冷たい横顔
あれが羞恥心の頂点だったのかもしれない。
窮屈な列と有村から離れて窓際にひとつだけ空いていたふたり掛けの席に腰を下ろし、やっとひと息つけるとやや嘘臭いほどの溜息を吐いた草間は、しばし抜け殻のように窓の向こうの人波を眺めていた。
通り過ぎる人、人、人。空調の効いた店内からそれを見やれば、快適な温度に自然と心が落ち着いていく。
「絵里ちゃんはもう彼氏さんと会えたかな……」
草間と同じく昼過ぎに待ち合わせをしていると駅前で別れた久保も、そろそろ合流出来た頃だろうか。そんなことに思いを馳せる余裕まで生まれた草間は、そういえばどさくさに紛れて有村の腕を小突いてしまった手を見やった。
カッとなって、つい。久保や落合にだって滅多にそんなことはしないのに。
「触っちゃった。自分から……けど、なんか。意外と平気かも」
馴れ馴れしかったかもしれない。
けれど、それがなにかの切っ掛けになったのは確かだった。
そうじゃないとは言いながら草間はやはりどこかでは有村を遥か遠い存在だと感じていて、ともすれば異国の人のような、言ってしまえば違う星の人のような、そんなとんでもない距離感を覚えていたのかもしれない。それが一度触れてみれば、手に残った感触はあまりに普通。当たり前のことなのだが、鉄のように固いわけでも、触れただけで燃えてしまいそうな高温を放っているわけでもなく、あくまで普通の、人間の感触がした。
「有村くんもただの人、とか。絵里ちゃんなに言ってるんだろうとか思ってたけど、案外、すごく的を得てたのかも……」
店内を動き回る人の中にトレイを持った有村を見つけ草間は手を上げると、「有村くん! こっちだよ!」と声を掛ける。その声はちゃんと彼まで届いた。
憑きものが落ちたようだというか、余計な力抜けたというか。お待たせと言って向かいの椅子を引く有村を見上げた草間はもう特に赤面することもなく、「ありがとう」と久保や落合に向けるような自然な笑みを浮かべていた。
乗り越えられたなら、この状況を楽しまないと損だ。もう二度と、ないことなのだろうし。
「いやぁ、また混んで来た感じだねぇ」
「二階も大体満席だって」
「あらまぁ」
そのやる気のない返事と来たら。
キラキラとは程遠い薄目で店内を見やる有村を見て草間は口元を隠し、クスクスと笑った。
向かい合いハンバーガーを頬張る有村を窺い見て、気付いたことがある。
今日に限った変化、という方が適切かもしれない。先程、視力が弱いと聞いて納得したが、彼には人や物をじっと見る癖がある。
そういう時の有村の視線というのは、見るというより眺めているという風なぼんやりとしたもので、向けられても別段不快に感じる類のものではないのだが、なにせあの大きな目だ、あまり周囲に気を配れない草間であっても見られていればすぐ気付く。
それが正面に座って会話もそこそこに交わしながら、ただの一度もぶつからないのだ。草間の方は様子を窺いながらチラチラと見ているのに、である。
偶然かなと思いつつ更に観察してみると、椅子に腰を下ろしてからの有村は終始視線を下げ気味にして、草間と話す時もあまり顔を上げないようにしているみたいだった。
前にいるのが草間だとわかっているから見て確認するまでもない、というただそれだけかもしれない。けれど草間が知る有村は基本的に話す相手を見て受け答えをするタイプで、ずっと伏し目がちというのは見たことがない。
もしかして目が合わないようにしてくれてるのかなと気付くのは、存外早かった。
彼と視線が重なると草間はまるで車道に飛び出した猫のよう、その動きの一切を止めてしまうことが多い。察しの良い有村のことだ。なにかとわかりやすい反応を示してしまう草間を相手に、そんな習性のようなビクつきも、待ち合わせてからここまで神経をすり減らすほど緊張していたことにも気付いているのかもしれない。
――気を遣ってくれてるのかな。
それが勘違いでないと確信したのは、有村がその会話の端々で草間が言い返せる程度の揶揄いを、いつも以上に投げかけて来たからだ。そしてそれよりたくさん、声を上げて楽し気に笑っていたから。
ついムキになって否定し、笑う有村につられて頬を緩めてしまえば、気分は徐々に自然と楽しめるよう和らいでいったし、緊張で固くなっていた身体もみるみる軽くなっていくのを草間はしっかりと感じていた。なんというか、彼は雰囲気を作り出すのが上手い。草間の息がしやすい方に。
――私、やっぱり有村くんのこと、好きだなぁ……。
チーズの香るハンバーガーを啄みながら、草間は有村が見せるそんな優しさに口元を綻ばせた。
「今更だけど、三つってすごいね」
「そう? まぁ言ってもパンだから」
「男の子って、普通なのかな。そのくらい」
「どうかなぁ。こないだ鈴木くんは八個食べたけどね」
「八個!」
「そー。限界に挑戦するんだって言って一気に十個頼んでさぁ。で、ゆっくり苦しみつつ八個食べたあとに、もう無理だって残りの二個食べろって言うの。もう温かさの欠片もないやつだよ? あれはきつかったなぁ」
「固くなってそうだね」
「うん、表面シワシワ。冷めたらダメだね。最悪」
「あはは。じゃぁ早く食べなくちゃ。冷めちゃう前に」
「だね。今日のメインは映画だしねー」
十二時を過ぎて一層混み出した店内は先日の夕方の比ではなく騒々しくて、普段ならすぐに出たいと思うくらいに居心地が悪い。けれど草間はこの騒がしさも目の前に有村が居れば心地良くなる現金な自分に笑ってしまって、ずっとここにいてもいいかもしれない、なんて思ったりする。
声が聞き取りにくいからとお互いに少しだけテーブルに身を乗り出していて、草間が半分食べきる前に二つ目の包み紙をトレイに置いた有村に「食べるの早いね」と言って、「草間さんはなんかウサギみたいだね」と返されるやり取りも、なにもかもが近くて温かい。
実際の距離だけじゃない。身構えずに交わす、他愛のない会話が嬉しい。普通に話していいんだと思える、一歩も二歩も近付けた気になる気持ちの距離が、もっと嬉しい。直前までウジウジと悩んでいたけれど、今日は本当に来て良かったと心から思った。
終わりの見えて来たハンバーガーをひと口またひと口と齧り、草間は背中を押してくれた久保と落合に何度も感謝する。今晩は報告出来ることがたくさんありそうだ。
「そう言えば、なに観るかもう決めた?」
「あー……」
突然に当初の目的に話を振られ、草間は視線を泳がせる。
勿論、考えていなかったわけではない。昨日の寝不足の原因は間違いなくそれだったし、これから行こうとしてる映画館でどんな映画が上映中か、草間は暗記してしまうほど入念に調べていた。
それでもまだ決められずにいるのは、これが『怖い映画が観たい』という流れで決まった外出だったからだ。
草間は大層ばつの悪そうな顔をして、ストローに口をつけた。
「その顔は、決まってないって顔だ。いいよ。じゃぁ食べたら行って、向こうで決めよ。アクション? スリラー? あ、ヒューマン系だけ勘弁して。泣かせたがってるのはちょっと苦手で」
「……ホラーじゃなくていいの?」
「いいよー、なんでも。そう言ったじゃん。スッキリすればそれでいーの」
「そっ……か」
それを聞いて、正直に打ち明けるなら今だろうかと草間は思った。先日、ホラー映画は大丈夫だと言った、あの発言についてだ。
少し苦手なくらいなら誤魔化せるだろうけれど、草間は血を見て軽く貧血を起こしてしまうくらいだったので、そうなってからでは遅いのも重々。
言うべきか、言わざるべきか。この雰囲気なら、そうだったんだ、とすんなり受け入れてもらえるような気もする。しかしそれを言ったら他にも細々と吐いている嘘まで露呈しそうで、草間はこの絶好の機会にも尻込みをしてしまう。
きっと有村はこういう人だから、正直に嘘を吐いたと謝れば怒ったり機嫌を損ねたりはしないだろう。それはわかっているから、これはただの我儘だ。少しでも悪く思われたくない。そう思う草間の浅はかさだ。
彼女はそれを自分でよく理解していた。だから口を噤んでしまったのだ。
目の前で三つ目のハンバーガーを平らげて、「何があるかなぁ。楽しみだなー」などと暢気に零している有村に、あのね、と切り出す勇気はない。
止めておこう。そう決めると、浮かれていた心にまた少し鈍い痛みが刺した。
この痛みが彼に気付かれなければいいが。そう願う草間に横顔を向けて、気がつけばサイドメニューまで食べ終わっていた有村が、ストローを咥えたままで事も無げに問いかけて来た。
「草間さんは、よく映画館行くの? 久保さんと落合さんじゃ、好みバラけそうだけど」
ここからでは間にそびえる建物に邪魔をされて目的地である映画館は見えないのだが、通りに沿ったガラス張りの壁の向こうへと投げる遥か遠くを見ているような有村の視線は瞳に差し込む明かりの反射で更に色が薄くなり、もしかしたら草間とは別の風景が見えているのかもしれないと思わせるような不思議な揺れ方をしていた。
それは息を飲む輝きで、どこまでも澄み渡る湖みたいに目映くて、草間はその黄色とも緑色ともつかない透けるような瞳に見惚れてしまう。
大きいから余計に、だ。彼の目は、とても綺麗。
「……あぁ、うん、そうだね。ふたりとは、あまり。来るなら、お母さんと一緒が多い、かな。好きな俳優さんが多くて、観たい映画があると誘われて。すごいミーハーでね。アイドルも俳優さんも、あと歌手でも、ちょっとカッコイイと追いかけちゃうの」
「そっか。仲が良いんだね」
「うん。五つ上のお姉ちゃんもいるんだけど、お姉ちゃんはそういうの誘ってもいいやって言う人で、それで私が。子供の頃は三人で観に行ったりもしたんだけど」
「そうか。いいね。そういう思い出は大切にしなくちゃね」
彼の表情は横を向いたまま、微動だにしていなかった。
――ん? あれ……?
言葉尻の微妙なニュアンスで、草間はふと噤んだ口を固くする。いま、少しだけ声のトーンが下がったような。
相変わらず淡々と紡がれたし、おかしなことを言われたわけでもない。覗き見た横顔も教室で見るのとそう変わらないように思えたのだけど、なんとなく会話を切られた、避けられた、そんな気がする。
寧ろ自分がおかしなことを言ってしまったのかと、喋り過ぎてしまった気もして、草間は気まずさから慌ててパクパクと残りのハンバーガーを口に含んだ。
何か気に障ることを言ってしまったのかな。お母さんと一緒に映画、なんて、子供っぽかっただろうか。そう思っていたのだけれど、もう一度窺ってみた有村の横顔、その目を見て、草間は落としたトレイの隅から視線を動かせなくなった。
ほんの少しだ。ほんの、ちょっとだけ。
草間にはその時の有村の目付きが、外の景色を睨んでいるように見えた。さっきまでとは全く違うものみたいに。
何とも言えない微妙な空気がふたりの間を漂う。未だ通りの外を見やる有村は完全な無表情で、まるでそこにぽつんと置かれた人形のようだった。あまりに綺麗で、少し怖い。そんな風に思わせる人間離れした雰囲気は、有村のその肌をも陶器のような温度のないものように感じさせる。
――どうしよう。
声すらもかけられず、草間はただ息を殺した。もしも今さっきのように小突いたら、『カツン』と乾いた音でもしてきそうだ。
「それにしても――」
しかしその重苦しさは呆気なく、唐突に途切れることになる。
近くに誰もいない平野に佇んでいるみたいな顔をしていたけれど、その目の端に空になった包み紙をトレイに戻した草間の手でも見切れたのだろう。男子にしては縦の幅が大きい有村の零れそうな瞳が一度ゆっくりと瞬きをして、次の瞬間、第一声から若干遅れて草間に向けられた時にはいつもの柔らかい笑みを湛えていた。
「――外は暑そうだね。出たらまた汗だくになりそーだ」
ニッコリと口角を上げる有村に、草間の胸が騒ぐ。
「そ、そうだね。今日は二十八度まで上がるって、言ってたよ」
「もうすっかり夏じゃんね。まだ六月なのに、やんなっちゃう」
あの一瞬は見間違いだったのかと思えるほど、「あー、腹いっぱいだぁ」と首を回す有村はどこから見てもいつも通り。それに草間は、よかった、と思った。
なにに対してそう思ったのか草間自身にもよくわからなかったが、ただ見慣れたいつもの有村の穏やかな笑顔に安堵したのは確か。
そうだ。きっと見慣れない表情を垣間見てしまった所為だ。彼があまりに整った顔をしているから、笑っていないと近寄り難い雰囲気を醸し出してしまうに違いない。
「じゃ、行こうか」
そう言ってさり気なく草間のトレイも一緒に重ね近くのゴミ箱へ片付けてくれる後ろ姿は、教室でほうきを片付けてくれた時の後ろ姿となんら変わりないのだし。
気の所為だ。草間はそう思うことにした。
「あー、やっぱり混んでるなぁ。手、繋いどこうか」
それに、店を出てすぐ再び手を握られた草間は正直、考え事をしていられる状態ではなかった。
擦れ違い様や立ち止まる度に有村を振り返る人は多くいたけれど、彼はずっと草間を見ていて、草間だけに話しかけるのだ。揶揄って、褒めて、また笑って。そうやって特別みたいに扱われたら、頭の端っこででも他のことを考えている余裕などない。
草間はすっかりと舞い上がり、もっともっと有村に夢中になった。彼の声は魔法だ。かけられる度、応える度に、それ以外がどうでもよくなってしまう。
「草間さんは白がよく似合うね。今日の服も、すごく可愛い」
「そ、そう……かな?」
「うん。似合ってるよ、とても。白は昼間。太陽の色だ。眩しくて、素直で、まっすぐで――」
好きな色なんだ。
手を引かれて人混みを縫いながら告げられたそれは、まるで殺し文句のようだった。
火を噴くような照れ臭さと改めて噛み締めた有村への想いで草間の胸は一杯になって、最初の角を曲がる頃にはふと脳裏を掠めた違和感など跡形もなく、綺麗さっぱり消えていた。