御影瓏
有村は身近にいた人間の大凡を信用していないし、殆どの場合、個人として認識すらしていない。
彼らにとっての有村がいつか使えるかもしれない道具であったり、扱いに困る持て余した幽霊であったのと同様に、有村にとっても似た仮面を着けた彼らに顔などあって無いようなものだったのだ。強いて言えば、建前や欲望を内包した虚偽、それらの具現化のような存在でしかなかった。
けれど、中にはほんの一握りほど、演技を抜きに接して構わない人たちがいる。本家の大奥様、有村の祖母に当たるその人が心を砕く相手。私の可愛い孫よ、と、紹介してくれた人たちだ。
これから来る迎えもそのひとつであり、真っ先に思い浮かんだ顔は有村を自然に微笑ませる特別な人物だった。
嬉しかったのだ。誰より有村を気遣う和斗が行けと言うくらいだ。
しばらく疎遠であっても、あそこが未だ温かいセーフハウスであったことが、とても。
「この近くに祖母が特別贔屓にしている宿があってね。祖父の持ち物なんだけど、僕も子供の頃に何度か行ったことがあって。みんな、温泉は好きかい? 多分ちょっとした食事も出してくれると思うよ」
余程申し訳なく思ったのか鈴木が調達して来た飲み物で喉を潤しつつ微笑み交じりに切り出せば、草間と、あくまでも草間に寄り添う久保以外の表情が晴れる。やったー。温泉だー。メシだー。そんな歓声にも似た声を聴き、有村は胸に込み上げる気恥ずかしいような感覚に戸惑いを覚えた。
友人など望んではいけないものだと思っていたから、幼い頃から知る人たちに紹介するのは照れ臭い。でも、自分にも友人が出来たこと、今はこんなにも素敵な人たちに、その出会いに恵まれたことを自慢したい気もする。
掻い摘んでしまえば、僕は今こんなにも幸せですと伝えたいのだ。過去がどうあれ、十七歳になれた今の自分を知って欲しい。そういう想いが芽生えていたことに有村は何より驚いていたし、感動していた。
「草間さん」
賑やかになった声を掻い潜り、有村は久保に肩を抱かれる草間の前に立つ。
「僕の、大切な人たちなんだ。これから会う人たちも、みんなも。だから、会ってくれるかい? 出来れば、いつもの草間さんらしい優しい顔で」
困惑気な上目遣いで向けられる草間の瞳に翳るのは、強い心苦しさだけのようだった。自分が足を痛めた所為で。草間はその点、頑固なもので。
「いい機会かなって、思って。正直な話、僕はもう二度とそこに行くことはないと思ってて。根拠はないけど、なんとなく。でも優しくしてもらったから、僕が今どんなに楽しい毎日を過ごしているか、ちょっとだけね、自慢したい」
有村くん、と呟いた草間は数秒ほど地面や宙を忙しく眺め、何か決心したかのように唇を固くする。そうして舞い戻る視線は温かさを蘇らせていた。その目だ。幸せ自慢をしに行くのなら、それがなくては始まらない。
「私も、会ってみたい。有村くんの、大切な人」
「良い人たちだよ。ちょっと堅苦しいかもしれないけどね。最初だけね」
どこかの部屋に収まるまでは。軽い調子で言いはしたが、大きな瞬きをした草間の肩を引き寄せた久保が「アンタ、どっかの坊ちゃんって本当なの」と隣りで眼光を鋭くする。
そんな話もした気がするけれど。いや、確かにした。だから泊りがけの話など出たわけで、改めてされる確認につい裏を読みそうになる。
「あっ、紹介するって言ってもアレだよ? フランクなやつ」
「なんの話よ」
「え? 草間さんの身辺とか調査されたりしないよ? そういう話じゃなくて? やりそうな人には紹介しないよ、口が裂けても」
「えっ!」
「いるの。しそうな人」
「まぁ……うん」
「なんなの、アンタ」
「有村です」
「会話しなさいよ、宇宙人」
「あ。普通の高校生です」
「……もういい」
「え?」
そういう話じゃなかったのかな。
久保は心底呆れた風に溜め息を吐くし、「身辺調査……」と地面に向かって呟く草間の誤解も解きたかったのだが、有村にその時間はなかった。
和斗に連絡をしてから、十分程度が経っていた。近付いて来た藤堂が隣りに立つなり背中を叩き、「迎えってあれじゃないか」と顎で指す方向に三等星ほどの明かりが計八つ。
「あー、多分そうだね。四台か。僕はひとりで乗るから、ふたりずつで組んでもらっていい?」
「ん」
やっぱり送迎用のバスなんてないか。テレビで見てそういう旅館もあると知ったから密かに期待していたのだが、車体に名前を乗せるような宿ではないから当たり前だ。
荷物を纏めるよう指示を出し、引率の先生に返り咲く藤堂に急かされて、有村も飲みかけの珈琲を飲み干す。空き缶をどうしよう。周囲を見渡していたら、ついでに捨てて来ると鈴木が引き取ってくれた。
これで準備完了。あとは少し表情を消して、と頬を平らにした有村に「なんでひとりよ」と久保が食って掛かる。
「仁恵と乗りなさいよ」
出来ることなら有村だってそうしたい。
「僕以外にひとりになって気まずくない人は誰?」
「私でいいわよ」
「俺でもいいぞ」
「客人に気を遣わせたら叱られる」
「お前を?」
「うん」
「そうか。本当にアイツとは違うんだな」
嫌味など言う男ではないから素直に見送った横顔が、「草間は俺と乗れ」と彼女の荷物を浚って行く。そうだな。まずはこの親友を自慢しないと。ニヤリと笑う有村の腹に、久保の拳がめり込んだ。
さて。そんな想いで、先頭に立った有村は夜空を見上げた。
時刻表にあった地名よりこの星空でアタリを付けたと言ったら、あの人は昔と変わらず笑ってくれるだろうか。空は有村の好きな藍色の時間を過ぎ、先程までうっすらと見えていたサソリの赤い心臓、アンタレスがより輝きを放っている。
実家の庭から見るより、ずっと鮮明な輝きだ。壮大だと思う。素晴らしいと思う。けれど美しいとは、やはり思えなかった。
「有村」
藤堂の呼び掛けで視線を下ろすと、目の前の道路に並んだ四台の車の運転席と助手席からスーツを着た七人の男性が降り、有村へ向けて次々に深く首を垂れる。有村は昔からこれが苦手だった。そうと知っていた祖母が見なくて済むようにしてくれていたのを、今更知った。
「洸太!」
先頭車の助手席から降りた最後のひとりを見て、有村の口角が微かに上がる。他の七人より上質なスリーピーススーツ。黒い髪を後ろへ流したその人が、「顔を上げろ」と右手を払う。
「それ、やんなって言ったろ? 洸太は良いんだ。本家のボンと一緒にするな」
隙のない身なりも気さくな口調も懐かしく、思わず肩を揺らした有村の正面に立ったその人は真っ先に頬に触れ、下げていた顔を上げさせる。
「洸太だ」
「はい。ご無沙汰してます。瓏さん」
「洸太!」
思いきり抱き締められた強さも、あまり昔と変わらなかった。ただ胸に埋もれてしまわなくなっただけ、抱き返しやすくなったとは思った。
「バカ野郎! なんでもっと早くに顔出さねぇんだ! 五年だぞ、五年! ちくしょう……知らねぇうちにこんな、デカくなりやがって」
「そうなんですよ。一年で二十センチくらい伸びたんです。ビックリしました」
額をつける肩口で「ビックリしましたじゃねぇよ」と毒吐いてから、背中を撫でた手が何か確かめるように有村の背骨を辿り、二の腕を掴んだりしたあとで、距離を取って向かい合う首筋に触れる。
「髪、切ったんだな」
「はい。切りました」
「似合ってんな。随分と男前になった」
「ありがとうございます」
両方の瞳を交互に見つめ感極まって泣き出しそうな顔をした彼が、何に一番驚いているのかを有村は知っている。
これでしょう? そういうつもりで、ニコリと微笑む。
「……バカ野郎」
それが自分に向けられたものでないことも、有村は知っていた。
彼にしてみれば、有村がこうして普通に口を利くこと自体がバカ野郎で間違いないのだ。
もう一度軽い抱擁を交わし、藤堂たちを紹介すべく振り向く肩を抱く手が強い。生きる仁義という感じ。見た目もままそのような顔立ちの彼を前に、表情の薄い藤堂以外は案の定、覚えた不安を挙動不審な首から上で露骨に見せていた。
「怖がられてますよ、瓏さん」
「なんとかしろよ。向こうにもひとりいるじゃねぇか」
「あれが僕の一番の友人です」
「番犬かよ」
「優秀なんですよ? 噛みつかれないように注意してくださいね」
「阿呆」
コツンと当てられた頭突きに笑い、有村が手を拱いて藤堂たちを呼ぶ。
「怖くないから、こっち来て?」
いつの間にか距離を取っていた面々がざわつくのも無理はない。
背後からがっしりと抱き着く彼の人相というのは、藤堂に負けず劣らず。まったく、客商売にはあるまじきことだ。若い頃にはチンピラ風で、歳を重ねたらそのまま役付きみたいな風貌になるなんて。後ろに流した髪が軽く前髪だけを落としていたりするところが、特に。有村からすると、そこが一番彼らしいのだけれど。
あるべき所に納まったからといって丸くならないところが、益々好ましい限りだ。
「この人は御影瓏さん。母君の代からうちに仕えてくれている、信用のおける人だ。こんな風体だけれどちゃんと客前にも顔を出す、若主人でもあるんだよ」
「こんなとはなんだ。こんなとは」
「苦しいですって。あと、重いです」
「わりぃ、わりぃ」
最後にポンっと頭を叩いて有村の背中から離れた瓏に藤堂たち六人は戸惑いつつも、名前を名乗るだけの簡単な自己紹介と挨拶をした。その間、瓏の腕は有村の肩を抱いたまま。瓏は身長や体格も藤堂と同じくらいだ。なのでやけに収まりが良いのが、有村はまた面白い。
瓏は空いている方の手で名乗るひとりひとりと握手をしながら、ひと言ふた言の挨拶を交わした。この外見と迷いなく差し出される手に最後に待つ草間が委縮するのはわかっていたので、有村は間髪を入れず、彼女は少し男性が苦手だから挨拶だけで、と助け船を出す。
「そうか。なら怖がらせちまったかな。申し訳ない。こんな顔で」
「いえ……す、すみません……」
「藤堂より本物みたいで怖いよね。わかるよ」
「あ、有村くんっ」
「でも堅気の人だから……ですよね?」
「確認すんな。公共の風呂にも自由に入れるわ」
「よかった」
「お前なぁ」
そんな可愛くないことを言うのはこの口か、と瓏の大きな手が有村の顔の下半分を覆い隠す。それを見て藤堂がふたりになったみたいだと山本が指を差して笑えば鈴木と落合があとに続き、そこはかとなく漂っていた緊張感が煙になって消えていくのはすぐだった。
こればかりは山本さまさまというところ。彼の敢えて空気を読まない性格は、有り余る腹肉と同じくらいに有村の癒しだ。
近頃覚えた身体を張って空気を変える方法も彼から学んだようなものだし、それを見てもらえたら幸いと有村は笑いかけ、受け取った瓏は何も言わずにその頬を撫でた。
そうしてまた見え隠れする憂いを帯びた表情については、大事に胸の中にしまっておくことにしよう。瓏はきっと照れ臭くて掴んだり撫でたりした頬を叩いて離れ、反対の手も有村の肩から離した。
「コイツのことは生まれた時から知っててな。俺にとっちゃ世話の焼ける弟みたいなモンだ。だ、もんで、迎えが来るまでの間、出来る限りのもてなしをさせて欲しい。まずはウチ自慢の風呂にでも入って、サッパリしてくれ。歓迎する。俺のことはどうか、瓏と気軽に呼んでくれ」
「あざっす!」
「温泉大好きー!」
和らいだ雰囲気の中でしっかりとお辞儀をし、お世話になります、と腰を折った草間を見て緩んだ頬を摘ままれた有村は、その犯人を見もせずに「瓏さん」と目を閉じる。それだけで許してくれるから、有村は彼が好きだ。
荷物をトランクに詰め、ふたりずつに分かれて乗車するのを眺めていると、有村の元へ鈴木が近付いて来る。
「なぁ。お前、一年で二十センチ伸びたって、マジ?」
「うん」
「何したん?」
「なんだろう。運動?」
「その辺、後で詳しく」
「うん。うん?」
鈴木はあのサイズだから良いのに。
今夜は言って殴られるのも悪くない気分だったが、有村は楽し気に笑うだけで瓏の待つ先頭車に乗り込んだ。




