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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第四章 黎明少年
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好みの話

 まったく不可解なばっかりだ。

 あれから何度か試しけれど思い通りの線は一本も引けなかったし、当然何か描ける気もしなかった。草間に借りた感動巨編も相変わらず淡々と読み終えてしまったし、そのくせ佐和お気に入りのチリビーンズは鍋ごと焦がしてしまう体たらく。

 すぐそばにいてあんな焦げ臭さに気付かないだなんてどうかしている。おかげで浮かびかけた草間への感想も飛んでしまったし、散々だ。

「はぁ……」

 らしくないのひと言で片付けられる範囲はまだ超えていないのだろうか。調子が上がらないだけ、そうと思うには、海水浴以降の自分が目に余る。

「はぁ……」

 海の疲れってこんなに何日も尾を引くものなのかな。気付けば溜め息ばかり吐いていて、そんな湿気た自分にまた溜め息。

「……はぁ」

「そ、そんなにダメか?」

「え?」

「見た目、そんなひでぇ? お前さっきから溜息ばっか吐いてよ?」

「ああ、ごめん」

 いけない、いけない、と有村は右手で頬をペチンと叩く。

「ちょっと考え事してた」

「頼むぜ。こっちは心臓バクバク言ってんだから」

「ごめんって」

 どうせ頭の隅で悩むくらいでは何の答えも出ないのだ。ならばまず目の前のことに集中すべきと有村は姿勢を正し、テーブルの向こうから真摯に向けられる緊張の面持ちを一身に受けてケーキスプーンを手に取った。

 人の趣味というのには様々なものがある。読書や映画鑑賞などの返答に困った時に頼れる当たり障りのないものから、道具をごっそり揃える類の本格的なもの、有村の絵のように一時期生活の一部になっていたものだったり、例えば落合がひた隠す密かな趣味というのもなくはない。

 けれど本来、趣味とはその人が個人的に楽しむものであって、一般的であろうとなかろうと、どのような理由があったとしても他人がとやかく言うものではないと有村は思う。或いはそこに、他人に認められたいなどの別の欲求があるのでなければ。

 そういう意味ではたったいま有村がスプーンで透明なカップに入ったケーキを掬い上げるのを固唾を飲んで見守っている鈴木の趣味というのは、中々どうして気の毒な代物だった。

「どうだ?」

「オレンジ入りのレアチーズも美味しかったけど、プレーンにしてオレンジソースをかけたのは色鮮やかでいいね。フルーツとゼリーの色味が映えて夏らしいし、この間のより見た目から美味しそう」

「味は?」

「それはこれから――」

 単にお菓子作りが趣味だったからではない。彼が人気洋菓子店の息子で、純粋にスイーツ作りが楽しいという以外の想いがなかったからだ。本格的になればなるほど、彼の趣味は彼以外にとって趣味で納まらない、らしい。

 専門学校へ通い店を継ぐつもりでいる姉たちがどうとか、鈴木なりに込み入った事情があるらしいのだ。なので鈴木は夜な夜なこっそりとケーキを作り、有村の家へ持って来ては感想を強請る。

「――うん、美味しい。シトラスの香りがいいね。喉ごしまで爽やか」

「おう。この間、味はいいけど匂いはチーズケーキに負けてるって言われたからさ。大事じゃんか、そういうバランスって」

「そうだね。うん、美味しい。やっと完成したんじゃない?」

「マジか! もう気になるトコねぇ? 俺センスねぇから、見た目とかは有村頼みだわ」

「ないよ。完璧」

「強いて言えば? お前が店で出すなら、もう手加えねぇ?」

「んー、そうだなぁ。ウチで出すなら高級感がどうとか言われそうだから、フルーツはゼリーと混ぜてクラッシュして乗せる、とか? あと、アクセントにベリーとか。赤はウチのイメージカラーだし」

「高級感……ソレもらった!」

「でも僕の好みとしてはこのままがいいよ? なんでもベリー付けておけば女性受けがいいみたいなのは都市伝説だと思う」

「え、そうなん? 女はみんな生クリーム増し増しで、モンブラン可愛いんじゃねーの」

「生クリームで胃がもたれる人はいるし、マロン嫌いも普通にいるよ。ウチで一番出るのはバニラアイスってオチ」

「なーるー。お前が作るブラウニー、バカうまなのにな」

「ありがと。珈琲のおかわり、いる?」

「サンキュ」

 お互いスイーツ作りに関してはそこそこの知識と技術があるから、というのは後付けの理由で、有村が山本にも内緒で単独味見係をしているのは、先日の落合同様、偶然製菓用品売り場で鈴木と鉢合わせてしまったから。そうでなければ鈴木はこの隠しておくには惜しい見事な趣味を、誰にも打ち明けずにいるつもりだったらしい。

 このように『らしい』尽くしなのにも理由があって、鈴木はどうやら力作を食べさせはしても、外堀は深く追求して欲しくないようなのだ。有村も他人に干渉する方ではないので、その辺りでも適任だったというわけ。

 落合の女の子らしい服装にしろ、どんどんと本格的になっていく鈴木のスイーツにしろ、窮屈な思いをしてまで隠す必要がどこに、とは思うのだ。こうして誰かには感想を求めるのだし、共有する気が一切ないのでないなら尚更に、とも。

 実のところ有村は近頃、落合にも意見を求められたりする。服装自体というより、そうした服も自作してしまう器用な落合が作った装飾品や鞄、アクセサリーなどについて。楽しそうに話して満足気に帰って行くから事足りてはいるのだろうが、専門的な知識があるわけでもない者が放つただの率直な感想が本当に役に立っているのかは謎である。

「いやぁホント、バレた時は終わったと思ったけど、お前だけは逆に見つかってよかったかもだわ。口は堅てーし、お世辞とか言わねーもんな」

「そうかい?」

「そーそー。しかもなんつーか趣味がいいだろー? 有村に言われたトコ直すとすげー良くなるから、アドバイザーの素質あんぜ」

「だといいけど。珈琲、熱いから気を付けてね」

「おー」

 そして落合もまた姫様は趣味がいいから見てもらうには最高だ、とか言うわけだ。ともなると、有村とて悪い気はしない。

 二杯目の珈琲と美味しいケーキを間に挟み、有村はもうしばらく鈴木の次回作について話を聞くことにした。

 今日は朝から少し風の強い日だった。夏らしい日差しと相まって、ベランダではそろそろ干したシーツがパリッと乾きそうな揺れ方をしている。

 平らげてしまったケーキの代わりに出したレモンの香りがする焼き菓子を美味い美味いと頬張る鈴木を眺め、今度キャリーにも食べてもらおうかななどと考えていると、三つ目をひと口かじった未来のパティシエがそれとなく、テーブルの隅に置いていた有村の携帯電話を見遣った。

「そういやさ」

 時間はおやつにもってこいの三時過ぎ。そんな時間になって鈴木は突然、本当に予定はなかったのかと不安になったようだ。

「バイトないって言われたから来たけど、そういう日って委員長と会ったりしねーの?」

 会おうと思えば会えたのは確かだったけれど有村は考え事に忙しく、そういえば今朝のメールで草間が暇だと知ってそれきりだ。今更といえばこちらも、少々素っ気なかっただろうかと頭の端を掠めはした。

「俺、邪魔してねぇ?」

「してないよ。今日は元々、洗濯物を片付けるつもりだったし」

「んー……」

「なに?」

「いや、なんとなくさ。お前のことだから、暇がありゃー委員長といるのかと思ってたわけ」

「否定はしないけど草間さんにも都合があるし、彼女から家でゆっくり本を読む時間を奪えないでしょ」

「そう言ってお前らのデートってほぼ図書館だべ?」

「まぁ、そうだね」

「けんぜーん」

「おかげさまで」

「で、お前はそれでいいわけ?」

「……なにが?」

 始まった。マグカップをテーブルへ下ろしながら、有村はほんの少し目を細める。自分は干渉されたくないくせに、鈴木も、また彼によく似た落合も飽きないものだ。

 雑談の二言目にはそれでいいのか、と。一体何が心配なのだか。

 いや、単に興味深々なだけなのはわかっている。鈴木も落合も『恋人』というものに少々夢を見ているのだ。主に、物欲的な意味で。

「だーかーらぁ。委員長に合わせてんだろーけど、お前はソレでいーの、って」

 窓の外に見える空は実に気持ち良く晴れ渡っていた。混じり気のないシアンブルーの舞台で純白の雲が遊んでいるみたいな、平和な空だ。

 そうした無垢の傍らでするに相応しい話とは思えなかったのだが、今や無垢と自動的に結びついてしまう草間を思い浮かべてつい口角を上げてしまった手前、ならと持ち出す相応しい会話も思い付かなかった有村は珍しく、「別に急いでないって言えばいい?」と流れに乗る。

「夢を壊すようで悪いけど、経験してみれば案外、そんなものって感じだよ」

 浮かべた薄笑いが気に入らなかった鈴木が、「夢ってなんだよ」とテーブル越しに身を乗り出して有村を叩いた。

 脳天をガツンと拳で一発。痛いけど笑える、鈴木や藤堂の拳は不思議だ。猫の甘噛みみたいで言葉を選ぶのが面倒になる。

 少しだけ、気の利いた感想が言えなくても、借りた本の話を草間としたかったなと思った。電話くらい、すればよかった。

「正直な話をするとね。僕は今まで、いや、今も思ってないわけじゃないんだけど、女性には合わせるものだと思っていて。自分と合わないところが十あるとするじゃない? そうしたら一から九までは気にしないことにして、最後の一だけ交渉しようっていう」

 冷めてんな。素直な鈴木が残念そうに言う。でも、わかる。そう続けて目を瞑り、口をへの字にした彼の脳裏には三人の姉の顔でも飛び交っているのだろう。

 あの姉たちは気さくで、良く笑う良い人たちだけれど、弟には確かに厳しい。とても。

「向こうが望むものをたくさん渡したら、ひとつくらいワガママ言ってもいいかな、くらいに思ってたんだよね。女性って欲しいものがたくさんあるでしょ? 優しくして欲しい。でも不躾は嫌で、黙って聞いてくれるのが優しさ、みたいなさ。なのにイイ感じの所で自分が嬉しい肯定だけ欲しくて、お姫様扱いされたいけど生身としても扱って欲しい、とか」

「え。それ攻略無理じゃね?」

「うん。無理。だから事務的になる。楽しいなんて二の次だよね」

 寧ろ、楽しい必要がなかった。

 鈴木はそこまで知らないから、「なんか、お前の恋バナ殺伐としてね?」と向けられる気の毒そうな顔に、有村は弱々しい笑みをひとつ。

「そこで、だ。草間さんはというと、真逆なわけだよ」

「ん?」

「彼女は欲しいものがない、みたいに見える。僕から何かして真っ先に貰うのは、申し訳ない、だよ。わかるでしょ、見てれば」

 今度は顔と両手を高速で横へ振る草間が浮かんだのだろう。有村もそうだったので、合わせた視線に頷くタイミングが自然に揃う。

「まぁ……そうだな。謙虚っつーか、恐れ多い、みたいにしてんな。未だに」

 そこで卑屈と言ってやらない鈴木は優しい。鈴木の中で草間は少し苦手な委員長から、中々面白いクラスメイトに格上げされたようだった。

 草間の緊張がうつって気まずいから、まだ誰かいないと話しかけたくはないらしいが、有村はどちらかというとやることはやっている藤堂の風体だけの硬派より、真っ白な鈴木の此方の方が好みだ。

 なので愚かな口が勝手に調子付く。天気が良くて、珈琲も美味しくて、麗らかな昼下がりは存外危険だ。水が出るとわかっていて覗き込む、公園などにある、あの穴みたいに。

「難儀なものだね。人生って」

「え。なに、急に」

「だってさ?」

 好奇心に負けて公園でずぶ濡れになる高校生を、少なくともいま目の前にいる鈴木はおかしいと言うはずだ。歳を考えろとか周りを見ろとか言って、恥ずかしいことをしたように言う、気がする。

 冷静に考えれば、有村もそれはしない方がいいことだと止めておく。そのくらいの分別はある。分別というか、例のスイッチをオンにしておくという判断は出来る。なのに、だ。

 草間はきっと最初こそ止めたとしても気付いた時には笑ってくれていて、あの困ったみたいなハニカミ顔でタオルなど持って、水滴を垂らして戻る自分を迎えてくれる気がした。

 とんだ自惚れだろうけれど。その結論で軽くへの字になった有村の口はそのまま拗ねた口振りで想いを紡ぐ。

「僕にとって草間さんはお姫様なのに、ちゃんとしてようって気を付けてる時より、楽しくてつい好きに振舞ってしまった時の方がケラケラ良く笑ってくれて、楽しいってたくさん言ってくれて。いいんだけどさ。嬉しいんだけど。有難いんだけどね」

「……だけど、なに」

「僕だって、彼女の前では少しくらいカッコつけて彼氏さんしたいよ。たまには」

 一拍分の沈黙のあと鈴木は盛大な溜め息を吐いて、「でたよ」と言った。

「お前ホント、そういうトコ」

「うん?」

 額に当てる方の腕を揺すって「ねぇ」と強請ってみたり、「どういうところ?」と訊き直してみたりしても、黙ってしまった鈴木はそれ以上なにも答えてくれない。

 草間のことならどんな些細なことも知りたいのに。ケチ、と言ってみても不動の鈴木に仕方なく有村は折れ、また口元だけで不満を表した。

「…………」

 そうだ。こういう時は頬を膨らました方がそう見えるって、草間さんが。

 言われたことを思い出してやってみたが、やはり不発。少しの間、ただ黙々と珈琲を飲む。冷めてて良かった。その程度しか思うことのなくなった有村を見遣り、鈴木もまたひとくち喉を潤わせ、「で」を切っ掛けに話題を元の本筋へ。

「結局。お前は委員長に合わせて、色々我慢してるわけではねーのかよ」

 なるほど。不貞腐れた顔のお手本はコレか。

 不遜、だけど可愛らしい。そんな面持ちの鈴木を捉え、有村は瞬きをぱちぱち。

「あ。これ、そういう話だったの」

「どういう話だと思ったんだよ」

「下品な話か、お節介だと思ってた」

「下品でお節介な話だろうがよ。物足りなくねーのって訊いてんだから」

 有村が何か話さなくても、鈴木は落合から草間発信で色々と聞いているらしい。

「お前が可愛いって、委員長の目が腐ってんじゃなけりゃ、お前が出さないようにしてるってことだろ。俺から見てもなんか目付き違ぇもん。お前に気がある他のヤツ見てる時と違くて、委員長の前だとガキみたいっつーか。わざとなら疲れんだろ、って。そうじゃねぇなら、いいんだよ。別に」

 素直に、面食らっていた。振る舞いや表情は演出出来るが、さて、目付きはどうだっただろう。草間が自重しろと言うから()()()()ようにはしているが、鈴木から見ても違うと思うほど何かを()()()()()つもりなど有村にはなかった。強いて言えば、無害を気取ってはいるけれど。その程度ではないと指摘された気がした。

 戸惑いもまた表には出ないすまし顔の前で、あくまでも気を揉んでいるのは落合だと強調しつつ、その言葉を借りて「姫様がオスみを自重してる気がする、だとよ」とバカにした風に鼻で笑う鈴木が、「オスみ、ってなんだよ。腐女子の言うことなんかマジで意味わかんねー」と有村の台詞も奪っていく。

「そのままの意味じゃない? オオカミさん、お越しなさい、って」

 なので仕方なく、有村は振り上げた両手の指を爪に見立て、数回軽く握る方へ揺らして見せる。小さな子供がガオーとして見せる、そんな仕草だ。

「あらしのよるに、って知ってる?」

「映画になったやつ?」

「内容は?」

「知らね」

「オオカミさんでも特別なヤギさんは餌じゃないってこと」

 仕上げに「がおー」と言ってみた有村の頭を、鈴木の手が素早く振り抜いた。

「近ぇ」

 これで、照れ隠しには協力出来ただろうか。

 感謝を伝える代わりに受け取った一発は結構痛かったけれど、有村はヘラリと笑い、鈴木は四つ目のレモンケーキをひと口で頬張る。

 見ているだけで唾液が取られそうだ。そう思いながら口へ運ぼうとしたマグカップを寸でで止めると、有村はカップを下げた分だけ視線も落としその縁を指でなぞった。

「……草間さんしかくれないものが、草間さんとしか出来ないことがたくさんあるのに、他の人でもいいことは、あまりしたくない」

 ハムスターのように頬を膨らませていなければ、鈴木は何か言っただろうか。

「……あとでさ。コレのレシピ、教えてくんね?」

「気に入った?」

「チョーうめー。百個食える」

「ホントだね?」

「お?」

「ホントに食べるね? 百個」

「……二十個は食える」

「上出来じゃない。嬉しい。ありがと」

「全部食っていい?」

「もちろん! 食べて、食べて」

 まだあるよと言ってキッチンから持って来た追加の五個も、鈴木の腹に消えるのはすぐだった。

 このレモンケーキのように甘過ぎないからたくさん食べられる、そういう菓子と、鈴木が作って来たチーズケーキみたいにボリューミーで目も腹もひとつで充分満たされる菓子とがあるが、有村にとっての草間はその両方だったりする。

 読書に耽る真剣な横顔を覗き見たり、お茶をしながら他愛のない会話をするだけの日は、毎日でも新鮮に美味しいケーキ。対して、草間が一生懸命何かしてくれた日、今も携帯電話にくっついているストラップをくれた日や、あのアンケートに答えた日などは嬉し過ぎるから、たまにで充分な砂糖の塊、豪華でオシャレな特別なケーキ。

 どちらが好きか有村はまだ決められずにいて、どっちも好きだと言う勇気もまだ持てずにいる。

 自分なんて角砂糖でも食べていればいいと思うのだ。欲しいのは糖分なのだから、豊かな香りも良い食感も、酸味だの色どりだのそんなものは余計で、贅沢なのではないかと。

「あー、もー腹いっぱい! 俺、晩飯食えっかなー」

 怒られちゃうかな。そう言って笑い合う、夏の午後。

 ベランダで風にそよぐシーツはとっくに、カラカラに渇いているようだった。

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