殻
目当ての本が見つかったあとの草間は、いつにも増してニコニコしている。
最初の頃はすぐ鞄にしまっていたのだが、本当はしばらく抱きしめていたいのだと知って以降、有村は手を繋ぐのをやめ隣りを歩いた。
とても素直な意味合いで、まるで小さな子供みたいだと思ったら、寧ろその姿を見せてくれる瞬間が楽しみになったのだ。ご褒美のようにすら映る有村の目に、両腕でしっかりと本を抱える草間は、今日も可愛い。
「この本ね、何回行っても貸し出し中で、もう一ヶ月ちょっとになるかな。最近はずっとシリーズもの読んでたからあったらいいなぁくらいだったんだけど、今日返したので最後だったし、こんな日に借りれるなんて運命だと思う。どこの図書館にもなかったんだよ? 調べたら、取り寄せるにも時間がかかるっていうしね、それに――」
あと、こういう時の草間はよく喋る。絶賛に次ぐ、絶賛。出会えた感動。そんなにも喜ばれた運命の一冊はさぞ幸せなことだろう。有村が思うに、おこぼれに与かった自分ほどではないにしろ。
心なしか背筋も伸びている草間の緩みっぱなしの頬を見ていると、それがたとえ帰り際でも、分かれた後に気の進まない用事があった日でも、幸せのお裾分けをもらったみたいで有村は和む。元々大抵は流れに身を任せる性分だが、もうひと頑張りするかと思えたり、病院に行くのが嫌だよ、なんて子供じみたことを考えるのはやめようと前向きになれる感じだ。
それでも徐々に草間の勤める書店が近付いて来ると、押し込んだはずの憂鬱の芽が奥の方でウズウズした。草間を送り届けたら、すぐ。その想いが捩れて、草間がアルバイト先に辿り着けなければいいのに、なんて。子供っぽさも伝染するのかもしれない。
行きたくないな。草間が浮かべる満足気な笑みを見つめながら、気が付くとそう考えている。行きたくない。ただ面倒臭いという理由以外でそんな風に思うのは、いつぶりだろう。
行きたくない。でも、行かなくちゃ。佐和の都合で予定より数日早まったこのあとのカウンセリングには、久々に和斗が同席する。佐和と三人か、そう思うと、それもまた憂鬱のプランターに水をやるわけだ。
行きたくない。何度目かに胸の内で呟いた折、大事そうに抱える本の作者の最新作や前作、前々作について楽しそうに話していた草間がふと有村を見上げた。
「有村くんはこれからお薬を貰いに行くんでしょう? このまま行くの?」
致し方なく見下ろす角度で見遣る、草間の躊躇いがちの上目遣いが可愛い。有村は「ううん」と答えながら、つい口元が緩むのを感じた。ここ最近は、一日に何度も草間が堪らなく可愛くて、嬉しい。
すっかりと笑みを湛えた面持ちのまま、有村は時間までどこかで時間を潰すつもりだと答えた。草間を送ったあとに予定がある日は、大体そうだ。
すると草間は、元より小さな口を、もっと小さくした。
可愛いな。見惚れていたから、つい驚いてしまった。
「そっか……あの、それじゃぁ、これ……よかったら持って行かない?」
「え?」
そう言って差し出して来るのは、図書館を出てからここまでずっと抱きしめていたお目当ての本。運命の一冊だ。
いいのかな。迷いが先立ち、有村の視線は本と草間の顔を行き来した。
「一回おウチに帰らないなら、待ってる間、退屈でしょう? これ短編集で、有村くんならすぐ読み終っちゃうかもだけど、時間を潰すには丁度良いかな、とか」
「でもこれは草間さんの今夜の楽しみじゃない」
「そうだけど、私は家に帰るまで読む時間もないし、帰れば本はたくさんあるし。それに有村くんが暇潰しに読んでくれて、またお話出来たら嬉しい、し……」
丁寧にタイトルが見やすいよう差し出された本を受け取っていいものか悩んでいると、草間はすぐにキョロキョロと視線を迷子にし、邪魔だったら、と腕を引っ込めようとする。
彼女の好意は唐突で、余計なお世話に変わってしまうのも早い。本当に借りていいのかを尋ね、草間がコクリと頷くと、有村は有り難く本を受け取ることにした。
読んで話が出来たら嬉しいのは、有村も同じだ。
「出来るだけ早く読んで返すよ。そうだな、明日中には。確か落合さんたちと出掛けるって言ってたよね。夜は店に顔出さないとだし……その前に草間さんの家に寄らせてもらうのは迷惑かな」
「ううん。お母さんはいると思うし、有村くんが面倒でなければ。でも、そんなに急がなくてもいいよ?」
「草間さんがこんなに楽しみにしてるんだもん、きっと面白いし早く話がしたくなる。一日でも早くね。だから持って行くよ。夕方、君が帰る前には」
「ありがとう。じゃぁ一応お母さんに有村くんが来るかもって言って……そうだ。そういえば、有村くんに本当に燻製作りに来るか訊いてって言われたんだった。来る? なんか楽しみにしちゃってるみたいで……」
「行って構わないなら是非」
「じゃぁそれも」
「でも明日は何時に行けるかな。お昼過ぎに一件お手伝いの約束をしてて、三時か、四時か……」
「また、近所の?」
「うん。ソファを買い換えたら、模様替えをしないと置けなくなっちゃったんだって。だから大きな家具をね」
「力仕事だ」
「腕の見せ所です。出来るだけ早く行くって伝えてくれる?」
「うん。あ、でも話長かったら、ちゃんと長いって断ってね」
「お母さんと話すの楽しいよ?」
「……私に似てて、って言う?」
「うん」
「似てないもん!」
親子なのだから似ていて当然だろうに、似ていると言われるのが嫌な草間は不機嫌を露わに頬を丸くする。楽しくて膨らんでいても、不服に膨らませていても、草間の柔らかな頬は可愛いものだ。
いつものように書店の入口で草間を見送り、有村は本を片手に適当な読書スペースを探す。出来るだけ混み合っていなくて、贅沢を言えば美味い珈琲を出してくれる店がいい。
たまには新規開拓でもと思うのだが、面倒臭がりな有村は結局ここから歩いてすぐのカフェに立ち寄り、やや煮詰まった味のする珈琲を傍らに一番奥の席を陣取った。
さて、今日のお供はここの珈琲より、有村を心地良くさせてくれるだろうか。
草間が熱を上げる小説はやはりコテコテの恋愛小説で、五話立てのオムニバス。通り過ぎた若いカップルに在りし日の恋を懐かしむ男の話、遠距離恋愛中の恋人に会う日を今か今かと待ち焦がれている女の話、お互いに中々好きだと言い出せない幼馴染みの話と読み進めた有村は、『嘘吐きな男の話』という次のタイトルを見たところで本を閉じた。
冷めた珈琲を流し込み、時計を見れば大凡予定通り。空のカップと本を手に席を立ち、向けられる視線の一切を無視して外へ出る頃には、このタイミングで見せられた嘘吐きという単語に何も感じていない男の顔を張り付けている。
もうすぐ迎えがやって来る。行き交う人々を透明人間みたいに眺めながら、有村は最後の一ページを捲らなければ良かったと思った。
どうにもソリが合わない人というのがいる。
佐和と和斗はそのいい例で、ふたりは早速どちらが有村を迎えに行くかで揉めたらしい。
車への拘りが強い者同士どちらが運転するかも含めて揉め、今日の勝者は佐和だったようだ。赤いボディーが目を引くポルシェが止まるや否や運転席からは助手席へ乗れと凄まれるし、後部座席からは隣りへ来いと身を乗り出される。
こういう時は勝者に従うことにしている有村は助手席へ乗り込み、和斗には本を預かってもらうという大役を任せた。短編集と書かれたそれの作者名を見ただけでニヤリと笑う察しの良さは、当然無視だ。
「やっぱり洸太を外で待たせるのは心配ね。立ってるだけで絵になるのも考えものだわ」
「赤いスポーツカーが迎えに来たのが、余計だったんじゃないですかね」
「黒のBMWでも似たようなものだと思うけど?」
「窓開けていい?」
「大体、行き先はわかってるんだから現地集合でいいじゃない」
「そうですね。だから俺は佐和さんにわざわざ回ってもらわなくても、途中で拾うって言ったんですけどね」
「勝手に開けまーす」
「兄さんの所へは私が連れて行くと決めてるの。しつこい男は嫌われるわよ」
「融通が利かない女性もどうかと思いますよ」
「……はぁ」
空気が悪い。有村は風に髪をなびかせ、どうせ聞き取ってもらえない溜め息を吐く。どちらも根っからの善人なのに、そんな同族嫌悪はなくて結構だ。
ふたりも少し外の景色でも見て気分を入れ替えればいいのに。助手席から視界を流れるネオンを眺めていた十数分間、佐和と和斗は結局ずっとくだらない火花を散らし合っていた。
そうして向かった雑居ビル五階のクリニックは完全予約制。その上医院長の妹が面倒を見ている大口患者の有村は、毎度その日最後の枠を割り振られている。今日の予約は十九時。異例の早さなのは、明日の朝一番で先生に用事があるから、だそうだ。
通常、有村が下拵えと位置付けている最初の数分を除き、カウンセリングは先生との一対一で行われる。しかし今日のように和斗を伴っている時には彼はその後も部屋に残り、有村が待合室へ戻った後の佐和の時間まで立ち会うのが常だった。有村本人よりも有村を熟知している兄として、先生の腕前を抜き打ち検査したくなるものさ、と和斗は言う。それが誰かの指示でも、有村は別に構わない。
今日の立ち合いは検査というより寄り添ってくれる意味合いが強かったようで、テーブルから離れてポツンと置かれた椅子に座っている間は格段に口数の減る有村に代わり、和斗はようやく顔を合わせた仲の良い友人フルメンバーについて饒舌に語らった。
「藤堂くんたちも実に気持ちの良い子たちですが、あとの三人も嫌味のない素直な子たちでしたよ。礼儀正しいし、弁えるということを知っている。夏休みに入ってから暇さえあれば誰かしらと過ごしていると言っていたので、どんな子たちなのか気になってはいましたが、ああいうタイプなら洸太が接しやすいのもわかります」
つまるところ、和斗はいざという時に嘘が吐けない有村に協力すべく、誇らしげに胸を張っているわけだ。代弁してもらい、都合の悪い話に口を噤んでいれば、ここ最近の変化についてより隠し通せる確率が上がる。
黙っている、というのは有村が唯一自信のある得意技だ。
「あとの三人も男の子なのかい?」
「いえ、藤堂くんの幼馴染みがいて、彼女の女友達がふたり。けど彼女たちには彼氏がいたり、他に想いを寄せる人がいるようで、洸太の扱いは他の男の子たちと同様にかなりぞんざいなものでしたね。まぁそのくらいでなければ、いくら藤堂くんの幼馴染みだとしても、洸太も一定の距離は保っていたんじゃないか?」
「そうだね」
「彼女たちとは気楽に過ごせる?」
「はい」
「そうか。それは何よりだね。これまで洸太くんが関わる女性は例の夜遊びの相手ばかりだったようだから、佐和以外にもひとりの人として接することの出来る異性が増えるのは、きっとこれから先も良い影響を与えてくれるだろう」
「女友達って言うより、ただの友達って感じだったけどな?」
「うん」
ペンを動かし何やら書き込みながら、先生は「そうか」と言って微笑みのような物を湛える。そのまま紙の上に落とした「よかった」がどこへ向かうでもない独り言のようで、有村は初めて先生のその顔が本物の笑顔に近い気がした。
目に見える『におい』が、いつもより少し柔らかい。けれど油断は出来ない。
有村の申し出で、睡眠薬の種類がまた変わった。
「うん。それじゃぁ、今日はこの辺りで。あとは寺島くんと話して終わりにしようかな。洸太くんに何か気になることがなければ」
「ありません。特には」
「そうかい。まぁ何かあれば佐和伝いにでも、直接電話をしてくれても構わない。周りに人が増えると、戸惑うことがあるだろう? なんでもいい。ひとりで悩むより、口に出した方が理解が速まることもある」
「はい」
「じゃぁ、また待合室で待っていて。今日はいつもより少し待たせてしまうかもしれないから、お菓子でも、ね」
「はい」
「本の続きでも読んでいるか?」
「ううん。もうすぐ読み終わるから、続きは帰ってから――」
この部屋は先生のテリトリーだ。だから部屋を出るまでは、このビル自体から離れるまでは気を抜いたりしない。
けれど鞄に手を伸ばしつつ目線を落として、本を、と言って寄越した和斗を見上げた瞬間だけは、多少肩の力が抜けていたのは事実だった。やり過ごせた、と思っていたわけではなかったのだけれど。
照れ隠しのような笑みを口の端に覗かせた有村が顎を引いたその刹那、テーブルの向こうから地を這うような低い声が名前を呼んだ。
「――黙れ」
一瞬のことだった。
「――――ッ」
耳から入って血管を通り、たったひと言の命令に指先まで掌握された気分だ。座れと言われれば膝の健を切られたように立っていられなくなるし、こうして黙れと言われれば固く閉じた歯列の中で舌先ひとつ動かせなくなる。
そうなると息がし難くなるのもすぐだった。有村は横を向いたまま、瞳だけをテーブルの向こうへ投げる。動くなとは言われていないのに、首が鉄で出来たみたいに動かない。
「……ん、で……」
掠れた呼吸音にも聞こえる声が有村の口から洩れると、先生より先に和斗が肩を抱き寄せ「もういい」と呪縛を解いた。解除は別に縛った本人でなくても構わない。この息苦しさの中にいる間、有村にとって他人は一律、他人という名の化け物だ。
命令を反故にされた先生は、また口許だけで笑っていた。吐き気がする、大人の顔。
「すまないね、洸太くん。そういえば、その癖にあった変化を確かめるのを忘れていた。ごめんね、不意打ちなんて卑怯なことをして」
肩を掴む和斗の手に力が籠る。それに反応出来ずにいると、膝を折った和斗は有村の頬を両手で包み、呼び掛けながら視線を合わせて来た。
「もういい、洸太。ホラ、顎の力を抜け。痛くなってしまう」
抜いているつもりだった。けれど和斗に撫でられれば確かに、奥歯は痛いほどだった。
「確認程度の為に、易々と使って頂いては困ります。これは洸太をただ苦しめるもの。あなたは洸太から、その苦しみを消し去るのが務めであるはずでは」
頻繁に用いているのかと和斗が迫る。先生はこれも治療の一環と、また笑う。
「現状を把握する為ですよ。話に聞くだけでは判断出来ない。確かに、以前ほどの効力はなくなっているようだね。この調子で快方へ向かえば、洸太くんの心が他人に支配されなくなる日もそう遠くないかもしれない。あと少しの辛抱だよ。これからも一緒に頑張っていこうね」
なにが、これからも一緒に、だ。なにが、あと少しの辛抱、だ。ここへ来る度に、先生の言葉で縛られる度に、時間を巻き戻されたような気分になるのに。
有村は席を立ち、和斗に断りを入れて部屋を出た。廊下を進む足音が妙に煩い。頭の奥に火が付いたみたいな感覚がある。皮膚の下が焼けるような。閉ざした唇が、何故だか少し震えていた。
けれど、待合室へ戻った所で擦れ違った佐和はいつも通りに微笑み、有村の頬を軽く撫でて小さな紙袋を渡して来る。
「マキちゃんのオススメなの。これでも食べて、ゆっくりしてなさい」
入れ違いに奥の部屋へと入って行く彼女が見たのは、ほんの少し疲れたような、よくよく見知った有村の顔だったのだ。それは受付カウンターの向こうから「おつかされま」と言って寄越すふたりにも、そう見えていたようだった。




