オーバーヒート
夜ごとステージを彩るショーを目当てに多くの客で賑わうバー『ノクターン』には、満席でも常にリザーブの札が置かれている席が三つある。所謂、VIP席と呼ばれるものだ。
間仕切り程度の壁と、正面には薄いカーテン。簡易的な個室のそこは、三人座るのがやっとの広さ。草間の為にそのひとつを解放してくれた店長は、小さなドルチェと赤い色が鮮やかなベリージュースまでご馳走してくれた。コースターに『ノクターンへようこそ』という手書きのメッセージを添えて。
一瞬で一気に舞い込んだ至れり尽くせりの状況に、草間はまだ挨拶すら出来ていない店長への感謝でいっぱいだった。帰る前にお礼だけは、必ず。そう意気込む草間の視線は既に、ステージの上を右に左にと忙しない。
あれからアンは厨房へ引き返し、有村の説得に成功したらしい。名前を使わせて貰ったと言われたから、もしかすると草間が見たいと言ったなどと伝わっているのかもしれないが、当の本人はまだ有村に会えていなかったので詳細は不明。
でも、今はそんなことなどどうでも良かった。自分の知らない有村に会える、それだけで、草間の胸は期待にはち切れんばかりだ。
「そろそろ時間ね。ステージ、ちゃんと見えてる?」
「はい」
「緊張してるー。ホントかわいー!」
和やかな談笑の声と、時折聞こえる食器とカトラリーの音。
静かに流れるジャズが止み、照明が落ちた店内は今宵もほぼ満席で、スポットライトが照らすステージ脇からアンが姿を現した途端、どこからともなく拍手が上がった。
「アンちゃんは長いし、歌い手としてはここで一番人気よ。実はCDも何枚か出してるの。メジャーレーベルでね」
「……キレー……」
思わず息を飲んだ草間も、出来ることならそのひとりに加わりたい気分だった。
つい先程までのカジュアルな服装に身を包んでいたアンも美人だとは思ったが、胸元が大きく開いたグリーンのドレスに着替えた彼女は見違えるほど美しく、帽子に隠れていた髪はウェーブがかっていて、下ろすと女性らしいカーブを描く腰辺りにも届くほど。
加えてメイクもしっかりと施していたものだから雰囲気も一変し、艶やかな魅力溢れる女性へと変貌を遂げたアンはあまりにもセクシーで、つい瞬きの増えた草間を、モモとレイナは微笑みがてらに見つめた。なにせ彼女がもっと可愛らしく驚くのは、このあとのはずだからだ。
ステージ上ではアンがスタンドマイクに軽く手を添え、柔らかな視線で店内を端から端まで見渡していた。廊下を走るなと窘められるようには到底見えない、上品な女性の顔だ。
「お恥ずかしい話ですが、私、実は少し手を痛めてしまって、今日はピアノを弾くことが出来ないんです。歌声だけを届けさせていただくことを、先にお詫びさせてください。でも、最初の一曲だけ。今日みなさんにどうしても生演奏で聞いて頂きたい新曲だけは、ウチの可愛い末っ子に伴奏をお願いしました。急なことなので、みなさんどうぞ温かく迎えてあげてください」
洸太、とその名を呼ばれてステージに上がる有村を、スポットライトは追わない。
けれど颯爽と現れた有村がステージを横切りピアノの前に腰かける頃には、先程とはまた違う大きな歓声の中に彼の名前がハッキリと聞き取れた。学校で聞き慣れたような、色めき立った女性たちの声だ。
この店に男性スタッフは三名しかおらず、最年少という年齢的にも、最年長で硬派な雰囲気のフロアチーフと、軽口の絶えない軟派なバーテンダーと比べ癒し系の有村にはファンを公言する女性客が多いのだと、モモがそっと教えてくれた。言いやすいのよ、キャラクター的にも。そう付け足されるまでもなく草間は自分でも驚くほどすんなりとその声を受け入れていて、多分気持ちとしてはそれらの客たちと似たようなもの。
丈の長いエプロンを外した全身黒尽くめの有村は軽い会釈で歓声に応え、そんな姿が震えるほど様になる。見惚れるなと言う方が無理だ。ヤキモチを焼いたり、飛び交う声に嫉妬する余裕もなく、草間は口許に両方の指先を添えてただ食い入るようにステージを見つめた。
「ね。あの子はそこにいるだけで、どうしても目を引いてしまうでしょう?」
「……はい。とても」
鍵盤に向かう、凛とした横顔が綺麗だ。若干外れた照明と、黒い服が際立たせる白い肌が綺麗だ。けれどそうした目に見えるものより、有村が席に着いてから胸に込み上げた期待感のようなものが段々と膨らんで行くのが、草間には不思議でならない。
レイナは存在感の質が違うのだと言い、モモはそれを天性のものだと言った。恋人の欲目がどれほどかを草間は測れなかったが、申し訳のないことにひとりでいた時にはあんなにも輝いて見えたアンが不意に霞んでしまうくらいの魅力が、ただ椅子に腰かける有村にはあると思う。
「でも洸太の凄いところは、アレが全然見掛け倒しじゃないトコなんだよねぇ」
「特にピアノは正式なサポートにって何人もが口説いてる真っ最中なの。全然脈はないんだけど」
「そう……なんですか」
それではと背筋を伸ばしたアンと有村が目配せをし、いよいよと曲が始まる。
静まり返ったフロアには優しく掬い上げるようなピアノの音色が響いて、それは徐々に力強く、伸びやかなアンの歌声を押し上げるように、支えるように激しさを増したかと思えば、また繊細な滑らかさで凪ぐ緩急を緩やかに繰り返して音を紡ぎ続けた。
アンの透き通る歌声は勿論素晴らしかったし、単純に流れて来るミディアムテンポの曲が心地良かったのもある。草間は音楽になど明るくないから、彼の腕前がどうのということはわからない。
それでも引き込まれるには充分で、戸惑う草間はレイナを見上げた。
「あの、私、音楽は全然わからなくて、でも……」
「洸太は普通に上手いわよ。あれで少し齧っただけなんて嘘みたい。呼吸を合わせてくれるから、歌う方も声を乗せやすいらしいわ」
「やっぱり、そうなんだ……」
上手なんだ、やっぱり。
詳しくなくてもそうだと思った。前に置いた楽譜はたまにチラリと見るだけ。ついさっき知ったばかりの曲を弾いているとは到底思えないほど、有村が紡ぐ音色はアンの歌声と見事に調和している、と思う。
ハニカミを超えて泣きそうになっていた草間を見遣り、レイナは少し物憂げな笑みを湛えた。
「でも、あの子の演奏は好みが分かれるでしょうね。上手いけど、どこか味気ない。洸太は器用に楽器を扱うだけで、身体に音楽が流れてる感じがしないのよね。わかる?」
「えっと……すみません」
ペコリと下げた頭へ向けて、レイナが爪の長い指先を揺らす。音楽が流れているとは、どういうことだろう。草間の目に、音が力強さを増すほど髪を弾ませる有村は、テレビで見るピアニストとそう変わらないように見える。
「いいのよ。今のはちょっと意地悪ね。私は、洸太は生まれて持っての表現者だと思う。普段はそれほど感情に起伏がないけど、こうして聞く音色だけでも本当は存外情熱的な子なんじゃないかって思えるの。でもまだセーブ出来ちゃってる感じで、それが思い切り出せるのは音楽じゃない気がするってこと、なんだけどね」
あの子は、あんなものじゃない。そう言って、レイナは自信ありげに微笑む。
「他って、いうと……?」
「それはわからない。洸太はなにも言わないし。いつか仁恵ちゃんが気付いたら、こっそり教えてね」
演奏が終わると、フロアには盛大な拍手が響き渡った。自らも軽く掌を打ち鳴らしながら横を向いたアンが礼を告げると、有村は立ち上がりフロアへ一礼。そのまま来た時と同じ速度でステージを降りる。
そこまでで大凡五分ほどだっただろうか。行こうか、と促された草間は薄明りでもわかるほどに頬を紅潮させ、その目は恋する女の子そのものだとモモが笑った。
背を向けたステージではアンが二曲目の中盤に差し掛かろうとしていて、それは事務所へ続く狭い廊下にまた違う響きをもたらしていた。音が反響し、きっと少し籠るのだ。広い場所にいた時よりも身体に強く当たるようで、草間は急ぐ心をその所為にした。
「こーたぁ! 今日の演奏も最高だったよー! 久々に洸太のピアノ聴いたけど、ホント、もっと弾いてくれればいいのに!」
蝶々柄のドアを開いて中を覗くなり駆け出したモモは興奮しきりに、ロッカーの前で帰り支度を始めていた有村に抱き着く。出会い頭に草間が受けた抱擁と似た、熱烈な頬擦り付きだ。
「俺はあくまでスタッフですから、出る幕はないに越したことは有りませんよ」
「もー! そんなこと言ってー!」
その熱気とは裏腹に冷めた物言いをする有村に歩み寄る二番手はレイナ。彼女も言葉少なに彼の演奏を褒め、そしてまだ机を挟んだ向こう側にいる草間を振り返りつつ、ひとつ、ふたつと耳打ちをする。
仕上げとばかりに肩を叩かれた有村は表情を変えず、ただ視線だけを草間に寄越した。置いて行かれた時と同じ仕草ではあったが、その目が然程冷ややかに見えなかったのは草間もまた興奮を隠しきれずにいたからかもしれない。
「遅くなってごめんね。帰ろうか」
「うん! あ、あの、有村くん。ピアノ、すごくカッコよかった……です」
「ありがとう。お母さんには連絡した?」
「あっ、う、うん。有村くんが送ってくれるって言ったら、安心だ、って」
「そう。なら、早く帰ろう」
少なくとも舞い上がっていたのは間違いなくて、自らの声と有村の声の熱量の差に草間は小さく唇を噛み、もう一度、今度はレイナとモモのふたりから肩や背中を叩かれる有村から目線を外した。
早く、ちゃんと謝り直さないと。何も言わず傍らを通り過ぎる有村を目で追いながら、草間はただ、それだけを思う。
有村が怒っているのか、モモたちの言う通り困惑しているだけなのかは関係ない。言うべきことは、ちゃんと言わないと。話さないと。そう思えたのはモモとレイナのおかげで、ドアノブに手を伸ばす有村からふたりの方へと顔を向けた草間はお辞儀をし、礼を言った。
「色々と、ありがとうございました。あの、すごく楽しかったです」
至極自然に、草間はニッコリと笑っていた。
そうしてふたりと交わした、一言、二言。一足先に廊下へ出た有村の声が「キャリー」と呼んだのは、また来てねと言ってくれるふたりとの別れを惜しんでいた最中。
「カケルと連絡がついたから、明日からまたしばらく来なくていいわよ。来て欲しい日はあとでメールする。休んでって言ったばかりなのに、この三日間急に入ってもらって悪かったわね。おつかれさま」
アンの歌声に紛れて、近付いて来るヒールの音。そのあとに聞こえたのは店に入ってすぐに聞いた、あの掠れ声だ。
まだ中にいるんでしょうと指されているのは間違いなく草間自身で、その人こそが店長だと背筋を伸ばした草間はそそくさと挨拶と礼を言う心の準備をした。
まずは、ここからだ。ちゃんと言わなくちゃと思ったから、それはもう気合たっぷりに正面を向き、草間は閉まりかけたドアが再び開くのを待っていた。人見知りだなんて言っていられないとも思って。
けれど。
「ハァイ、キャリーよぉ。あらぁ! 小柄で可愛らしい子じゃない。短い時間だったけど、ウチのショーは楽しんでもらえたかしらぁ」
カツンと床を鳴らして入って来た爪先から、真っ赤なタイトドレスがしばらく続いて、その顔を草間の視界が捉えるまでに予想より遥かに時間がかかった。
「――――ッ!」
なにも草間がゆっくり見上げたからではない。ヒールの高さがざっと二十センチはあるとして、髪もトップにボリュームを持たせた『盛り髪』であるのを考えると、その人の全長は大袈裟ではなく余裕で二メートル以上。
百五十センチを僅かに超える草間が仰ぐならもう天井を眺めているようなもので、それに加え呆けた口をポカンと開かせたのは何を隠そうその風貌だ。
「は、はじめ……まし、て……」
一体何枚重ねているんだというような瞬きひとつで風も起こす勢いの付け睫毛と、それを取り囲む濃い色のメイクはもはや草間の目に特殊メイクの領域で、ぽってりと厚く塗られた赤い唇の大きさはイメージとして頭から丸飲みにされてしまいそう。
そんな衝撃を前にやっとのことで一言吐き出した草間は、寧ろ勇敢だったのではないだろうか。
「……わっ、私、く、草間仁恵と、いいます。さっきは、あの、アイスとか、ジュース、とか……その、あ、ありがとう、ござ、いました……」
そして、なんとか目的を遂げた草間は、たぶん勇者だ。
堪えても抑えきれない震えで全身が『震度三』くらいに上下する草間の怯えは露骨で、その様子を素直な反応と笑ったキャリーがまた、底抜けの大迫力。
もう少し頑張って大きく開けたら、この人はリンゴも丸飲み出来てしまうのではないだろうか。少なくとも草間の拳くらいは軽々入る大きな口から目が離せない。
「ごめんなさい、キャリー。彼女はキャリーじゃなくても人見知りをするから」
「いいのよー。この格好のアタシを見て全く動じなかったのは、あなたぐらいなものだもの」
豪快に笑い続けるキャリーと並んだら、きっと藤堂でも小柄に見える。少なくとも、隣りに立ちキャリーを見上げる有村は随分と華奢に見えた。つまるところ、その人は体格も大柄なのだ。
困惑する草間の脳はまだ認め切れていなかったが、キャリーと名乗るその人は『彼女』ではなく、明らかにドレスを着た『彼』。ドラァグクイーンと称される出で立ちだ。まるで存在自体がアート作品のよう、顔の原型など全くわからない。
そういう人もいるのだろうとも思うが、なにせ初めて出会うものだから、ただでさえ容量の小さい草間の思考回路はオーバーヒート寸前。瞬きなどとうに忘れた驚愕を捉まえて、背後ではモモとレイナがクスクスと笑っていた。何回見てもこの瞬間は堪らないだとか、予想以上のリアクションと楽し気に。
「もー! やっぱり仁恵ちゃんサイコー!」
そう言ってまた抱き着こうとしたモモの手が、草間に触れる直前でふと有村に遮られる。
「すみません、モモさん。抱き着くのはちょっと。彼女、男性は少し苦手で」
「……え?」
「ひどーい! いつもは私のことちゃんと女の子扱いしてくれるのに、彼女の前では男扱いするのー?」
「え?」
「だってモモさんはレイナさんと違って、身体はまだ男性じゃないですか」
「え!」
どういうこと、と、草間は無意識に有村の腕を掴んでいた。
聞き間違いでなければ、彼は今ふたりを『男性』だと言っていたような。
勢い任せに腕を引かれて身体を揺らした有村は草間を見遣ると、ぱちりと落とした瞬きのひとつあとで微かな表情を浮かべ、心底言い難そうに言葉を選ぶ。
「今この部屋にいる五人の中で、全てが女性なのは君だけだよ」
多分、有村は一番簡潔に説明した。確かに、そこまで言われれば草間でも理解は出来た。
しかし、全くの真顔で告げられるには、それはあまりに衝撃の事実で。
「え……えーっ!」
「あっ」
見開いた眼は真ん丸。開けた口は限界の大口。
草間が張り上げた声は絶叫とも呼べそうな音量で、間違いなくこれまでの人生で一番だった大声に有村の大きな瞳がパチパチと瞬く。
「……く、ないよ」
「…………?」
店に入る前にした約束を破ったのは、悪かったかもしれない。
でも、これだけは。
「今のは、私、悪くないよ!」
驚愕と、何故か込み上げる恥ずかしさで、肌という肌が真っ赤。
そんな草間が両方の手で小さな握り拳を作り、三度ぱちぱちと瞬きをする有村に勢い余った爪先立ちで迫ると、一拍置いたバックヤードに三人分の笑い声がぶわっと湧いた。




