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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第四章 黎明少年
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向こう側

 お食事の用意が整いましたら、また。そう言い残して部屋を後にした小葉と共に有村も出て行ってしまい、残された藤堂たち六人はしばらくの間、同じく離れに残った瓏と他愛のない談笑を楽しんだ。

 すっかりと緊張の糸が解けた頃を見計らい、四つある部屋の奥に備え付けの露天風呂を先に使うことにした女子三人は「温泉なんて久々だぁ」と興奮しきりの落合を先頭に、「ちゃんと髪を洗いたかったのよね」と続く久保、その両方に頷くまだ頬が熱そうな草間で賑やかに声を遠ざけて行く。

 見送った後の三人の男子たちは「風呂を覗いたら摘まみ出すからな」などと睨みを利かせる瓏の前で、そんなことしませんよ、と特に耳を真っ赤にした鈴木が否定に忙しい。

「信用ならねぇなぁ。俺がお前らくらいの頃は、朝から晩まで女のことしか考えてなかったもんだ」

「それちょっと極端過ぎますって!」

 有村の家側の人間という意味ではこの瓏という人物も先の女将もそうなのだろうが、こうして見ると極々普通の気のいい大人たちだ。和斗とはまた違う気さくさを持つ瓏は特に、本当に客商売なのか疑いたくなるくらいに、口も人相も上品とは言い難い。

 巻き込まれれば同じく「覗かないッス」と返す藤堂はふと、こういう大人もちゃんといるんじゃないかと思った。少しだけ、ホッとした。

「お前らはいつもそうなのか? 面白いヤツらだな。気に入った」

 鈴木と山本を散々に揶揄ってから、瓏は藤堂に「戸締りだけは頼むな」と鍵を手渡した。騒ぎ過ぎてノックが聞こえないってのはやめてくれよ、なんて。藤堂は向けられた威圧感のある笑みに、ひとりだけ会釈で返す。

 安堵はしたけれど、気を抜くのは早いということだろうか。

「何かあったら、そこの電話で内線九番だ。それで俺の携帯が鳴る。ここへ来るのは俺かおふくろくらいなもんだが、まぁ戸を開ける時は洸太に了解とってくれ」

「ッス」

 まるで子供のはしゃぎぶりを見せる鈴木と山本には混ざらずにいた藤堂は、部屋を出しなに「お前のメシは大盛にしとくわ」と瓏から腹に柔い拳を食らい、柱から背中を浮かせて、また「ッス」とだけ返した。瓏の空気に飲まれたというか、なんというか、半分くらいは野球少年だった頃の癖だ。

 しかし見送るのはすぐに改め、藤堂は瓏のあとを追った。

 一枚閉めたドアの向こうでは鈴木たちがまだ騒いでいる。藤堂が二枚目の扉に手を掛ける瓏を呼び止めると、予想していた通り、振り向いたのは少々取っ付き難い顔をした大人だった。

「その図体で小食とか言ったら笑うぞ?」

「いえ、食う方だと思います」

「なら、なんだ」

「瓏さん――」

 ここは有村の向こう側にある世界だ。

 藤堂は言葉を選び、その上で一番簡潔に物を言った。

「――出来たら、少し話聞かせてもらえませんか」

 瓏はニヤリと笑い、「お前も面白いヤツみたいだな」と、外へ続く扉を開けた。



 良い景色だろうと言いながら瓏は煙草を咥え、ライターを構えてから吸ってもいいか尋ねて来た。種類は全く違うのだが、どうぞと答えた藤堂に口の端を上げた瓏はどこか、食えない時の有村に似ている。

「お前は、あの中で一番、洸太に信頼されてるみたいだな」

「だと、いいんスけど」

 親しみ易さを纏いながらも一本、明確な線引きをされている感覚。どこでというわけでもなく、強いて言うなら存在感そのもので容易く踏み込ませない圧のようなものが、憎らしいほどそっくりだ。

 瓏の場合は煙草の先から上る白が、彼のテリトリーのように見えた。おかしくも藤堂は有村のそれに多少慣れていたことに、少なからず感謝していた。

「アレは言葉に頼るのを好まないが、人間ってのは言葉にしないと使えないのをよく知ってる。部屋を出る時、洸太は最後にお前を見た。頼りにしてる証拠だ」

「……はい」

「フッ。その口下手がいいのかもな。正直、驚いたんだ。アレは人間を臭ぇと言いやがる。そいつは手前じゃ誤魔化しようのないモンだ。洸太と居るには、素質が要る」

「素質……」

()()()なんだろうよ。お前も、残りのヤツらも」

 笑みと共に瓏が吐き出した細い煙は、煙草特有の焦げ臭さを更けた夜空に撒いた。星が綺麗に見える日は空が澄んでいるんだと有村は言う。似ているかもしれないけれど、瓏と有村は根本からして少し違うようだった。

「で、何が聞きたい?」

「アイツは、有村は、近いうちに連れ戻されるんですか」

「ハッ! ハハ。訂正だ。お前、ただの馬鹿野郎か」

 ダメかと訊くと、瓏は笑いながらダメじゃないと答える。今度は、また少し似ていると思った。

 そうやって満ち引きを繰り返すのが有村とこの男が同じ世界にいる証拠のようで、藤堂は届いてもいない煙を避ける体で半歩分、近付く方に身じろいだ。

「洸太がそう言ってんのか? じきに戻ると」

「いつかはそうなるだろうって。卒業までは頑張るとか、言ってますけど」

「はッ。頑張る、か。洸太らしいな」

 ふぅ。息を吐くひとつの動作で、澄んだ空気にまたヤニ臭さが混ざる。瓏が浮かべた三十代の男性らしい物憂げな表情が呆れたのでも斜に構えたのでも、藤堂にはどちらでも良かった。

 花火を見た日にやって来た男――榊。あの男について何を訪ねようと、有村は心配いらないと言う以外、一切口を割らなかった。既に手を打った後ならいい。あれが、いつのも強がりでないなら。有村がひとりで窮地に立たされているのでなければ。藤堂が気に病むのは、それだけだ。

 口を放したまま燻る煙草は指に挟んでおくだけにしたらしい瓏は、藤堂の想いを察したかのように初めてちゃんと両方の口角を上げた。

「俺が知る限りじゃ、アレを今すぐどうこうって話は聞かねぇなぁ」

 静かな口調で語り出した瓏の話では、少なくとも本家の中に有村を必要としている人間はいないらしい。そもそも家を飛び出して芸術家を気取る不逞の次男の息子という認識はあっても、有村洸太という個人を知っている人物は極限られているというのだ。

「大抵のヤツは分家、洸太の実家な、それを邪魔なコブだと思ってる。家業はこれっぽちも継がねぇのに多少の財産は分けられてるんだから、まぁ仕方ない」

 屋敷の建つあの広大な土地が、その最たる物なのだそうだ。藤堂の母親のような熱心なファンが一定数いるとはいえ、一介の人形作家である有村の父親は確かに家政婦を何人も抱える旦那様と呼ぶには少々違和感がある。

 実情を聞き、藤堂には納得出来たものが幾つかあった。

「お前、洸太の家やなんかのことは、どの程度知ってる?」

 曖昧な問いかけに、藤堂もまた曖昧に両親の職業や大体の人柄、家を出る切っ掛けになった事故のことなどを上げ連ねる。最後に現在の高校生活が念願のものであったことを付け加え、そのような生活を強いたのが父親であることを指摘したあと、痛ましい背中について苦く言い淀んだ自分の語彙の乏しさに藤堂はつい、視線を下げた。

 総合的に考えれば有村が明言しなくとも、認めさえしなくても、父親に不自由を強いられ、非道な母親に折檻を受けた上で多くの人間にそれらを黙認、無視されて来たのだと藤堂は理解している。酷い不眠症を患っていること、感じ取れない感情を頭で補っていること、それを悲しむが故に時に深い闇に落ちかけては瀬戸際で踏み止まり、這い上がる度に傷を負う苦しさとその強さこそが有村らしく思える反面、見ているだけで辛いと正直に告げたのは、そこまで追い詰めた『助けなかった大人たち』のひとりであると、多少は瓏を責める気持ちがあったからかもしれない。

 見当違いも理解していた。拙い言葉を並べる間中、瓏の面持ちはひどく切なげで、察しが悪い藤堂ですら彼の中に大きな後悔などがあるのを感じ取れるほどだったからだ。

「でもアイツは、誰も恨んでないって言うんスよ。優しくしてくれた人はいたって、そういう人たちにこそ何もしないで欲しかったって」

 いつか聞いた台詞をそのまま伝えれば、「敵わねぇな」と小さく呟く瓏の声に微かな掠れが混じる。きっと、遣る瀬無いの間違いだろうと思った。少なくとも、藤堂はそうだからだ。

 固く平坦になった瓏の頬。その下できつく噛まれた奥歯の痛みも、わかるような気がした。

「洸太を連れ戻したいヤツがいるとしたら、頭のネジが飛んだ親父の下じゃいずれ切られる分家からなんとか本家に紛れ込みたいのがアレを手土産に、ってのが大筋だろう。上手く仕立てて卓に上げりゃベットする輩はいるって考えは、わからんでもない」

「手土産?」

 理解出来ないではなかったが、藤堂はつい訊き返していた。

 有村は、自分が継ぐのは名前くらいなものだと言っていたのだ。その時確かに目上の従兄がいるとも聞いていたので、ただぶら下げていた藤堂の手が無意識に拳を握った。

「本家には十九になる息子がいる。ガキの頃から後継ぎとして目一杯期待を背負わされた、まぁ洸太とは違う種類の苦労をしてきたヤツだ。悪い男じゃないが、残念なことにとびきり優秀とは言い難くてな、言っちまえば平凡なんだ。気の強い奥方に遠慮して誰も言いやしないが親父譲りのお利口さんで、明らかに兵隊向き。人の上に立って功績を遺すってタマじゃない」

「だから有村を担いでやろうってことっスか」

「ここの家ってのは金はあってもまぁ当主に恵まれない家系でよ。食い潰すだけ食い潰して没落寸前まで衰退したところを今の旦那様が一代で建て直して、地盤を再構築するどころが袖をえらい広げて大成功を収めたわけだ。稀代の英傑なんて呼ばれてな。この状態を維持するだけでも難儀だろうが、一度繁栄の味を知るともっと欲しくなるのが人ってもんだ。平凡な次は仕方ないとして、その次に化けりゃとんでもない大輪を咲かせそうな芽があるんなら、どっちに水を撒きたいよ?」

 意地の悪い物言いに煽られるよう、藤堂の口が固く閉じる。

 なにが不満だったのか、これといって一点を示せそうになかったのだ。どこもかしこも自分のことばかり。置き去りにされる有村自身を苦々しく想ってもそういう家だととうに知っていれば、ただ無性に腹が立った。

「ま、それもこれも洸太を知らねぇヤツならって話だ。俺が思うに洸太も本家のボンに負けず劣らず、立派な飾りになったとして、手腕を問うなら経営者には向かねぇよ」

「……やらせりゃやるんじゃないっスか。アイツは」

「まぁな。だから洸太は()()んだよ」

 不貞腐れるのにも似た藤堂の薄い表情でも読んだのか、どこか退屈そうに吐き捨てた瓏は合った視線をそのままに、片方の口角をつり上げる。

「アレも大概、筋金入りの良い子だ。従順で高性能。勘が良いっつーか、器用っつーか、欲深いヤツらが持てば最強の切り札にもなるかもしれない。でもそいつは所謂、諸刃の剣だ。従順の対価に手前が払ってる無自覚のデカい代償がバカらしくなれば、洸太も飼い主の手を噛み千切るくらいの牙は持ってるかもな?」

「代償?」

「……お前、洸太の絵を見たことは?」

 落とした目線を床板の上で泳がせ、藤堂は「ない」と答えた。唐突ですらあったのだ。描いた絵はおろか藤堂は有村にそのような趣味があることすらも知らなかったので、描いていないのかという問いかけにも、多分と答える他がない。

「そうか。ま、無理強いするモンでもないしな。余計なことを言った。気が向いたら、和斗にでも強請ってくれ」

 残念そうに呟くものの、同じく目線を落とした瓏の湛える静かな面持ちは何故か、とうにそうと知っていたかのように、藤堂には見えた。

「まぁいい。俺が言いたいのは、欲のねぇ人形なんてのはこっちが勝手に見る幻想だって話だ。アレには欲しい物がない。何も望まず求めもしなけりゃ、我が身可愛さの保身なんぞ興味もない。そう躾けられたって言やそれまでだが、外の世界で近くに居るお前から見て、洸太は本当に他人が動かすロボットか? 誰に聞かれるとも知れねぇこんな場所でつまらん話をさせるお前はどうにも利口にゃ見えないが、ただ見栄えの良い人形に惹かれただけの阿呆とも思えないんだがなぁ」

 飲み込む物が多過ぎて、藤堂には瓏が繰り出す嫌味含みの口調もその割に軽快な声も、ことを深刻にしないだけ有難くすら感じる。

 そういえばしばらく蒸かされるでもなく灰を長くするだけの煙草から視線を上げ、悠然と構える瓏の顔を再び見遣った藤堂は、そこに浮かぶ妙に穏やかな笑みに瞬きをひとつ。

「瓏さんは、有村を戻したくないってことっスか」

「そう思ってもらえるなら有難ぇな。たとえケツに火が付いたって、洸太を旦那様と呼ぶよりマシだ」

 つい、頬が緩んだ。なんて皮肉な、可愛げのない物言いだろうか。

「助けてやりたかったんスか。アイツを」

「殺してやりたかったよ。いっそな」

 恐らくは笑うのが不得意な者同士、不格好な笑みが詰まる音で互いに漏れた。

 知りたかったことを全て聴けたわけではなかった。しかし瓏の立っている場所が見えれば、藤堂は呼び止めたのを後悔せずに済んだ。直接的に何かしてくれるわけでなくても、味方はいる。それだけで締まりのなくなる頬や口の端を、藤堂は中々上手く隠せなかった。

 そんな藤堂を瓏は良い友だと言い、誰よりも幸せそうに微笑む。伸ばされたその大きな手に肩を掴まれ柔く揺すられながら、藤堂が返した小さな会釈のぎこちなさと言ったらなかった。

「ああ、もうこんな時間か。ついお喋りが過ぎちまったな。お前も風呂に入るなら、悪いが少し急いでくれよ?」

 腕時計を眺め、瓏は最後に藤堂の肩を強く押して距離を取る。

 予想より話し込んでしまったらしく、そろそろ夕食の支度が出来る頃合いだ。藤堂を急かすには不遜な笑みを湛えていたが、瓏はふと廊下が繋ぐ本館の方を見遣り、表情を涼しくした。

 その変化を捉えなかった藤堂は、「またあとでな」と言われたのを機に顔を上げる。

「あの。最後に、ひとつだけいいっスか」

「ん?」

 まだ訊きたいことがあった。瓏なら答えてくれると思ったから、首を捻って振り向いただけの横顔に尋ねてみた。

「リリーってのは、アイツのなんなんスか」

 先の内容に比べれば、だいぶ気軽に向けたのだ。

 しかし、問うた途端に後悔した。時を止めたように瓏が不動でいた、約二秒ほどの沈黙。それがあまりに重かった。

「……有村に何度か訊いたんスけど、はぐらかして答えなくて。大切なヤツだったってのは、なんとなくわかるんスけど」

「ダメなのか。それだけじゃ」

「ダメってことはないっスけど、あの、妙な呪文があって」

「呪文?」

 肌がひり付くような刺々しさを感じつつ訝しむ瓏に告げるのは、いざという時に使うよう佐和から教えられた、例の言葉だ。

「アイツ、たまになんか、ちょっとおかしくなる時があって。そういう時に言えと言われてるんです。リリーを放せ、って」

 躊躇いがちに吐き出した藤堂を見る鋭い視線が数秒迷い、縦の幅を狭くした。

 再びに沈黙が落ち、本館と離れを繋ぐ渡り廊下を夜風が通り抜けると、少し肌寒く感じた藤堂の耳に鈴木と山本の話し声が微かに聞こえた。彼らも気を遣って音量を落としているのだろう。それでもくだらない内容が聞き取れて、引率気取りの藤堂の足をただ向ける目に映すだけの瓏と共に早く離れへ戻そうとする。

「――あのな、()()()

 やけに通る声が、名前ひとつで藤堂を射抜く。口惜しくも、それは有村を苛む呪縛の追体験のようだった。

 いつの間にかぼやけていた境界線が、改めて明確な線として示される。

 中央を陣取った廊下の端、本館と離れ。棲む世界が違うのだと、そう思い知らされる気がした。

「大事に想ってくれるのは有難いが、アレを救おうなんて思うな。洸太はもう、片足が向こうへ行ってる」

 一度は離れかけた瓏が一歩、また一歩と近付いて来る。

「だから精一杯アイツの重荷になって引き留めろ。忘れるな。洸太は、捨てると決めたら早い」

 そのまま自分の真正面で足を止めたとて、瓏までの距離は途方もなく遠く感じた。

 ここへ来て有村へ向けるような笑みを湛えた瓏だけでなく、本来であればその向こう側にいるはずの有村までも。

「リリーは切り札じゃない、藪蛇だ。迂闊に突いても碌なことになんねぇよ」

 伸びて来た瓏の指先が藤堂の羽織るシャツの胸ポケットに厚みのある紙を忍ばせ、何事もなく離れて行く。押し込まれた数グラム。それがまるで鉛のようで、藤堂はただ「はい」と頷くしかなかった。

 飲まれたのでも、不貞腐れたのでもない。その返事を待っているような瓏はやはり、家に囚われる時の有村によく似ていた。

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