幸せが止まらないよ
「えっ、毎晩? 本当に?」
「……うん」
散々泣いた草間の目許はまだ赤く、駅を越えていつもの帰り道に就き、軽口を言い合うくらいになっても手を繋ぐ有村の力はやや強い。
草間はそれが嬉しくて、ずっと有村を見上げながら歩いた。躓くよ、などとクールな視線を向けられてもへっちゃらだ。繋いだ手をいつもより強く握り返すことだって出来る。
その所為か有村は笑みを湛えているより、そうでない時の方が多かった。ずっと笑っていなくていいと草間から言ったのだ。真顔でいると僕の顔は気味が悪いでしょ、などと呟く有村を笑い飛ばして、美人が暴走するだけだよ、と。本当にそう思っていたから、胸を張って言った。
見ているこちらの心まで溶かしてくれる有村の笑顔は好きだけれど、それは大きく口を開けて笑い声を響かせるあれが別格。微笑みの王子様は学校用の余所行き。そこから少し進んだ、ちょっとだけ気を遣っている有村の、もう少し先。そんな彼と並んで歩けることこそが草間が貰った何よりの特権なのだから、笑顔は本当に楽しい時だけでいい。
「私、電話がちょっと苦手で、上手く話せないんだけど、そろそろかなって、待ってる。携帯充電して、飲み物とか用意しちゃって。十二時になったら有村くんはもうかけて来ないなって、諦めて、寝てる」
「知らなかった」
「恥ずかしくて言えなかった。なんかね、寝る直前に有村くんと話して、おやすみって言うと、色々考えてたのも今日はおしまいって、スッて寝られるの」
「僕の声は睡眠薬?」
「……子守歌かな」
「うん?」
「なんだろう。有村くんの声が気持ち良いのかな。落ち着く感じがして、うん。すごく贅沢な子守歌」
「贅沢は余計だなぁ」
「ふふっ」
表情に気を遣うことも王子様でいることも、両方を必要ないと告げて初めて気付いたのだが、彼は確かに表情が薄く、頬から下はあまり動かない。
代わりに頼りになるのが、やはり目だ。ただでさえ縦にも横にも大きな目だけれど、それが僅かに開いたり、ほんの少し細くなったりする。それと同じように、有村の瞳はキラキラと輝いたり、反対にすっと熱が冷めたような色をした。
今はやや輝きが薄れているだろうか。横顔全体ではなくそこだけを切り取れば、草間の目に彼はいま少々寂しげに見える。理由はわかっている。草間が贅沢だなんて特別扱いした所為だ。
駅を越えて草間の足取りが和らいだ頃、有村は草間の『普通』になりたいと言った。
当たり前に居るものだと思って欲しい、と。それが凄い台詞だとわかっていないような真剣な顔をしていたから、草間はつい笑ってしまった。
「じゃぁ、毎日かけていいの?」
「うん。あっ、でも有村くんも忙しいだろうし、無理には」
「かけなかった日は、我慢した日なんだけど。僕も草間さんの声、好きだし」
「……ヒュッ」
「我慢、しなくていいの?」
この喉には小鳥でも住んでいるのだろうか。有村に照れたり緊張したりすると鳴り易い喉元を擦り、草間はコクリと頷いた。
「あっ、でも」
「勿論、ダメな日はかけないよ。バイトのシフトとか曜日とか、言ってくれれば」
「ううん。ダメな日なんてないけど、曜日、か……」
「うん?」
「曜日……うーん……すいよう……うん。水曜日にする」
「かけない日?」
「水曜日は…………私が……かける、ます」
「噛んだ」
「言わないで」
本当に、と有村が訊いて来る。本当に。そう返して、草間はニッコリ笑う。
「慣れて来たら、他の曜日も。夜はそれしか出来ないけど、その代わりに昼間寝て? 私、そばにいるから」
昼夜逆転の生活は身体に良くないけれど、有村はどうせ何時間も寝ないのだろうし、全く寝ないよりはいい。草間はじっとしているのは得意だ。またアラームをかけて本を読んでいてもいいし、昼寝も嫌いじゃない。多少なりとも有村の足しになるのなら、なんだっていい。
色々と考えてそれしか思いつかなかったから、草間はそうして欲しいと強請った。申し出た瞬間は有村も嬉しそうに微笑んでくれたが、それはすぐに消えて、また瞳の奥が寂しくなる。
「ありがとう。眠くなったらそうさせてもらうけど、でもあまり、草間さんには見せたくないな」
「うなされちゃう時? 大丈夫だよ、ちゃんと起こすよ」
「眠くなってから二時間くらいなら、半分気絶してるみたいで平気なんだけどね。そうじゃない時はすぐだから。戻しちゃったりするからさ。そういうの、好きな子には見られたくないよ」
「背中、擦るよ」
「そうやって、藤堂はつられて自分も吐くよ」
「え?」
「背中擦って、ちょっと退けって自分も吐いて、それで僕がつられて地獄絵図」
「うわぁ……」
「それを草間さんとはしたくないから、眠くなった時だけ、起こす係、頼んで良い?」
「うん! 任せて!」
訊けば藤堂は有村の悪夢の件を知っていて、睡眠不足の限界で倒れたのを介抱して以降、それでよく互いの家に泊っているのだという。有村曰く、藤堂は責任感が強いから。きっと、放っておけなかったのだろう。藤堂は、面倒見のいいお兄ちゃんだから。
因みに特効薬は添い寝だが、人の気配を近くで感じられれば短い睡眠は取れるそうで、有村は藤堂が眠るベッドを背に、見張り役のように床に座って寝るらしい。
ちゃんとした寝床で横にならないと身体は休まらない気がするが、寝ないよりはマシなのだろう。心配がすっかり晴れたわけではなかったけれど、草間は藤堂が知っていて有村のそばにいてくれるのなら安心だと心から思った。
「僕が夜な夜なそうなるのを知ってるのは藤堂だけだけど、のんちゃんも山本くんも不眠症なのは知ってる。薬を飲んでることも、当然貰うのに通院してることも。狭い密室が苦手なのもそうだし、僕は人混みでも人のにおいに酔い易くて、そういうのを全部知ってて、藤堂たちはそばにいて、いつも僕を助けてくれてる」
「そう、なんだ。ただの仲良しじゃないんだね」
「彼らがいなかったから、僕は一ヶ月もしないで学校をやめてたかもしれないな」
「えっ!」
「馴染めなくてさ。興味を持ってもらうのは嬉しいけど、僕は掘り下げてもそんなに面白い人間じゃないからね。正直を言うと、見えて素直に喜べない。僕を持ち上げる意味、とかね」
「有村くんのことが好きだからでしょ?」
「ふふっ、君は良い子だね。救われる。君の、そういうところ」
人気者には、人気者にしかわからない苦労があるのかもしれない。だとすれば草間には想像もつかない範疇のことで、何も言えない代わりにポケットにあった飴を差し出すと、有村はそれを受け取りしな指の背で草間の頬を軽く撫で、かかる髪を横へ流した。
そういえば最近は普通に撫でられることが多くて、頬にかかる髪を耳にかける久々の仕草が草間を「ふふっ」と笑わせる。
「私には、これ、かもしれない」
「これ?」
「有村くんの、手。有村くんの言う通り、私たぶん女の人に触る男の人が、怖いの。でも有村くんの触り方って、なんか、お父さんみたい?」
「今度はお父さん? また微妙に反応しづらいところを」
「ふふっ」
隣の席から盗み見ていた頃の印象は、穏やかでクール。人当たりが良く物静かで、大人びた完璧な人。
そのイメージは間違いではなくて、だから有村といると草間の心は穏やかになるし、頭の中が大混乱していても『はい、深呼吸』と目の前で手を叩かれると呼吸が整う。もし上手く出来なくても一生懸命頑張れば、彼はちゃんとそこを見ていてくれる。試していいんだ。興味を持っていいんだ。大丈夫。そんな自信を持たせてくれる異性は、草間にとって有村と父親のふたりだけ。
同じくらいの安心感があると言いたかったのに、一緒に笑ってくれなかった有村の面持ちは晴れなかった。
「嫌だった?」
「そうとも答えづらいけど、肉親相手じゃドキドキしないじゃない」
あ。そこが気になるんだ。
顔を覗き込もうと草間が身体を傾ければ、それを視界に入れたくないみたいに有村が横を向く。本人は拗ねているつもりなのかもしれないが、眺める限りはただの綺麗なすまし顔。もう少し頬を膨らませれば、そう見えるのに。いつか教えてあげようと思う草間は、そんな有村が可愛くて仕方ない。
「僕、彼氏だもん。お父さんじゃないもん」
「……ふふっ。わかってるよ」
成績優秀。眉目秀麗。全校生徒の王子様。そんな人を可愛いと思う日が来るなんて、夢にも思わなかった。
あの日、勇気を出して声をかけなければ、一生の思い出にしようなんて身投げする想いで映画を観に行かなければ、今ここに自分と丁度良い歩幅で歩いてくれる有村も、彼を見てクスクス笑いが止まらない自分もいなかった。奇跡とは一度きりの偶然ではなくて、そうやって積み重なっていくものなのかもしれない。
飛び込んでみなければ彼が本当はお祭りや遊園地ではしゃぎ回る無邪気な性格で、興味のないことには激しく無頓着なのに急に少しだけ神経質になったりする、存外忙しい人だとわからなかった。いつか鈴木が言っていた。アレは不思議の国の王子様だ、と。気まぐれで、自由な人。本当にそうだなと思う度に、草間は有村を普通に自分と同じただの高校生だと感じて、どんどん好きになっていく。
「有村くんでよかったなって、思ってるんだよ?」
「……それはこっちの台詞だよ」
「またぁ」
「はい。そうだね。君は信じないね。どうせまた思ってるんでしょ、いつもの。有村くんなのに」
「まだ拗ねてるの?」
「拗ねもするよ。誰だい。僕は知らないね。そんな、有村くんなんて人」
「あはははっ!」
あと、ちょっと偏屈。これは藤堂がよく言うやつだ。
腹に据えかねた藤堂が『いい加減にしろ』と拳を振り下ろす気持ちも、今の草間には少し理解出来る気がした。余所行きが剥がれれば剥がれるほど有村は素直になるが、オブラートを忘れた彼の中身はモモも言っていたように若干面倒だ。しかも、案外頑固。
でも草間はそこで藤堂のように『そんなの知るか』とは思わなかった。有村がピンと来ないことを言い出したり、らしくもなくムキになったりと幼い側面を見せるほど、益々好きが積もっていく。
「そうだね。有村くんだって、普通の高校生だもんね! あはははっ!」
人を好きになる量に、限界はあるのだろうか。
堀北は深くなると言っていたけれど、草間にとってはうず高く積み上げられていくよう。でも下から見上げる感覚ではなくて、心の中に降り積もっていくみたいだ。
「もっと知りたいなぁ。本当の、有村くん。ふふっ」
もっと、もっと、増えていけばいい。
たくさん降り積もって、この温かさで胸がいっぱいになればいい。
涙目になるほど笑う幸せなんて、自分にそれが出来るなんて、有村に出会うまで草間は知らなかった。
「……君って子は本当にさぁ……」
小さく呟く声を聞きやっと瞼を持ち上げた草間と目が合うと、有村は向き合う頬にそっと指先を伸ばして来た。その瞬間にどちらからともなく足が止まり、時間さえ止まってしまったみたいな静寂が住宅街の細い路地に満ちていく。
以前なら耐え難かったであろうこの見つめ合う沈黙も、今の草間が持てるあともう少しの勇気で目を逸らさずにいられた。だから見ることが出来たのだ。
もしかすれば有村は以前にも、そういう目を向けていたのかもしれない。
寂しくて仕方がない迷子のような、切ないヘーゼルグリーンの瞳。
「あんまり喜ばせないでよね。慣れてないんだ、本当に」
笑い疲れた頬に触れた有村の指はまた少し震えていて、そこから髪を避けるように耳の近くにまで滑り込んで来る掌は、草間の顔の半分を隠してしまうくらいに大きい。綺麗だけど骨張っていて、男の子らしい手だ。
父親のようだと言ったのは、この手がくれる安心感だけのこと。同じだなんて思っていない。ちゃんと、わかっている。だからこんなに――心臓が煩い。
「嬉しいとね、つい考えてしまう。同じだけのものを返せるのか。出来ない気がしてね、逃げ出したくなる。僕の悪い癖だ。素直に、他人を受け入れられない」
だけどもう、たとえ心臓が壊れても、全部見ていたかった。
真っ直ぐに有村の瞳を見つめて、草間はただ微笑んだ。いつも有村がしてくれるのを真似するように、全部聞くよ、って、伝わりますようにと願いながら。
「なのに、君からは受け取れるんだよなぁ。なんでなんだろう。嬉しくて、嬉しくて仕方なくてさ。きっとこれが幸せって感情なんだろうなって、最近、気が付いたんだ」
いつもの癖で、有村くんなのに、と言いかけてしまうのを、草間は一旦我慢してみる。有村の目は微塵も嘘など吐いていないようで、喜ばせようとして言っているようにも聞こえなかった。
もしかしたら本当に、この人はこんな風貌で、こんなにも素敵な男の子のくせをして、あまり幸せな恋愛をして来なかったのかもしれない。そう考えると、今更子供みたいな恋がしたいなんて言い出したのにも妙に納得がいって、草間はちょっと幸運だなどと綻んでしまう。
今だったから、彼は自分を選んでくれたのかもしれない。草間も、姉の部屋が静かになった今だったから有村を好きになれたのかもしれない。
だとしたら、それを幸運と呼ばないで、なんと言うのだろう。
「私も、幸せだなって思うよ。有村くんといると楽しくて、嬉しくて、嫌なことなんか全部忘れちゃう」
「本当?」
「うん。有村くんといるようになってから、他の人も、他のことも、みんな優しく見える気がしてる。だから下向いてたら勿体ないや、って。もっと頑張ろう、って。全部、有村くんのおかげ。ありがと」
自然に感謝の言葉が零れたのも、ほんの数ミリにも満たない程度、添えられた有村の手に草間の頬が近付いたのも無意識だった。
冷たいはずなのに、温かい。温かくて、気持ち良い――有村くんの、この手が好き。
この心地良さも、少しでも彼に返せたらいいのに。
「きっと、こういうのをもっと言わないとだったんだよね。有村くんならわかってくれるって、甘え過ぎちゃった。だから今はね? 嬉しかったから、有村くんにもお返し出来るように、有村くんに甘えてもらえる女の子になりたいなって、それが目標に……って――あの、有村くん?」
恥ずかしかったけれど今は少しふわふわした気分でもあって、素直に思うままを紡いだ草間はしっかり触れていた有村の手が急に浮いたのを感じ、下げていた視線を上げた。
ふわふわした気分のまま、ふわふわした瞳で。
そこで目の当たりにしたのは、途轍もなく苦い物でも噛んだような苦悶を浮かべる有村の顔。
――そんな顔、するんだ。
「……だから」
「うん?」
「だから、これ以上喜ばせるなって言ったよね!」
「キャァッ!」
苛立っているみたいだったのは最初の声と、表情だけ。有村はすぐにニヤリと口角を上げ、草間の脚を掬い上げた。
「――――ッ!」
所謂、お姫様抱っこというやつだ。瞬く間に軽々と抱き上げられて、草間は当然、声も出ない。
「よし! これでもう君は喋れないな。これでいこう」
「――――!」
「帰るよ、草間さん」
「――――!」
代わりに凄まじい速度で首を横へ何度も振った。視界がぶれて、貧血になるくらい。
なのに降ろしてくれる気配はなくて、少しだけ体勢を低くした有村は「よーい」なんて掛け声と一緒に、片方の足を後ろへ引いたりする。
まさか、走り出したりしないよね。怪訝と懇願の両方みたいに見つめたら、そのどちらも伝わっていない顔で、有村はキレのいいウインクをひとつ。
「目標は二分でゴールだから」
「――――!」
「行って来まーす!」
そこは、行くよ、若しくは、スタートでしょ。などというツッコミも今夜の色々も、抱き上げられたまま猛スピードで風を切り出した草間は自分の上げた悲鳴で全部吹き飛んでしまった。
恥ずかしさも、落ちるかもという不安も何もかも、全部だ。
「速い速い速い速い!」
「もうちょい上げるよー!」
「上げないでいいから降ろして! 有村くんの、ばかぁ!」
叫んだ声に応えるみたいに遠くから犬の鳴き声が聞こえて、今度はそれに応えるよう突然ちょっと良い声で笑い出した有村の肩を、草間は力いっぱいに叩く。
ヤダって言った。やめてって言った。意味がわからないと思ったし、なんてことするんだとも思った。
でもその横顔がとても楽しそうに見えたら、悔しいけれど自分も嫌だと思えなくなってしまって、草間は怖さの所為にして有村の首にギュッとしがみ付いた。火そのものみたいに頬も首も真っ赤にさせて。
こんなの、わかるはずがない。わかるはず、ないのだけれど。
初めて自分から触れた有村は恥ずかしいよりちょっとだけ、好きだ、が勝ってしまうみたいで、だらしなく上がった口の端だけ隠さなきゃと、草間はほんの少し、まだ着かないで、なんて思っていた。




