祝福を授ける者
まるで映画の世界に入ったみたい、と、草間が言った。
徐行する車の速度に合わせ、二メートルは優に超える背の高い鉄製の門戸が、左右の扉をゆっくり開く。無人のそこを抜けた正面にはまず一際目を引く噴水が豊かな水を吹き上げており、長らくの山道の先に広がる、まるで異国を想わせる風景に車内では幾つもの溜め息や感嘆が零れた。
奥にある屋敷へ続く小さな石のタイルを敷き詰めたような通路は白い噴水を回り込み、色鮮やかな花々が咲き誇る見事なイングリッシュガーデンを横に見ながら伸びている。藤堂でさえ、身を乗り出すように窓の外を窺った。同じように眺めては、草間がもう一度、映画みたいと呟く。何も言わずに見つめていると、振り向いた草間は有村を見て「綺麗だね」と笑い、その目をキラキラと輝かせた。
「有村くんのお家の人は、みんなお花が好きなの? 素敵だね! 向こうの方まで、いっぱい咲いてる。あとで見に行かせてもらったり、出来ないかな……」
「話しておくよ。自慢の庭だ。見たいと言ってもらえたら、きっと喜ぶ」
「本当? 楽しみにしていい?」
「うん」
「やったぁ」
有村の右手はまだ、草間の手と繋がったままだ。
「ん? 人が出て来た」
前方で鈴木が言う。
「えっ! あれって本物のメイドさん? 本物のメイド服? ヤバい、初めて見る! テンション爆上げ!」
ただでさえ頬が貼り付きそうだった鈴木を本当に窓に貼り付けるほど身を寄せ、落合がはしゃいで跳ねる。
「おかえりなさいませ坊ちゃん、的な?」
後部座席を振り返る山本の顔が近いと、久保がその肩に一撃を食らわす。
有村はただ微笑み、内心、そうでないのを願った。
――ここは楽園。名目上や実態がどうであれ、切っ掛けや本来の目的は間違いなく、都会の喧騒で疲弊する祖母の為に作られたオアシスだ。だから庭の造りは本家のものと実によく似ており、彩る草木は祖母の好み。それはつまり、有村の目に美しい物ばかりだ。
庭に合わせて建てられた屋敷は洋館と呼べそうな外観を持ちながら、どこか懐かしさを感じる素朴な色合いをしており、白い壁と木彫のバランス、数多くの大きな窓が拘り抜いて作られたミニチュアハウスのように愛らしい。それも、有村の隣りで草間が言った。門を通ってからというもの、まるで幼い日の自分を代弁してくれるような草間の感性は、正直なところすっかりと無口になった有村の足をなんとか地面に留めてくれる拠り所ですらあった。
少しだけ、緊張していた。停車した車から先に降りた和斗へ向け、「遠路遥々ようこそ」と会釈をする数名を見たくない。
「お待ちしておりましたわ!」
有村が降りなければ、他の誰も席を立てないのはわかっている。
一瞬を躊躇った有村の隣りで、藤堂が傾けた首を左右で一回ずつコキリと鳴らした。
「戦闘態勢?」
「別に。首が凝っただけだ」
「ふふっ」
藤堂に笑いかけ、有村は草間の手を離して腰を上げた。
車から出て、顔を上げる。その瞬間、有村は確かに以前より、迎えに来てくれた瓏の車を前にした時よりも、ずっと気が重かった。
理解はしている。自分が受けるべき扱いも、振舞うべき所作も弁えている。仕方のないことだ。そういう場所に生まれてしまったのだから――急激に、どうしようもなく、バスの中、特に先程まで座っていた三列目を振り返りたくなった衝動を、有村は必死で飲み込む。
持ち上げた視線の先で和斗に声をかけた女性が一歩下がり、後ろに控える残りの五名も同じように有村から距離を置くと、顔も碌に見えないほど深く首を垂れる。いつもそうだ。どこへ行っても。彼女らは雇われてここに居る。開いた距離はたった数歩分もなくても、その距離は途方もなく遠いのだ。
おかしな話だと思う。所詮は人と人だろうに、と。これから一週間も世話になるのに、わざわざ出迎えてくれたのに、感謝のひとつも伝えられないなんて。
「…………」
そうして結論、有村は思った。
――僕はなんて、恥ずかしい生き物なのだろう。
「――洸太!」
空の晴れ間に響く、良く通る男性の声が有村を呼ぶ。
「待ってたぞ。洸太」
開いた屋敷のドアから現れた男性は押していた車椅子から離れ、それを追い越し、駆け足に近い速度で駆け寄るなり、広げた両腕できつく有村を抱き締めた。
「……佐々木さん」
昔と変わらない、逞しい胸。簡単には逃がしてくれそうもない、強い腕の力。
抱き返した手が無意識にシャツの背中を掴んでしまい、それだけ自分が不安だったように思えた有村は男性の肩に額をつけた。
「でかくなったな」
「…………」
「立派になった」
「…………」
伸びた身長などないかのように後頭部を撫でる手が数回弾み、有村の毛先を躍らせる。彼は楽園の守り人。昔から有村の足りない言葉を理解してくれる。
「遠かったろう。ここへ来るのは」
「……はい。遠かったです」
バスに揺られたアルバム二周分の移動よりも、ずっと。
「遠かった、みたいです。とても」
「うん。うん。でも、いいよ。お前はこうして来たんだから」
顔を埋めた肩口で有村の唇は震えて仕方なく、閉ざすしかない背中で大きな手が二回弾んだ。
感極まる、とは、こういう感情をいうのだろうか。言葉が上手く喉を通らず、ただ回した腕を離し難い。けれど有村が再会を喜ぶべきはもうひとり、大切で重要な人がいた。守り人、佐々木という名の男性は優しく語り掛ける耳元で、有村にそれを思い出させる。
「前に教えてやったろう? 紳士のエチケットだ、洸太。レディをそう待たせるもんじゃない」
レディと呼ばれ、「やだわ」と笑う。
顔を上げれば佐々木の肩口からその穏やかな微笑みが目に入り、有村は大層名残惜しい抱擁を解くと、去り際に佐々木から頬へ柔い掌の感触を貰い、今度こそしっかりと向かうべき相手へ視線を移した。
三段上がる石階段の一番上。屋敷の玄関扉の前に止まる車椅子にかけた女性の正面に、有村は両膝を着く。ブランケットを広げた膝に乗る白い手を掬い上げ、真っ直ぐにその姿だけを仰いだ。
「志津さん」
名前を呼ぶと、細められる目元が眩い。初めて出会ったその日から、有村は必ずこうして彼女の前に跪いた。
誰に教えられたものでもない。寧ろ、最初はやめろとすら言われた気がする。けれど有村には、彼女を見下ろすという選択肢がなかった。彼女の前に歩み出ればそれだけで膝を折りたくなったし、そうすることが当然に感じられるほど志津は気高く、美しい女性だったのだ。
車椅子に座っているから、脚が上手く動かないから不自由だとは、今この瞬間に至るまでただの一度も、微塵も、一瞬たりとも有村の胸に過ったことはない。
何か理由があるとするなら、志津の持つ品格とその凛とした佇まいが有村に膝を折らせ、視線を仰がせる。志津はまるで豊かな大地そのもののような人だった。
「…………」
そうした有村の振る舞いを順次バスから降りた藤堂たちは和斗の後方に控える形で、石階段の上を見上げる角度で眺めていた。藤堂が窺うに、いつの間にか会釈を解いていた六人のメイドたちも同じだ。見ていいものか迷うような素振りは見せつつ、気が気でない様子が感じ取れる。
それが我慢しきれなかった風体で、明らかなざわつきに変わった。背中を丸め、皺だらけであろう車椅子の女性の手を取り、その甲か指先かに有村が口付けて「会いたかった」と告げた途端だ。
目を見開き、口元を覆う者もいる。藤堂が見て思うに、一歩前にいるひとり以外の五人は結局、信じられないものを見たような顔をしていた。
「静かになさい。 ……洸太様は、ああいう方なのよ」
有村の家の人間っぽくないってことか。前のひとりが後ろの五人に言った言葉に、藤堂はそう思う。
当然だが、気分は良くない。辟易を纏って視線を戻した扉の辺りでは、再び見上げる格好になった有村の頬を、車椅子に乗った華奢な老婆が撫でていた。
「おかえりなさい」
「…………」
背中を浮かせ、痩せた白い手で、老婆は有村の髪を掻き分けるように、その頭を抱き寄せる。
「ただいま、でしょう?」
「……ただいま」
上品な女性ではあったが、藤堂の目には人生も終盤に差し掛かっているように見える、その老婆。皺だらけの手がさも愛おし気に撫でている頭が有村のものかと思うと、藤堂の胸の奥で何かが疼く。
長過ぎないか。いくら、久々に会ったのだとしても。
焦れる確かな理由がわからずに視線を迷わせた藤堂は隣りにいた草間と目が合い、不意に微笑みかけられて更にわけがわからなくなった。
「ふふっ。可愛い子」
いつまで待たせるんだとか、日差しが暑いとか、早く中へ入れろよ、とか。
そんなことも藤堂は、思っていなくはなかったのだけれど。
「……私の、愛しい子」
年老いて、お世辞にもキレイとは言えない女が有村の頭にキスなど落とす光景を気色悪いと感じたのは確かで――なにより。
「……志津さんのくださるキスは、相変わらず祝福のようだ」
藤堂はなにより、嬉しそうに他人の前で跪く有村が、気に食わなかった。




