長い一日
急いで出た電話口で丁度マンションに着いたところだと伝えると、草間は「五分後にかけ直す」と告げて電話を切った。
彼女が言うには、七階へ上がるエレベーターの中は圏外だから、ということらしい。そういえばひとりで帰宅する時には階段を使うのを誰にも話したことがなくて、今日があと十分ほどで終わるのを教えてくれた時計と無機質な銀色のドアを続けて眺め軽くうなじを撫でた有村は、引っ越して初めてひとりでエレベーターへと乗り込んだ。
「ホントだ」
圏外にはならないまでも、電波の感度を知らせる三本の線は二本が消えた。
ドアが閉まる前、七階のボタンを押した辺りでやはり臭いとは思ったが、我慢出来ないほどではなかった。七階に着くと外の空気がやけに美味しく感じ、これはこれで、などと首を捻ってみたりする。明日からは今まで通り階段を使うとしよう。
明かりの消えた玄関で靴を脱ぎ、一度自室へ入って肩にかけていた鞄を下ろすと、サンダルは玄関へ、汚れ物はランドリーボックスへと寄り道をしつつリビングの扉を開ける。
鍵を定位置であるキッチンカウンターの端に置いた時、シンクにマグカップをひとつ見つけた。今朝の洗い物は藤堂がしてくれたのだ。寂しそうなマグカップの底には干上がった珈琲が小さな模様を作っていた。有村は蛇口のレバーを持ち上げ、カップの縁ギリギリにまで水を張る。洗うのは、あとでいい。
そのまま薄暗い部屋を横切り、開けておいたカーテンから注ぐ月明かりに誘われるままガラス戸の施錠を外すと、有村はベランダへ出て夜風を浴びる。高層階を選んだのは正解だった。周りの建物は視界を邪魔しないし、風に混ざる悪臭も少ない。これだけは佐和に我が儘を言ってよかったと思う。
「んー……はぁ」
両手を上げて伸びをして、もう一度首を回すと小気味のいい音がした。今日は長い一日だった。目が覚めてからまだ二十時間も経っていないなんて嘘のよう。
朝は味噌汁が塩辛かったし、電車はもっと苦手になっていたし、全身に塗られた日焼け止めは砂が付いて嫌だったし、でも、なんだか楽しい一日だった。全体的に、なんとなく。
「そういえば僕、絵も描けちゃったっぽいんだっけ」
色々あり過ぎて忘れていたが、慌てて消してしまった砂のウサギ。あれについては、このまま本当に草間とふたりの秘密になりそうだ。
なにせ証拠は残っていないのだし。そうして悪い子だなと自嘲気味の笑みを浮かべた有村の後ろポケットで、約束の五分が過ぎた。
「――もしもし。うん。部屋に着いたよ」
かけ直してまでくれたのだ。今夜の電話は『おやすみ』の為だけではないのだろうに、耳を当てる電話の向こうで、えっと、や、あのね、を多用する口下手が本題を切り出せずに戸惑っている。
『今日ね、ありがと』
「いいえ、こちらこそだよ。海もいいねぇ。また行きたいね」
『う、うん。で、あのね。さっきは、あの、みんなとかお母さんがいて、言えなかったから……ね?』
楽しかった。今日は、ありがとう。このやり取りなら何度もしたというのに、まったくどこまでも律儀な子だ。
有村は急かすでもなく次の言葉を待ちながら、手摺りに背中を預けて仰け反るように空を見上げた。迎えを待っている間に見えた星空には雲がかかり、月だけが煌々と輝いている。
『あの……こんなこと言うの変かも、なんだけどね……』
雲の流れはそこそこ速い。明日もきっと晴天だ。
そんなことを考えていると、充分に間隔を置いた控えめな声が意を決したように言った。
『……その……有村くん、大丈夫?』
と。
「なにがだろう?」
返した声が冷たい響きにならないよう、気を遣う余裕はあった。
気を遣って、声色を選んだ。その事実が胸に残ると、確かに有村は草間を突っ撥ねようとしていた。
彼女はただ気遣ってくれただけだ。心配してくれただけだ。無駄に働く警戒心が空の黒を取り込むように、有村の瞳を翳らせていく。
草間が素直な性格で、本当に良かった。
『いやっ、あのね、なんとなくなんだけど、元気なかった気がして』
「ああ、疲れてそうってやつかな。さっき久保さんにも言われたよ、みっともない顔してるって。ごめんね。心配かけちゃって」
『ううん! でも、そうか……そうだよね。疲れて、たんだよね』
まるで、あの頃みたいだ。そう考えてやっと、有村は自分の悪癖の根源を見つけた気がした。
僕に構わないで――。外界から隔離された暮らしや、痩せ細った身体。恐らくはそのどちらかに同情心を抱いたが為に、職と住処を失った人を何人も見た。
大きな荷物を下げて屋敷を振り返る目はいつも怒りで満ちていて、自分を気にかけてくれた優しい人にそんな色が灯るのが、ただただ悲しかった。そういう結末しかないのなら、本当に透けて見えないものになりたかった。耐えられるから、頑張れるから――僕は出来損ないの悪い子だけど、誰も傷付けたくなかった。
電話から聞こえる草間の『ごめんね』を「ううん」で遮り、「謝らないで」と返したら、不意に屋敷から追い出してしまった背中を幾つか思い出した。
僕と話すと榊さんに怒られますよ。そう言って遠ざけようとする頭を撫でて、構わないと言った人たち。彼女たちはいま何処で何をしているのか、幸せに暮らしていればいいと願うしかないのが情けない。
草間はまだ電話を切る気はないようで、けれど言いたいことも言えないみたいに言葉を迷わせたり、黙ったりを繰り返していた。
「疲れてるようには見えなかった?」
何気なく、そんなことを尋ねてみる。
『いやっ……でも、あの……いま考えたら、そうかなって思ったんだけど……』
草間はたぶん、彼女たちと同じ種類の人間だろう。迷子の上げた泣き声ひとつで駆け付けるくらいだ。あの少女はきっと、草間に声をかけられて嬉しかった。救われた気がして、安堵したはずだ。
幼い頃の有村は本当に自分を無視して欲しかった。遠くから微笑みかけてくれるような優しい人にこそ、近付いて欲しくなかった。
話すことがなくても、直接関わることがなくても、屋敷の中に優しい人の気配があればリリーだって年中緊張していないで済む。良いことしかないと思っていた。
でも。
「草間さんは、どう見えたから電話をくれたの? 僕は、声が聞けて嬉しいけど」
でも、頭を撫でてもらうのが、抱きしめてもらうのが、微笑みかけてもらえたことが嫌ではなかった気がする。
ダメだとわかっていたからやめて欲しいと本気で思っていたし、申し訳なくて、怖くて、当時は全く感じられなかったけれど。
『なんとなく、なんだけどね……有村くん、ちょっとだけ寂しそうだったなって、思って』
「……さみしい?」
『いやっ、ごめんね。そんなことないよね。なに言ってるんだろ、わたし――』
ごめんね、なんでもない、忘れて、と捲し立てる彼女の首から上はいま真っ赤で、電話口でも必死にフルフルと顔を横へ振っているはずだ。草間らしくて、簡単に想像出来て、少し笑えた。
寂しいなんて考えてもいなかったけれど、黙っていれば彼女はきっとまた電話をかけづらくなってしまうから、有村は雲に飲まれそうな月を見ながら「そうだったかもしれないな」と口先だけで告げる。
でも言葉だけでも認めてみたら胸の奥がチクリと痛んで、本当に寂しいなんて思えてきた。
「寂しかったかも」
二回目は言ったそばから恥ずかしくなった。
「ありがとう、草間さん」
そうか。僕、寂しかったんだ。今じゃなくて、あの頃。
気付いてくれた人が優しくしてくれたから、喜んじゃダメだって思ったんだ――嬉しかったんだ。僕も。
叶うことなら教えてやりたい。大丈夫だ。お前は十七歳になれるし、大切にしたい人にも巡り合える。大人の言うことなんか、信じなくていい。
大丈夫。お前は、幽霊なんかじゃないよ。
頭の中で語り掛けたあと、頬骨の奥に重くなるような痛みがあった。眼球の奥にも、似たような疼きが、少し。
それは照れ臭い痛みのようで、有村は小さく笑い「恥ずかしいなぁ」と言って、また笑った。
「今日はすっごく楽しかったから、バイバイするのが寂しかったのかも」
『有村くんなのに?』
「なのにって、なに。僕だって一日中みんなで遊んで、ひとりの部屋に帰るんだと思ったら寂しいですぅ」
『なにそれ、可愛い』
「え? 寂しがり?」
『語尾』
「嬉しくないですぅ」
『ふふっ。やめてよ、もう!』
今夜の草間はどこまでも優しかった。
この電話はお誘いだと言って、明日一緒に図書館に行かないかと持ち掛けて来る。海で疲れるだろうからシフトを入れないで家で休もうと思ったのに、明日までの本を返し忘れていたから、だそうだ。
間抜けでしょ、と草間が笑うから、ちょっとだけね、と返して有村も笑った。
「せっかくだから僕も何か借りようかな。本のストックがもうなくてさ」
『なら私、またオススメの本持ってくよ』
「本当? あ、ラブストーリーのリベンジさせてくれようとしてる?」
『それは有村くん次第です』
「では是非、挑戦させて頂きましょう? 今度はもっと王道を試してみたいな」
『そしたらね、いいのがあるよ! 映画化もされたので、ちょっと大人向けなんだけど』
「草間さんの言う大人向けに純粋に興味があります」
『そっ、そんなんじゃないもん!』
「んー? ヤだ、何か想像した? 草間さんのえっち」
『もう!』
「僕が照れちゃわないようなのにしてね」
『有村くんが照れるようなのなんてウチにはありません!』
「うわぁ。なんかスケベみたいに言われたぁ」
『言ってません!』
「ショック」
『言ってないってば!』
笑みの治まらないまま「おやすみ」を言い合った草間は、最後に良い夢をとは言わない。
有村はそう締め括るのに、彼女はいつも「ゆっくりしてね」と返して来るのだ。寝ろとも言わない。勿論、眠れなくても横になれなんて余計なお世話は、もっと。
「じゃぁ、またいつもの所で」
『うん……あっ、あの……星、雲出ちゃって、あんまり見えなくなっちゃったね。そ、それじゃっ!』
ツーツーツーと音を鳴らして通話の終了を伝える携帯電話を耳から外し、有村はそれをじっと見つめて「星、見てたんだ」と呟く。草間にそんな趣味があったとは初耳だ。
もう繋がってはいないのに中々仕舞えなかった携帯電話をポケットへ押し込み、有村は再び夜空を見上げた。確かに厚い雲が出始めている。昼前までにはどこかに行ってね、とお願いしてみたところで、「なんで昼前」、ふと独り言が零れた。
洗濯したいから朝までには、でしょ。なのになんで昼前。
「それじゃぁ待ち合わせの時間に……え?」
待ち遠しいとか思っているのだろうか。ついさっきまで一緒にいたのに。今しがたまで話していたのに。
「……やめよう。恥ずかしいなんてもんじゃない」
夜の風は身体を芯から冷やしそうで、有村はガラス戸に手を掛け、部屋へと一歩足を踏み入れる。静かな部屋。照明をつけない薄暗い部屋。いつも通りの見慣れた部屋へ戻る時、もう一本の足を引き寄せる手前で有村はその隅から隅までを眺めた。
「あれ……ここってこんな、広かったっけ……」
こんなに閑散としていたっけ。
きっとほんの少し目まぐるしかったんだ。有村はそう思い、甘いミルクの香りを求めて浴室へと向かった。




