想いを馳せる
「笑い過ぎだよ。いつまで笑ってるの」
「だって……っ」
うんざりと吐き出した有村が自分を見上げてはクスクスと肩を揺らし続ける落合に呆れ顔を向けたのは、身支度を整え、それぞれが室内履きのスリッパから靴に履き替えた頃。あのお喋りがやって来て間もなくのことだ。
肩が揺れているのは落合だけではなくて、和斗は未だシクシクと有村の背後霊をしている。
「こぉたぁ……」
「腕を揺すらないで。今はそういう気分じゃない」
「こぉたぁっ!」
無論、有村はこのうっかりさんに腹を立てているわけではない。ただ草間の顔はあれから一度も見ていない。なので草間の顔が今にも火を噴きそうに赤いことなど、本来であれば知ったことではない。目に入ってしまうだけで。
「忘れ物はないかい?」
「ないー」
「では、帰るとしよう」
久保に連れられ最後尾に回った草間の顔が何色だったかはわからないが、その他のニヘラ顔は部屋を出てすぐ若干引き締まった。滞在中はここを有村の家と同じ感覚で過ごしていたのかもしれないが、一歩踏み出した場所は静寂を纏う高級旅館の一角。
そうした気配にまた窮屈な想いをさせてしまう心苦しさを募らせた有村は、すっかりと従者の顔をした和斗を傍らに出来るだけ柔らかな笑みを張り付けた。
「みんなは先に和斗と車へ向かってくれるかい? 来た時と同じ、秘密の裏口から」
「姫様は?」
「僕は、小葉さんに挨拶をしてから行くよ。そう待たせない。すぐ行く」
頼んだよと言うまでもなく、和斗は六人を連れて裏へと向かった。自分のいない隙にこれ以上余計なことを口にしないといいけれど。そんな些細な不安も、タイミングよく現れた瓏と小葉のふたりを見れば後回しだ。
本館と離れを繋ぐ廊下は、有村のお気に入りだった。日本庭園と呼んで差し支えない手入れの行き届いた庭と、月が浮かぶ夜空を一望出来る。それにここは中間地点だった。祖母やその側近、和斗からも離れて、本館に籠る人の欲のにおいや視線からも距離がある。
まるで誰もいないみたいに静かで、リリーもこの場所が気に入っていた。
「今日は色々とありがとうございました。急にお邪魔しましたのに、夕食もとても美味しかったです」
「お口に合いました?」
「もちろんです。お世話になりました。友人たちも、それはもう喜んで」
板張りの廊下を静々と近付いて来た小葉はニッコリと微笑み、頬を撫でた風に呼ばれたように一瞬だけ夜空へと視線を投げる。つられて有村も横を向けば、今日はまた一段と綺麗に星が出てら、と小葉越しに覗き込んだ瓏が言った。
「リリーちゃんのこと、残念でしたね」
「ええ」
「お辛かったでしょう。思い出しますわ、賢くて優しい子でした」
「ありがとうございます」
リリーもふたりが好きだった。気高い彼女が自ら進んで頭を撫でてもらいに行ったくらいだ。嬉しそうにしていた。あの顔が、大好きだった。
旅立った魂は星になると本で見た。ロマンチックだとは思うが、いつか燃え尽きてしまうものになったと言われても喜ぶ気にはなれない。リリーは溶けていたらいいと有村は思う。水になり、空気になり、そうやって流れ込んでくればいい。
下へ垂らした指先に、リリーの温もりが掠めた気がした。
「きっと、代わりにはなれないでしょうけれど、坊ちゃんのお傍に素敵な方たちがいらして本当によかったですわ」
「はい」
「坊ちゃん――」
有村が人間を臭いと感じるのは、幼少期からの擦り込みの所為なのかもしれない。媚び諂う目の奥にギラギラと燻るものからは、腐った果実のにおいがした。
そうしたにおいを小葉と瓏から感じ取ったことはない。代わりに、ふたりからはいつも散っていく花のような儚さが香った。
「――もう一度、お顔を見せてくださいまし」
着物の袖を上げて伸ばされる小葉の細い指先が震えている。余計な口を開くまいと気丈に振る舞いながらも、小葉は昔から別れ際には切なげに有村の頬を撫でる。
その理由を、当時の有村は朧げに、今はハッキリと理解していた。
「別れは笑顔で交わすもの。あなたが一番最初に教えてくれた、大切なことです」
「ええ」
「僕もいま、あなたの笑顔が見たい」
「ええ……」
「見せてください、小葉さん。このままでは、僕はあなたの泣き顔を覚えてしまう」
「…………っ」
あの頃に貰った温かさを返すつもりで、有村はそっと小葉を抱き締めた。手を滑らせた背中は、こんなにも小さかっただろうか。耳をすませば聞こえて来る堪えて零れる小葉の嗚咽が、ひどく胸に痛い。
「……坊ちゃん、わたし……っ」
「お気持ちだけで。あなたは決して侘びてはならない。瓏さん、あなたも」
「……すまん」
「瓏さん」
腕から逃がした小葉は袖口で口許を隠し、もう顔を上げてはくれなかった。有村は次に瓏の正面に立ち、殆ど並んでしまった目線をしかと重ね合わせる。
彼も幾分か歳を取った。持ち前の凛々しさに渋さが加わり、益々堅気の人間に見えない。もっと愛想を良くなさいと、有村の頭の中では懐かしい祖母の声がした。
「僕は近頃思うのです。心次第で、救いは常にそばにある。真実がどうでも構いません。僕が救いと思うなら、それは確かに雲を裂く光なのです。ですからどうか、今あなたの胸にある想いもどうぞ、伝えたことになさって過ごしてください。僕の為に」
「洸太、俺は――」
「シィー……」
いつか祖母がそんな風にしていたなとも思い出しながら、有村は瓏の唇の手前に人差し指を立て、持ち得る中で一番穏やかな笑顔を張り付けた。
そして。
「瓏さん。僕はいま、笑えますよ」
そう告げて、返してくれと言わんばかりに瓏の口角を片方持ち上げる。
いつかの瓏を真似るように。
「この幸せに辿り着けると知ったら、過去の何が悔やまれましょう。僕は阿呆で結構。日々、八万六千四百秒に目を凝らすだけで、てんやわんやです」
黙る瓏を抱きしめると、隣りから小葉のか弱い声が、「また会えますわよね」と尋ねて来る。
抱擁を解いた有村はその問いに会釈で返し、半歩下がって次はふたりへ向けて深く首を垂れた。
「寂しくなってしまうので、見送りは、どうかここまでで」
最後に「では」と残し、有村は裏口へ向かって歩き出した。
一度も振り返らず、遠くなっていく背中。それを眺めて俯く小葉の肩を瓏が抱く。
「……聞いた? まるで、お若い頃の旦那様にお逢いしたみたい。奥様はご存じだったのね。智哉様でも悠介様でも、まして、暎彦様でもない。凛としたあの背中。あの子が一番、旦那様にそっくり……」
「まともに会ったこともねぇのに」
口惜しく、てめぇの目は節穴だと言えばよかったと吐き捨てた瓏を、涙で濡れた小葉の目が窘める。
「わかってる。安心してんだ。アイツは、考えりゃわかる。 ……考える気に、なってくれりゃぁな」
所詮は使用人の瓏も小葉も、旦那様と呼ぶ有村の祖父の意向を反故には出来ない。
ただひとつ本心を打ち明けるなら、一滴の墨くらいは落としてやりたかった。
希望を託した三白眼を思い返しながら、瓏はいつまでも静まり返った廊下の先を見つめていた。
和斗が乗りつけたのは、八人でもゆとりのあるステーションワゴンだった。
普段乗り回している手持ちの乗用車でも、清潔に保たれている割にレンタカーという風でもないから、どうやら和斗にはまだまだ有村の知らない小道具があるらしい。慣れない車特有の臭いも消されており、この短時間で空間ごと有村好みに設える抜かりのなさは流石というところ。
「もう冷めてしまっているかもしれないけど、温かい飲み物も置いてあるから、よかったら。毛布も好きに使てもらって、疲れているだろうし、眠くなったら寝てくれて構わないよ」
「ありがとうございます」
「すみません。何から何まで」
「いやいや。大人の嗜みだよ、お嬢さん方」
「――なにが大人の嗜みだい」
「おっ、来たか」
「待たせてごめんね。それじゃぁ、行こうか」
高校生の顔に戻った有村が周囲に人がいないのを確認して助手席へ乗り込むと、いよいよ車が走り出した。
三列目で鈴木と山本が眠りに就き、その安らかな寝息につられて手前の落合と久保が毛布を被って静かになると、有村はすぐ後ろの藤堂と草間にも「寝て構わないよ」と笑みを向ける。
草間の手には紅茶が、藤堂の手には珈琲があったが湯気が出ていないのが残念だ。冷めているなんてものじゃない。有村が丁度良いくらいなのだから。
「お前は?」
「僕はあんまり眠くないかな」
「なら、俺も起きてる」
「私も」
「そう? 付き合ってくれなくてもいいのに」
一日中はしゃぎ、仕上げに腹が膨れてすっかり熟睡した四人を起こさない程度に、夜の高速道路を順調に進みながら前の四人はポツリポツリと話し始める。
口火を切ったのはなんと、身を乗り出して前方にあった運転席のシートに触れた草間だった。和斗さん、と呼びかけながら覗き込むのが、小柄なのに輪をかけて子供みたいに見える。
「あの、改めてになりますが……今日は、その、色々とありがとうございました。すみません。私が、慣れない靴を履いて来たから……」
それは多分、草間が可哀想なほど申し訳なさそうに眉を下げていたからだ。有村が笑ったのと和斗が笑ったのはまたもや同時で、藤堂は少し遅れて口角を上げた。
「うん? ああ、そうだったのかい? 俺はてっきり、洸太がもう電車に乗りたくないと駄々を捏ねたのかと思ってた」
「その通り。夜の電車なんて昼間より乗れたものじゃないよ。だから気にしないで? ね、草間さん」
「有村くんも、ありがとう、色々」
「足の具合はどう?」
「うん。もう、平気。お風呂のあとに瓏さんが救急箱を持って来てくれて、消毒して、あと薬も塗って手当てしてくれたよ」
「そう。あら、随分大きなのを貼られたんだね」
「うん。あるんだね、こんなの」
「膝を擦りむいた時とかに使うやつだな。なんだ、そんなにデカい傷だったのか」
「普通のでも隠れるくらいだったんだけど……」
「あの人のことだから、デカいに越したことはないって思ったんじゃないかな」
「そうだね。瓏さんはなにかと豪快だから」
瓏が貼った絆創膏は草間の足首を覆い隠していて、前からでも優に両端が見えた。大は小を兼ねるとは確かに。けれどこれでは両親が心配しそうだと思っていると、今度は横から「でも、これを見たら親父さんは腰を抜かしそうだな」と藤堂が有村の先を越した。
「コイツの父親は娘溺愛でな。いつだったか手を少し切っただけなのに、三日間くらい包帯を巻いて学校に行かせたくらいなんだ」
「えっ、やだ、藤堂くん。そんなの覚えて……っ」
「ああ。久保が言うにはあとで見てもどこを切ったかわからないくらいだったって話だが、あれは中々面白かった」
「やめてよ、藤堂くん。忘れてっ」
「凄かったぞ? 手首から指の付け根までグルグル巻きだ」
「忘れてっ」
「ふふっ」
どこもかしこも過保護ばっかりだ。零した笑みを引っ込めて運転席を見遣ると、和斗は有村より微妙な顔をして口尻を下げた。似たような経験が有村にもある。背中に限った話だったけれども。
等間隔でフワフワ揺れる車内で唐突に「そう言えば」と切り出したのは、さすがの和斗も多少居心地が悪くなったからだろう。貼り付けた真面目そうな横顔に有村がまた何とも言えない視線を注いでいると、どうやらそれは半分くらい本物だったようだ。
「泊まりの件、あれはあのまま進めていいのか?」
「うん?」
連絡を貰った覚えはないけれど、そう思ったのを和斗は察して、八日前にメールしたと大層悲しそうに口をへの字にして見せる。
八日前。八日前。和斗からのメールだけでもかなりスクロールして該当するメールを探し出し改めて読んでみると、携帯小説みたいな長文に紛れて、確かに『許可は取った』とあった。
「お前、また俺のメール斜め読みしたな?」
「だって長いんだ。こんなの毎日、何件も読めない」
「全部俺には必要なことなんだぞ?」
「なら分けてよ。いつもそう言ってるのに。件名に要返信って付けてって」
「全部返信して欲しんだ、本当は。でも、そんなドライな洸太が好き」
「どうも」
「で、なんだ」
「ん? ああ、大丈夫みたい」
簡単だなと言われたから、有村はこんなに長いんだと教えるもの兼ねて、藤堂と草間に携帯電話のディスプレイを向ける。物静かなふたりだから気の毒そうに瞬きするくらいだったけれど、本当にいつも和斗からのメールは長いし、量も多い。
一日五件で済めば少ない方だ。四件で終わったら重病を疑う。
「これは……」
「ちょっと……」
「ね」
「それだって俺は削って削って、我慢に我慢を重ねて送ってるんだぞ? 本当はお前をポケットに入れて日々持ち歩きたいくらいなんだ。伝わらないかな。俺のこの愛」
「有り難いけど、ちょっと重い」
「ドライ過ぎて寒い。寒くて凍えそう。でも好き。大好き」
「ありがと」
後列では藤堂が草間に両親からの許可の有無を確認していた。やっと話せたという草間はコクリと頷き、きっと桃色だった頬が暗くてよく見えなかったが悔しい限り。
包帯グルグル巻きの前例がある娘溺愛の父親は、草間が切り出す前に泊まり掛けで出掛けたいのを知っていたらしい。楽しんでおいでとは言ってくれたようだが条件付きで、部屋は必ず落合と久保の同室にすること、毎晩電話を寄越すこと、その電話には有村も出ることが付け加えられていた。ふたつ目と三つ目は問題ないし、有村はひとつ目も端からそのつもりだ。改めて釘を刺されなくても、その手の進展は草間との間に望んでいない。
すると、それらを聞いた和斗はバックミラー越しに草間を覗き、あとで自分の携帯番号も教えるから家に残しておいでと言った。それだって、有村は既に提案済みだ。
「それに部屋のことだけど、三人同室でも構わないし、七人ならひとり一部屋も用意出来るよ。部屋は中から施錠出来るし、開けるにはこわーい女主人に別荘中どこでも開く魔法の鍵を借りに行かなきゃいけない。洸太は昔、夜中にこっそり脱走して捜索騒ぎを起こす常習犯だったから、頼んでも預けてくれるとは思えないしね。忍び込むのは無理無理」
「脱走?」
「お前は犬か」
「暇だったんだよ」
また、余計なことを。苦々しく口を尖らせた有村はしかし、夜中に脱走という台詞で行き先がひとつに絞れた。もしかしたら先のメールにあったのかもしれないが、気付いたのはこの瞬間。
「じゃぁ志津さんの所にしたんだ」
「読んでくれ。頼むから」
あ、やっぱり書いてあったんだ。そこは有村の楽園の方。
和斗が泣きそうな顔をしたことより藤堂に後ろからシートを殴られたことで有村は睫毛をパタパタと瞬かせ、つぶらな瞳でニコリと笑う。悪かったかなと思わなくもないけれど、それでもやはりメールが長過ぎるのが悪い。
要点を簡潔にというのが苦手らしい和斗にこれ以上悪者にされては敵わないと、以降の有村は専ら相槌を返すだけのお飾りになった。
「そこは源泉かけ流しの露天風呂が自慢でね。ここだけの話、さっきの見た目だけ温泉なんかもう、全然。ちょっと山の中に入るけど車で少し走ればレジャー施設が幾つかあるし、庭のプールで泳ぐことも出来る。中々快適な所だよ」
などなど。
そうして手持無沙汰になった有村は再び、あの山深い場所へと想いを馳せる。
リリーがはしゃいで大変だった露天風呂。リリーが気持ち良さそうに泳いでいたプール。リリーと一緒に窓から抜け出した、ふたりきりの夜の散歩。
「洸太も懐かしいだろう。あそこへ行くのは……ああ、もう五年ぶりくらいになるか」
懐かしい、と思えればいいのだけれど。
「そうだね」
微笑みを湛えて返した有村の耳に、どこからともなく、彼女の息遣いが聞こえたような気がした。




