端正も潰してしまえば、突き出る口がタコのよう。絶望すら漂う藤堂の目を見つめて、有村は台無しのハンサムに微笑みかける。
「ありむら……」
「だーめ」
背後からパシャリという小さな音が聞こえて振り向いたのだけれど、有村が見たのは俊敏に何かを後ろ手に隠し、背筋を伸ばした落合の姿。わざとらしく逸らした目線と背けた顔に残る薄ら笑いこそ、落合は隠すべきだ。
「写真、撮ったね?」
「撮ってないでーす」
籐有尊い。
微かに聞こえた落合のそれに、有村はパッと、藤堂の頬から両手を離した。




