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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
はじまり
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プロローグ

 見た瞬間に、『彼だ』と思った。


『透ける肌と絹の髪を持ち、その瞳は虹色に輝く宝石のよう』

 それは彼女がもう何度読んだかわからない古い恋愛小説に登場する、ヒロインがひと目で恋に落ちる紳士の姿。

 清潔で、艶やかで、溜め息が出るほどに美しい。

 それがいま、目の前にいる。

 ついさっき捲ったページで熱くヒロインを抱き締めた彼が本の中から飛び出して来たような、そのくらいの精度で頭の中で作り上げた『理想の男性』の姿形をした少年を前に、彼女の心は生まれて初めてのときめきを覚えた。


 麗らかな春と一緒にやって来た転校生。

 よくある少女漫画の登場シーンのように「よろしく」と頭を下げたのは、栗色の髪から覗く不思議色の瞳がとても綺麗な、まさに王子様みたいな男の子だった。




【彼と彼女のソロプレイ】




 遅生まれの十六歳、高校二年生の草間仁恵はこれまで、ただの一度も恋をしたことがない。

 趣味は恋愛小説を読み耽ることなので憧れだけは人一倍あるのだが、小学生の頃は乱暴な物言いをする男子が怖く、そのまま色々と拗らせた結果、今となっては男性恐怖症の一歩手前。

 アルバイト先で店員と客としてならなんとかという具合の草間は、それでも度々クレームを受ける対人恐怖症の一歩手前でもあって、恋心を抱けるほど深く異性と接したこともなければ、ひと目で恋に落ちるほどしっかり顔を見られた例もあまりない。

 そんな草間があの日、追っていた活字から思わず視線を上げてしまったのは、一瞬にして教室に広がったざわめきと、ゆったりとした彼の足音、その中で担任に紹介をされ「有村洸太です」と名乗った声があまりにも穏やかだったからだ。

 然程大きくもないのに、クラスメイトたちひとりひとりの耳にしっかりと届くような深みのある声、とでもいうのだろうか。それが草間に顔を上げさせた。

 そして草間は、生まれて初めての恋に落ちた。身の程を知れという話だ。彼は転校初日から校内の話題を根こそぎ掻っ攫い、瞬く間に全校生徒の王子様になった。

 手の届かないとこへ行ってしまった。伸ばす勇気もなかったのだけど。

 けれど実際の距離の話をすると、草間は教室で三番目に彼に近い席にいた。その距離ざっと一メートル。彼は草間の在籍する二年C組の中で最も背の高い藤堂圭一郎というこれまた格別に人目を引く精悍系美男子の前に座っており、そこは窓際の後ろからふたつ目の席。狭い通路を挟んだ、草間の左隣りだ。

 その降って湧いた幸運をものに出来ないまま、草間はもう二ヶ月もの間、彼の美しい横顔をこっそりと盗み見ては憧ればかり募らせている。

「はぁ……」

 窓から差し込む光と風を浴びながら小粒のチョコレートを頬張る王子様は、今日も抜かりなく見目麗しい。美しいとは多分、彼の為にある言葉だ。

 女子も羨む大きな瞳と、長い睫毛。スッと通った鼻筋と高い鼻、そして三日月が横たわったような形の良い唇と備えるパーツ全てが美の見本市とも評される彼はまさに絶世の美人。

 しかもそれらが他の男子たちより一回り以上小さい顔の中に神懸かり的なバランスで左右対称に配置されているわけで、神様はきっと渾身の力作で最高級のヴィーナスを作ろうとして最後にうっかり男の子にしてしまったんじゃないかと草間は思う。

 だから彼にはどこか儚げな繊細さを醸し出す線の細さがあって尚のこと草間はときめくのだけれど、そのくせ一番の仲良しで百八十を超える大柄な藤堂と並んでもさして見劣りしない男子らしい風貌も兼ね揃えていたものだから、まあ当たり前に彼へ向かう恋心はそこら中を飛び交っていた。

 そして今日も、またひとり。

「有村ぁ、またお客さーん」

 廊下側の最前列から首を捻って声をかける町田は、この二ヶ月ですっかり我らが王子様の呼び出し係が板について来た結構目立つタイプの男子生徒で、モテたい、が口癖。

 多い日には休み時間の度に三回も四回も同じようなコールをするのだが、一々ヘソを曲げるのは早々にやめてしまったらしい。

「はーい。すぐ行くー」

 後ろの席の藤堂と、去年からの彼の連れ、鈴木と山本という男子たちに囲まれた真ん中から、有村はそれがその日十数回目の呼び出しでも毎回笑顔で返事をし、本当にすぐ席を立つ。最後にひとつ、チョコレートを頬張ってから。

 彼は気が付くといつもお菓子を食べていた。多いのはチョコレートと飴。それでも八頭身を優に超える抜群のスタイルは細身のまま維持されていて、そんな太らない体質を羨む女子が彼にお菓子をあげたり、逆に彼からお菓子を貰ったりする。

 草間はその両方を羨むだけで、ドアの前で近付いて来る有村を待ちながら今にも泣き出しそうな顔を真っ赤にする女の子がこれから振り絞る勇気も羨ましいと思った。

 自分には、そんなものはない。本を読みながらこっそり見るだけ、それが草間の初恋。

「今の一年だよね。勇気あるわぁ」

「あいりん、ゆっこ、まゆたん、てウチの三強が早々にバッサリいかれたからねぇ。我こそはってのはもう粗方藻屑だし、あとは数撃ちゃって感じでわんさか出て来てんのよ」

「まぐれがあるかも、って?」

「そうそう」

「はじめましてじゃ付き合えないって言ってんのに?」

「のに、だよ。律儀だよねぇ、ホント。毎日毎日何人も来るのにさ。全員しっかり最後まで話聞いて、傷付けないように丁寧に断ってるっていうんだからすごいよ」

 無視を決め込む草間の後方で、有村もひと粒食べたチョコレート菓子を口に運ぶ女子たちが、良い人過ぎるんだよ、と話している。

 そうなのだ。彼はあの素晴らしい外見の上、先日の中間考査でいきなり学年首位を獲得した逸材でもありながら、実に気さくで誰に対しても親切な性格まで完璧な王子様だったので、今や学年を問わず男子たちや教員たちからも絶大な人気を博していた。

 しかもそれを全く鼻にかけたりしないのだ。何を言われても、何をされても、いつもニコニコ笑っていて、誰かと衝突したのだって見たことがない。

 声と同様に穏やかで、広い海のような人。完璧だ、本当に。住む世界が違う。だから草間はずっと変わらず、ひとりで黙々と本を読んでいる。

 でも、その胸には密かな野望があった。こっそり見ているだけで満足なのは本当だけれど、出来るなら人並みに、他のクラスメイトたちと同じように彼と話したり、お菓子のやり取りとか、してみたい。

 心優しい彼は毎日、朝と帰りの二回、他の子たちにするように必ず声をかけてくれるのだが、草間はまだ一回もおはようもまた明日も返せていなかった。会釈出来るようになったのすら三週間前のことで、その時チラリと顔を見られるようになったのは十日ほど前。

 最初はもっと純粋に、このままではいけないと思った。人として失礼だし、挨拶くらいは返さないと、と。なのに精一杯が会釈ひとつという体たらく。それでも最初の日に有村が微笑みかけてくれたのは、視界の隅で見ていた。足りてるよ、と、言ってくれるみたいな笑顔だった。

 その笑顔が多分、次の欲を続々と生んでしまったのだ。もう一回見たくて顔が段々と有村の方へ向いてゆき、ちゃんと見てしまったら話してみたくなった。

 なんでもいい。ひと言でもいい。自分に向けられる、挨拶以外を聞いてみたい。それは草間にとって過ぎる欲だった。だって彼は男の子で、自分は男の子が怖い。話しかけてもすぐにまた失礼な態度をとってしまうかもしれない。そうしたら、次こそ嫌われてしまうかもしれない。そうしたら、挨拶だってなくなってしまうかもしれない。それは嫌だ。

 怖くて、でも、話してみたくて。

 そう悩む内に後者が前者を追い抜いたのが一週間前のこと。それからずっと、朝の挨拶の度に、休み時間になる度に、帰りのさようならのあとに勇んでは、何も言えずにいる。

 その意気地なしを今日こそやめるのだ。今日の私はひと味違う、と意気込み続けて三日目。家で何度もシミュレーションして、通学の電車の中でもイメージトレーニングを積み、気合だけは充分で、朝と一回目から三回目までの休み時間の終わりには有村を見てあと一歩のところまではいった。

 よし、今度こそ。有村が教室へ戻って来たタイミングで昼休みが終わるチャイムが鳴り、クラスメイトたちが銘々自分の席へと帰っていく。鈴木と山本も離れ、迎えた藤堂と有村がひと言ふた言のやり取りをする間に深呼吸で息を整えた草間は、一向に進まない趣味に合わないホラー小説をパタリと閉じる。

 頑張れ。頑張れ。そう何度も唱えていないと、心臓が爆発してしまいそうだ。

 頑張れ。頑張れ――!

「…………あ、あの、有村くん……甘い物、す、好きなの?」

 違う。なんだこの唐突な切り出し。なんだこの息みたいな声。

 何度も繰り返したシミュレーションの甲斐もなく口から零れた突然の問い掛けに、草間へ向いた有村の目が大きく見開く。

「――好きだよ。甘い物なら、全部好き。草間さんは? あんまり食べてるとことか、見ないけど」

 草間さんと呼びかけられただけで、息が止まるかと思った。実際少し止まってしまい、喉の奥で空気が詰まる。拳サイズの玉を飲んだようだ。試したことはないから、多分だけれど。

 変だって思ったろうに、なんだ急に、とか思ったろうに。優しい王子様は草間を見つめたまま、そっと微笑んでいる。念願叶ったのに、もう一回なんて出来そうもないのに、詰まった喉が中々通らなくて草間は焦った。

 早くしないと次の授業が始まってしまう。訊いてくれてるんだから、返事をしなくちゃいけないのに。

 頑張れ頑張れと再び必死に鼓舞して、草間はやっと「わたしも、すき」と答えた。

「そっかー。じゃぁ、はいっ。今のお気に入り。よかったら」

 絞り出すように呟いた草間の机の端に有村が乗せた、小さな包み。大体三センチ角ほどの小さな四角に、戸惑う視線が吸い寄せられる。

 これはまさか、もうひとつの願いも叶ってしまったのでは。

 草間はそれを手に取り、白地に朝食の一幕のようなスプーンが描かれているのを見てふっと小さく口元を緩めた。緊張が高まり過ぎて呆然としていたのかとても素直に、高校生の男の子がお気に入りだと言うには可愛いなと思ったのだ。

「グラノーラ……の、チョコ?」

「うん、そう。ザクザクしてて美味いんだぁ。甘くて、ついあるだけ食べちゃうんだけど。こういうの、嫌い?」

「え? ううん。多分、好き。あ、ありがとう」

「どういたしまして。でもさぁ、あげといてなんなんだけど。正直グラノーラってよくわかってなくて。知ってる?」

「えっと……あの、確か、シリアルの一種、で。ドライフルーツとか、一緒に入ってて。穀物に蜂蜜とかを混ぜて焼いたの……じゃ、なかったかな……」

「そうなんだぁ。へー、蜂蜜かぁ。だからなんか甘いのか。うん、うん。なるほど。ちょっとスッキリした」

 教室のドアを開けて教員が入って来る。

 それを見た日直が号令をかけるのに紛れて、有村は「ありがとね」とまるで草間に頭を下げるように礼をした。

「じゃ、これは教えてくれたお礼ってことで」

 さっきチョコを置いたのと同じ位置に、今度は『きな粉もち』と書かれた四角を置くと、有村は何事もなかったかのように教科書を開いて正面へと向き直る。

「……あり、がとう……」

 同じく開いた教科書を見つめ、自分にすら聞こえないほど小さな声で呟いたのを、視界の隅の栗色はコクリと頷いて汲み取ってくれた。

 顔が熱い。チョコの粒を摘まんだ指先が熱い。

 窓は開いているのに、頬を風が撫でるのに、草間は首まで真っ赤にして授業が始まってもまだ適当に開いた教科書のページを睨み続けていた。

 ついに話しかけちゃった。お菓子、もらっちゃった!

「…………ッ!」

 ありったけの勇気を振り絞ったこの瞬間を、草間は生涯忘れない。

 だって、このふたつの四角のチョコレートは、ふたりのはじまり。

 これから先、何十年と続いていく彼女らの物語が、動き出した瞬間でもあったのだから。

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