この花が色付く頃に
佐和からは頻繁に、藤堂や鈴木にも時折指摘される事案。有村には少々、羞恥心が足りないらしい。
勿論ないわけではないのだが、それよりは表に出易い『照れ臭い』という感覚も、有村が『普通』の基準にしている藤堂たちからすれば格段に少ないという話だ。だから身を持って知るというのは困難なのだけれど、有村は自分にその感覚が欠けていることを知っているので、他人が見せるそれは藤堂たちよりずっと素直に受け取れる自負がある。
その目で見ると、四日ぶりに顔を合わせた草間が全身に纏う気まずさの正体は、とても純粋な気恥ずかしさだった。
「あの……ごめん、ね?」
草間の自宅、ドアを背にした玄関でのこと。
一段高い場所で俯き加減の視線を迷子にする草間を前に有村が感じたのは、改めての彼女の美徳。その再確認だった。
「ふたりきりじゃないって、僕が拗ねるって?」
「そうじゃ……ないけど」
正直なところ、指定された時間通りに訪問した自宅前で想定外の人物を見た瞬間は、やはりお節介だったかと、草間が呼んだ応援がかけてしまった迷惑の結果に思えて、ふと思考に影が落ちかけた。
しかし、潤いを存分に蓄えてか弱く揺れる素直な眼は、こうも明確に『ちがう』と言う。恥ずかしいだけ。照れ臭いだけ。多少の翳りの中でさえ覗けばそうと思わせてくれる草間の瞳は、今日も格別、美しい。
「ひとつだけ、訊いてもいい?」
「……な、に?」
草間の装いは場に適したパンツスタイルで、自慢の髪も高い位置でひとつ結びにされていた。そうして露出した草間の首筋はとても無垢な純白で、スポーティとは正反対に可憐さを増幅させる。ポニーテールの良さを力説するクラスメイトに、だいぶ時間が経ったいま、今更に共感したい気分だ。
胸の内を飛び交う諸々の感情が、有村に自然な笑みを浮かべさせる。深い場所から湧き起こるようだった。たとえその気があったとして、今の有村はそう簡単に緩んだ頬を引き締められなかったであろう。
「今朝、目覚まし時計に起こされるより早く起きた?」
前でいじらしく組まれたり絡み合ったりと忙しい草間の手に触れ、引き寄せながら答えを急かすと、ようやく持ち上がった瞳と目が合い、すぐ逸れる。
「……うん」
赤みを増した頬が膨らみ、草間の小さな口、その端が数ミリ持ち上がるだけでこうも満たされる自分を、草間はそろそろ、少しくらいは知ってくれたらと有村は思う。
「そっか。なら、よかった。僕だけだったら恥ずかしいからさ?」
「有村くんも?」
「うん。自分で言うのもなんだけど、珍しく気合が入ってる。頑張ろうね!」
「……ふふっ。うん、がんばる。よろしく、お願いします……? ふふっ」
善は急げ。思い立ったが吉日と、草間の母親に了承を貰えてから二日後。
寂しい花壇を蘇らせる助っ人に草間が有村には内緒で呼んだ落合の脳天を背後から鷲掴み、引き寄せる塩梅で、同じくの藤堂がそっと、はみ出していた壁の向こうへ連れて行った。
毎日毎日、飽きもせず、太陽が照り付け始めた午前九時。
真夏に取り掛かるには無鉄砲にも思える庭仕事に当てた今日は、幕開けにやたらと「ごめん」を聞く日だった。
「ごめんよ、姫様。一回断ったっていうか、行けたらって濁してたんだけど、仁恵ってば今朝も電話して来てさ。絵里奈は彼氏とデートだし、なんか泣きそうになってて断れなくて」
アテが外れて捜索に乗り出した草間と彼女の母親の忙しい足音が漏れ聞こえる庭先で、借りた麦わら帽子を被る有村は、揃いのふたりと共に我が物顔の雑草を次々に引き抜いてゆく。
「いいって。効率を考えれば、四人が正解。あ、固そうなのは残してね。落合さんも、無理はしないで」
「天使ッ!」
力任せの藤堂を挟んだ向こう側、大袈裟に顔を覆って仰け反る落合の軍手は、指の先が余りがち。
「に、しても、なんで言わねぇんだ。話したんだろ? 昨日も、電話で」
「言いづらかったんでしょ。それだけ、本当はふたりでって思ってくれてたんだって考えれば、嬉しいくらいだよ」
「フェアリー……ッ!」
伸び放題の雑草もさることながら、手を焼きそうなのはすっかりと硬くなった土の方。掘り起こして状態を整える為には、もはや敢えて植えた植物のように強靭な根を張った草も容易く引き抜く藤堂の力は実際、頼りになる。
だから有村は言葉と表情でそれを伝えた。内緒で召喚されたふたりの気まずさもまた、わからないではなかったからだ。
「代わりってわけじゃないが、汚れる作業は俺がやるから指示をくれ」
「ありがと。藤堂のそういうところ、大好きだよ」
「からの藤有! 尊い!」
「……落合さん、ちょっとうるさい」
「口じゃなくて手を動かせ。早く終わらせねぇと、この天気じゃぶっ倒れるぞ」
「姫様が?」
「君もだよ。水分はこまめに取ってね。藤堂も」
「ん」
「出たよっ、この夫婦感……ッ!」
「わかった。のんちゃんの代わりに言う。腐女子黙って」
「おっふ!」
「こっちは粗方済んだぞ。有村、次はどうする」
「そうだなぁ。まずは土を起こしたいんだけど……」
「仁恵とおばさん、来たっぽいよ」
「ホントだ」
申し訳なかったり、単純に居た堪れなかったり。作業に没頭する藤堂にしろ、必要以上にお道化て見せる落合にしろ、ふたりに見えるささやかな感情の機微を数週間前の有村ならそうと受け取り、理解する他がなかっただろう。
わからなくもない。寧ろ、わかると思った。例えばそれが嬉しくてニコニコと口角を上げる有村は、足音が途切れた縁側を振り向いて更に笑顔を大きくした。
探し物を手に庭へと降りる草間はもう、すっかりと作業に集中している顔をしている。見れば、二番手の母親も。相変わらずのそっくりが有村に歯列まで晒させれば、麦わら帽子のつばの陰、藤堂の三白眼も平常時の鋭さ程度に収まっていく。
「待たせちゃってごめんね! ここにないと思ったら、おばあちゃんの篩、押し入れに仕舞ってあった! これであってるかなぁ? どう? 有村くん。使える?」
「もちろん。見つかってよかった」
使い込まれている割に手入れの行き届いた道具は、数年間を暗がりで過ごしても尚、現役。
これは益々気合を入れて取り掛からなければ花壇の主に申し訳ないと作業手順を思い浮かべる有村の前に、娘から遅れること数秒、母親が駆け寄った。
その熱量までがそっくりなのだ。二段のマトリョーシカに迫られて、有村の背中が気楽に伸びる。
「洸太くん、洸太くん! こっちも使えそうなら先に使ってくれる? 使いかけの肥料? みたいなのよ。新しいのも買ってあるけど」
「わかりました。別に古くなるとかないと思いますし、混ぜちゃいますね」
「あとね、大きいスコップもあったから、持って来たんだけど……」
「いいね。草間さんは気が利くなぁ」
「そんな……っ」
「あのね、洸太くん。さっき言い忘れちゃったんだけど、このクーラーボックスに入ってるの好きに飲んでね。ちゃんと飲んで、飲みながら作業してね! お水も入れておいたから!」
「ありがとうございます。あ、塩分補給のタブレットまで。さすが」
「ヤダもぉ、洸太くんてば今日も笑顔が爽やかなんだから! お昼、用意するから食べて行ってね」
「前に教えてくださった特性ダレの素麺ですか?」
「アタリ! ウチのは具沢山なのよぉ。田舎式」
「楽しみです。頑張ります」
「私は何をしたらいいかな」
「必要な物があったら言ってね」
「ありがとうございます、お母さん。今のところ大丈夫そうです。草間さんは怪我をしないように軍手をして――」
そっくりな顔と、よく似た声がふたつ。草間親子と有村。二対一。
その様子を無言で見ていた藤堂と落合は、抜いた雑草を一袋にまとめながら、物憂げな溜め息を吐く。
「あたしたち、別にいなくてもよくない?」
「わかったぞ、落合。これは有村の為だ」
いつの間か随分と親しくなったらしい草間の母親と、有村。草間用のとその母親用の顔の中間辺りをキープする有村は、二倍では済まない気を遣っていることだろう。本人にとっては無意識であるにしろ。
なにはともあれ有村の口から『お母さん』という単語が飛び出す違和感を未だ払拭出来ないまま、藤堂は膨らんだビニールの口を縛り、宣言通りにより手が汚れる方の役目を買って出ることにした。
昼になるまで、あと三時間。今日も汗がふき出す猛暑日だ。
既に体内がサウナ状態になっている有村の為にも、作業は早めに終わらせるべきである。
そうして補佐役に徹した藤堂の働きの甲斐あって、花壇の土はすぐに一面フカフカなベッドになった。花の配置は草間親子と有村が相談しながら決め、祖母が愛した花壇の再現まで、もう間もなくだ。
「そうそう。そのままひっくり返して……ビニールポットを抜いてみて」
「うわっ。中ってこんな、根っこがぐるぐる巻きに」
「そうなんだよね。だから出来るだけ早く植え替えてあげないと、この子たちも息苦しいわけ。根を軽くほぐして……そう、そのくらいでいいよ。穴の中に入れて、土をかけて。布団をかけてあげるみたいに」
「……こう?」
「水をあげれば勝手に締まるから、ぎゅうぎゅう詰める必要はないよ。盛り上がるように、いいね、そのくらいで」
草間は実に優秀な生徒だった。首筋に汗を光らせても集中力を欠くことなく、真剣な面持ちのまま、丁寧にひとつずつ苗を植えてゆく。
「これを全部やったらおしまい?」
「今日出来る作業はね。さっき混ぜた培養土と肥料じゃ少し栄養が足りないかもしれないから、根が定着した頃に追肥をする。花によっていい時期があったはずだから今度調べておくよ。それまでは水やりだけで大丈夫」
「ずっと?」
「あー、いや。向こうのは多年草だから手入れ次第でずっと咲くけど、こっち半分は一年草だから、また植え替えることになるかもなぁ」
「そっか。詳しいね、有村くん」
「勉強しました」
「ホント?」
「……ん?」
「あ。嘘だ」
「あははっ」
花形の植え付け作業に精を出す草間を見守り、サポート役に就いた有村の後ろでは、藤堂と落合が早くも使い終わった道具の片づけやゴミの回収をしていた。人海戦術、ここに極まれりだ。手分け作業もすっかりと板についている。
十分おきくらいに、死ぬ、脳が煮える、と弱音を吐く落合は四人分の首を冷やす濡れタオルを替える役目も担っており、室内へ戻ったついでにキッチンで昼食の支度を始めている母親へ「そろそろ終わりそうですよー」とかけた声が庭まで聞こえた。
「この花って、いつ頃咲くのかなぁ」
「秋には咲くと思うよ」
「秋かぁ。まだこんなに暑いから、ずっと先みたいな気がする」
「待ち遠しい?」
「うん!」
項を伝う汗を拭ってやると、くすぐったそうに草間が笑う。その大きな満面の笑みは、有村が期待したものの最上級だった。
役に立てただろうか。喜んでもらえただろうか。
あまりの眩しさに次の苗を取る振りで振り向いた有村の後ろで、草間がふと閃く。
「そうだ! 綺麗に咲いたらまたみんなで、ここでバーべーキューする? 秋じゃもう寒いかな。あ、焼き芋したら怒られちゃうかな。えへへ。楽しみっ」
「…………」
不意に、苗へと伸ばした手が、それ以上動かなくなった。
内側から殴られるような鼓動が脈を打ち、今までにない速度で鼓膜を貫く耳鳴りに思わず頭を振ると、有村の指先が苗のひとつを倒してしまう。
「…………っ!」
どうして、いま。頻繁に襲われる耳鳴りに、思うことなどそれくらい。
しかも今回は、痛みを伴うほどの激しさだった。突き抜ける甲高い音がこめかみの辺りを締め付けるまでも一瞬で、割れんばかりに痛みだす頭へと有村の手が伸びる。
嫌いだ。痛みより、思考が鈍るから嫌いだ。
手品師に仕舞われた鳩より小さく折り畳まれ、窮屈な殻に押し込まれるようで、何も考えられなくなる――ついには両方の耳を覆った有村を、それまでの軽やかさを手放した、焦り含みの草間の声が呼ぶ。
「有村くん? 有村くん! どうしたの?」
実際がどうであれ、有村にはそれ以外、耳鳴りの外の世界は無音だった。
「だ、大丈夫。ただの頭痛。よく、あることだから――」
嘘ではない。だから有村の財布には致し方なく、処方された頓服が常備されている。
「あ、お水……!」
駆け足で草間が取って来たペットボトルの飲料水。そのひと口がなくても飲める錠剤であることは知っていた。
潰れかけた錠剤シートから出した一粒は、少し欠けているようだった。
「どうした」
「頭痛だって。いま、お薬を飲んだところ……」
大丈夫? 耳に入る声は、草間のもの。
でも背中に触れて上下する手は、有村のそれより、かなり大きい。
「医者が出した薬だ、すぐに効く。心配ない」
「あっちで休んでもらった方が……」
「そうだな」
大きくて、硬くて、熱い手が、有村の脇を抱え、立ち上がらせようとする。
「よくあるって……」
「片頭痛だろ」
引き上げられるまま立たされて、連れて行かれた日陰の縁側に腰を下ろす頃には少しずつ、駆け寄って来る二組の足音などが聞こえるようになっていた。
「姫様、どしたん!」
「片頭痛だって。お薬は飲んだけど……どうしよう。横になる?」
「頭痛が酷い時は座ってる方がラクよ。水分を取って……仁恵。それ、洸太くんの?」
「うん――」
近付けられた扇風機の風に乗り、人口の冷気が肌を冷やす。
そうして気付く。有村の体内は、随分と熱を溜め込んでいたようだ。
「すぐ治まるので、すみません。作業を……」
あと少しだから、ちゃんと終わらせて、片付けないと。
下した手を太腿に着き、立ち上がろうとする有村を、両肩に乗った小さな手が止める。
「なに言ってるの。もう充分やってもらったわ。洸太くんは、ここで休んで」
佐和よりは小さくて、草間より大きな女性の手。
首を捻って見上げると、エプロンを身に付けた、十年後か二十年後かの草間が心配げに、弱々しく笑っていた。
「そうだよ! あと植えて、片付けるだけでしょ? ウチらでやるから、姫様はここで監督! 戻るよ、仁恵。セコムも!」
「うん」
「ああ」
その、笑みというには不格好な口角や平坦な頬が、綺麗だと思った。
美しいと思ったのだ。温かくて、眩しくて。同時に途轍もなく怖くなり、有村は逸らした視線をまだ庭に残る爪先へ落とした。
頭の痛みは引いていた。耳鳴りはまだ微かに続いていたが、残像のような名残を残しているだけだった。離れて行く靴音がふたつ。フローリングに鳴るスリッパの音が、ひとつ。ちゃんと聞こえる。
開けていく思考が、何か考えようとしていた。何か考えるべきだと訴えている。けれど、あるはずの核に見当がつかなった。
草間と話していたはずだ。花が咲くのはいつかと訊かれて、秋だと答えて――その続きが、思い出せない。
「…………」
草間が何か、言った気がするのに。
「…………っ」
悩む有村の襟足を掠めていく感覚があった。
するりと滑り込んだ熱源が、うなじを掴む。
「……藤堂?」
目が合ったのに何も言わず、ひとり遅れて離れて行く大きな背中を、有村はただ見ていた。




