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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第四章 黎明少年
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朝が来た

 毛布の膨らみが身じろいで、小さな声を漏らすと共に気怠げな瞼が開くのを待ち、ベッドの縁に腰かけた有村は振り向きざまに告げた。

「僕たち、もう終わりにしよう」

 部屋には大きく開いた遮光カーテンの向こうから眩しい朝日が差し込んでおり、持ち上がったはずの瞼は閉じているのとそう変わりないくらいに細められている。

 いや、有村が見下ろしたその人の目は、たとえカーテンが閉め切られていても随分と切れ長な三白眼をしているのだけれど。

「……やめろ、朝から」

「ふふっ」

 不遜な顔を毛布に隠し、落合の入れ知恵か、などと言う重低音が有村を更に笑顔にする。

 確かにここのところ落合とはよく話すし、以前と比べかなり親しくなった気もするが、彼女の宝物を読み物として数冊見たのが影響しているかというと、有村には即答しかねる。多少の愛嬌のつもりもなくはなかったけれど、先の言葉が一番簡潔だった自信だってあるからだ。

 真っ直ぐに注ぐ視線は寝ぼけ眼にはあまり良い物に見えなかったようで、見上げる格好の藤堂の瞳が無感情に瞬きを落とす。

「やっぱり、俺じゃダメだってことか」

 恋しい枕を抱きしめるようにうつ伏せで横たわる藤堂に「まさか」と返したあと、有村はふと湧き起こる短い黒髪を撫でたい衝動を抑えた。

 拗ねた物言いなど、藤堂らしくもない。それほどに寄り添ってくれる献身に、感謝以外の何があろうものか。

「体温の心地良さに男女の別はないと確信したけどね。僕の為に隣りで眠る君は格別、温かいよ。過ぎるくらいに」

「なら、なんで急に」

 頭を撫でる代わりに有村は藤堂に背を向け、天井を仰ぎしな、放り出すように伸ばした足の爪先を楽し気に揺らせて見せる。

「今朝、久々に朝焼けに見惚れた。見惚れた僕に、少し期待をしようかと」

「期待?」

 この街へ来てからも、朝の静寂は心地良かった。しかし夜が明けていく空を待ち遠しく眺めたのは、実家にいた頃、まだ傍らにリリーがいた頃以来だった。

 昨晩膨らんでいた蕾は開いただろうかと、胸を躍らせた頃、以来。耐えて忍ぶ夜明けではなく、有村は今朝、確かに朝日を待った。そうして青く立ち込めた空気を吸い込み、終わりにしようと決めたのだ。

 この心臓が脈打つ限り、朝は来る。繰り返す度、少しずつリリーを欠いたあの夜から遠ざかっていく。薄情だと思う。残酷だと嘆きたくもなる。でも、それが今を重ねることなのだという事実が、今朝の澄んだ朝焼けに朧気ながら見えた気がしたから。

「その場凌ぎはやっぱり、そう何度も繰り返しちゃいけないと思ってね。うなされるのは嫌だけど、君に甘えてリリーから逃げるのは違う気がしたんだ。リリーは僕の中にいる。それを僕が望むなら、リリーがくれたものも残したものも全て飲み込むのが道理だろう?」

 藤堂は何も言わなかった。予想通りの沈黙に「抱きしめたくなるかい?」と振り向きざま嘯けば、すぐにでも外出出来る腕捲りのリネンシャツ、その背中に鋭い蹴りが飛んで来る。

「出来るって言わないの?」

「出来るよ。お前なら」

「何も知らないくせにー」

「面倒臭ぇ」

「あははっ」

 辛くなったら手を貸して。そう口角を上げて告げる有村に、藤堂はもう一発の蹴りを繰り出しながら「限界の手前で言えよ」と快い返事を返す。少し広いこのベッドの寝心地が良い、などというのは言い訳にも照れ隠しにもならなかった。昨晩観た映画の続編は、近日中に観る約束を交わした。

「もうすぐご飯が炊けるから、少し早いけど朝食にしよう。リビングで待ってる」

「すぐ行く」

 子供をあやすかのように毛布の膨らみの上で軽く手を弾ませ、「十分経ったらまた来るよ」と揶揄う声色で告げた有村は三発目の蹴りを避け、ケラケラと笑いながら部屋をあとにした。

 後ろ手に閉めたドアの前で、何度目かに有村は想う。今の僕は、なんて幸せなのだろう、と。

 その度にリリーに対する後ろめたさや申し訳なさが込み上げもするが、そのぶん、あとを追えない自分はリリーと向き合うべきなのだ、とも思った。

 いつか、リリーの元へ行く。それまでの僅かな間、リリーに持って行く土産話を、あと少しだけ。

「君が居ないのに笑える僕を、君は許してくれるかな」

 まるでエゴの塊だ。

 たったひとつの約束を反故にした裏切り者である事実は変わらないのに、辛くない毎日は微塵も償いにはならないのに。

「…………」

 醜い犬歯で口内の肉を噛み、そこから広がる鉄の味で、有村は熱のない瞬きを落とした。

「僕も人間だったんだなぁ……」

 呟いてみて、嬉しかったのか、残念だったのか見分けがつかず、ふと首が傾げる角度に傾いていく。

「……意外?」

 訝し気なままキッチンへ戻ると、湯気の上がり始めた炊飯器を眺めた有村の視界の隅で、主張の強い振動音が鳴った。ブブー、ブブー、と二回。今朝はそれがきっかけで、有村はすぐに鉄の味を忘れた。

 キッチンカウンターに置いていた携帯電話を見遣るだけで、目星はついている震わせた相手を想うだけで背筋が伸び、有村の頬は自然に弛緩していく。二つ折りのそれを開いてみれば案の定、メールの送り主は草間だった。

 そろそろ来る頃だと思っていたのだ。今日は待望の海水浴へ出向く日だった。

『おはよう。今朝は私も楽しみで早く起きたのに、やっぱり有村くんの方が早かったね。追いかけっこみたい』

 ここ最近、有村のメールボックスは、草間からの『おはよう』と『おやすみ』で溢れている。

 水曜日の約束を律義に守ってくれている草間から来るメールは、不眠症を明かして以来、格段に増えた。なんのことはない。会う約束のない日には彼女のスケジュールの欠片が舞い込んで来たり、読書を切り上げられなくて寝不足だ、というような他愛のない内容ばかりだが、だからこそ余計に有村は読み終えたメールを削除出来なくなる。これが宝物だなんて、草間は知らないだろうけれど。

『楽しみで浮かれてしまう競争なら、僕は草間さんに負ける気がしないよ』

 手早く打った返信を送り、有村は思いの外緩んでいた口角に照れた。

 本当はもう気付いている。新しい一日が始まれば、また、草間に会える。対面すれば実際に、文字だけでも脳裏に浮かぶ彼女の笑顔をもう一度見たいが為に、朝を待ち遠しく思い始めている自分に。

 ふと、リリーの面影が胸に過った。

「草間、なんだって?」

 無造作に髪を掻きながらリビングへやって来た藤堂の問いかけに有村は携帯電話をパタリと閉じ、定位置であるカウンターへ置く。

「海水浴、楽しみだねって。天気予報では三十五度になるってさ」

 今日もまたこの夏一番の猛暑日だそうで、そんな日がもう何日も続いている。

 熱中症にご注意を、の文言を耳にしない日はない。晴天続きの夏休み。七夕祭りの日に有村が(したた)めた願いは、今のところ順調だ。

 天気が良いからと、散歩がてら草間と数駅先の図書館まで行った日もあった。熱冷ましにアイスの買い食いも、何度か。気分だけでも涼しくなろうと、落合の呼び掛けで七人揃ってホラー映画を観た日には、久保の背中に隠れてちっとも見ていないくせに音だけで大きく肩を跳ねさせる草間が愛らしくて仕方なかった。勿論、有村は映画の内容など少しも覚えていない。

 その映画鑑賞会の日と同様にキッチンに収まりながら浮かれた横顔を見せる有村の脇を通り過ぎ、藤堂は食卓へ着く。目の前に置かれた炊き立ての白米が山盛りの茶碗から有村に視線を移し、「なら、お前には日焼け止めが要るな」と放つ藤堂の口元も幾分か緩みがちだ。

 こちらも案の定、「嫌だ」と返して来たもので、藤堂は有村の白い肌を顎で指し、あとで泣くのはお前だなどと説き伏せる。馴染みのなかった太陽を、有村は少し甘く見ているのだ。

「なら、薄く塗って。限りなく」

「はいよ」

 不貞腐れた有村と笑みを鼻に抜いた藤堂は向かい合わせの席で共に手を合わせ、「いただきます」の声を揃えた。

 と、ここまでは藤堂の知るいつも通りの朝だった。部屋にはやはり塵ひとつなく、遠くで洗濯機が回る音もしている。藤堂が箸を持ち上げるまでにあった変化は有村が珍しくテレビをつけたことくらいで、画面の右上に表示された時刻は七時六分。

 いつもは無音の部屋に流れ出したのは、夏休みに入っても毎日笑顔で『おはようございます』を伝え、八時の間際には『いってらっしゃい』をしてくれる朝の情報番組だ。

「誰か死んだとか見たくないんじゃなかったのか?」

「見たくないよ? でも、この番組のお天気カメラは海岸を映すんだ」

「天気予報はまだ先だろ。そんなに楽しみかよ。どうせ泳がねぇくせに」

「泳がなくたって楽しみさ。水があったら泳ぐものって考えるのは、ただの固定観念だと思うなぁ」

「そういうのを屁理屈って言うんだ」

 番組が終わるまでに何度かあるはずのお天気コーナーが、藤堂も少し楽しみになった。

 しかしそれを悟られまいと、あくまでテーブルの上だけを見る藤堂は、言う言わないでひとつ、そういえばと思い出す。

「そういや、佐和さんには話したのか? 海に行くって」

 有村の返答は「言ってない」と素っ気ない。何日も会ってないし、と続く理由を聞くまでもなく、また多忙期に入った佐和の帰宅が減ったのは藤堂も知っていた。

「でも電話くらいしてるだろ。何で言わない」

 つい責めるような物言いになった藤堂も逐一外出先を言って残す方ではなかったので、どの口でという話だったのだけれど。そうと指摘しない有村は、小さく口を尖らせ「うーん」と唸る。

「電話口でもわかるくらい疲れ切ってるからね。そんな時に変な心配はかけたくない。僕が水嫌いって知ってるのに、海に行くなんて話したら最悪付いて来るって言うよ。寝る時間もないのに」

「まぁ、言いそうではあるな」

「でしょう。だから、言わない」

「なるほどな。 ……ん?」

 新作映画の舞台挨拶で人気の俳優が何を言っただとか、チャートを賑わすアーティストの新曲ミュージッククリップが公開されただとか、延々続く平和の象徴みたいな芸能ニュースを聞き流しながら一応の納得をみて、味噌汁をひと口含んだ藤堂の眉が跳ねた。

 なんと、今朝の意外性はここにあった。こんがり焼けた焼き魚に箸休めの漬物と、藤堂一押しの出汁巻き卵。いつもながらに味も見栄えもいい逸品揃いの朝食御膳の中、豆腐が浮かんだこれだけが驚くべきことに、塩辛い。

「なに?」

「これ、ちょっと濃いな」

「えっ、ごめん。どうしたんだろ……あっつい! 本当だ。うわぁ、料理の失敗なんていつ振りだろ。直すから、ちょっと待ってて」

「いや、いい。飲めないほどじゃないし。けどお前、料理失敗したことあったのか」

「あるよ、そりゃぁ。たくさん失敗して、色々作れるようになったの。当たり前でしょ」

 確かに飲めないほではなかったが、あとで喉が渇きそうなくらいではあって、有村は藤堂から味噌汁の入った椀を取り上げるとキッチンへ戻る。作り慣れているふたり分の食事でしくじるなんて、本当に料理を覚え始めた頃以来ではなかろうか。

 いつも通りに作ったはずなのに。

 料理の失敗は数年ぶりであったが、実のところ最近の有村にはこうした誤作動がたまにある。柔軟剤の詰め替えストックを切らしていたり、冷蔵庫の食材がうっかり消費期限を過ぎてしまっていたり、などなど。

 有村はそれらを、最近ちょっとぼんやりしちゃってるなぁ、で片付けている。

「もう辞めてしまったけど、前にノクターンにいた調理担当の人に一から教えてもらってね。初心者向けの本を読んだり、靖枝さんに習ったみたいに近所の大先輩たちから指導してもらって今があるのさ」

「そうなのか?」

「そうだよ。魚なら魚屋さん、野菜なら八百屋さんって、オススメの食べ方とか下処理とか教えてもらって。え、なんでそんな意外そうな顔するの?」

「いや。なんとなく、お前はある日突然料理に目覚めて、いきなりプロ並みだったのかと」

「あはははっ、そんなわけないでしょ。最初は酷いもんだったよ。生煮えだったり、下拵えが不十分で生臭かったりね。ひと品作るのに一時間くらいかかってたかな。で、不味いっていう」

「信じられん」

「下手でもやってれば上手くなるもんだ」

「きっと誰も信じないと思うぞ」

「誰も?」

「みんな、お前は失敗知らずだと思ってるんじゃないか」

「まさかぁ」

「…………」

「え、嘘でしょ?」

 僕はそんなに器用じゃないよ。そう言って手直しした味噌汁をテーブルへ戻すと、藤堂はまだ疑いの目を向けていた。

 料理だけの話ではない。洗濯だって何度洗濯機を跳ねさせたかわからないし、白いシャツを淡いピンク色にしてしまったこともある。換気を知らなくて浴室の天井にカビを生やしてしまった時は、初めて見たそれに恐怖で震え上がったものだ。

 けれどまあ、どれも藤堂たちと出会う前の話だ。体育の授業の殆どで初めて出会う競技に四苦八苦するのは、藤堂も知っているはずだとは思うけれど。

「僕だって失敗します。だから練習します。たくさん」

「いや。でも見たことねぇし」

「見せないもんでしょ。そういうのって」

 有村が思うに、自分は結構不得意の多い方だ。苦手を感じると克服するか満足がいくまで繰り返す節はあるが、それはやはり器用なのではなく諦めが悪いだけ。

 でも、そうか。努力や試行錯誤はひとりでするものだと思っているけれど、あまりにも見せないでいるとそんなロボットみたいに思われてしまうのか。

 それはそれで、ちょっと嫌だな。そう若干不貞腐れながら、これだって最初は食べる場所がなくなるくらい下手だった魚の身を上手に剥がし口に運んだ有村はふと、唇の上で箸を止めた。

「そういえばさ、草間さんって体温高め?」

 やっぱり鯖はあまり好きじゃないな。鯵とかホッケの方が好きだな。

 そんな事を考えながらの何となくの質問だったのだが、藤堂は暗殺者のような顔で出汁巻き卵をひと切れ頬張る。

「知るか。てか、俺が知ってたら微妙だろうがよ。草間だぞ」

 無駄にスキンシップの多い落合でもあるまいし。言われてみれば確かに、今の質問は少しおかしい。

「なんだ。手汗でも気になるのか」

「ううん。手はね、温かいくらい」

「じゃぁなんだ」

「うーん……」

 鯖の臭いが苦手。食べられないほどではないけれど。

 食べ物に苦手な物が出来ると、有村は少し嬉しい。食事をとれた気分になるから。

 その内、美味しいと感じられる日も来そうな気がして。

「なんか、眠くなるんだよね。僕、体温低いから、温まって眠くなるのかなって」

 寝ちゃいけないタイミングだったり、眠くないのに不思議だよね、と言ってみたら、下ろしていた藤堂の箸が茶碗の縁を叩いた。

「お行儀が悪いよ」

「寝るのか、お前。草間の前で」

「申し訳ないことに二度ほどね。勿論、退屈なんかじゃないんだよ? 楽しいのにさ。なんでかな」

 このくらいの距離でも温かいんだよ、と有村が人差し指を行き来するテーブルの対面。

 本当にその距離で感じるほどの高体温なら、草間は殆どマグマだ。

「あ。天気予報だ」

 お天気カメラに映る海辺には、既に泳いでいる人たちがチラホラ見えた。

 さすがにまだ水は冷たいのではなかろうか。沸いた疑問をぶつけると、「お前みたいに楽しみ過ぎて待ってられないんだろ」と、藤堂の口の中へ漬物がひと切れ消えていく。

「落ち着くんじゃねぇか?」

「漬物が?」

「違う。お前が、草間といて落ち着くんじゃねぇのか、って」

「そうなの?」

「訊くな。お前のことなんだから」

「えー、わからないから訊いてるのに」

 藤堂のケチ。そう言ってテレビ画面に夢中になる横顔を、有村は一度鏡で見たらいいと藤堂は思う。いや、今の顔だけではない。近頃のその楽しくて仕方ないというキラキラした顔を、一度見てみればいいのだ。草間の体温云々とぬかす前に。

「そういや、俺にも草間からメール来てたな」

「どんな?」

 食い気味で返して来る有村の前でメールを開くと、そこには有村限定で草間をマグマにする理由が、乗換案内の形をしてズラリと並んでいた。

「途中で各駅に乗り換えると、窓が開く電車があるみたいだ、だとよ」

「調べてくれたのかな。どうしよう。嬉しい」

「よかったな」

「うん!」

 少し前に打ち明けられた草間絡みの不調は、草間さんといると食欲がなくなる、というもの。今もそれ以上は食べられなくなったようで、残るおかずは全て藤堂が美味しく平らげた。

 教えてやってもいい。だが、胸と腹がどうして繋がるんだと言われたら説明が面倒だったので、藤堂は何も言わないでいる。

「そんなに好きか、草間が」

「うん」

「ふっ」

「なに」

「いいや?」

 困ったものだ。

 草間を真似るわけではないが、ここ最近、藤堂から見ても有村の愛らしさが目に余る。

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