フィアと薬草採取
建物の外見は一見地味であるが、一歩足を踏み入れれば――やはり地味な内装が待ち受ける。その中身はキッチンと部屋が五つ。広いようであっても二階建てと考えれば、それ程豪華でもない。
魔導士は大抵効率を重視するため、寝食する空間にはそれ程気を払わない。世間から大魔導士と称される男の自宅も、その例に漏れることはなかった。
「……ふむ、こんなところでしょうか」
石造りの地下室に、声が響く。インクの蓋は締められ、羽ペンは分厚い本の隣にゆっくりと置かれた。
見た目、中年に差し掛かった男――アーヴァインは眼鏡の下から指を差し入れて瞳周辺をほぐす。手を組んで腕全体を伸ばせば、凝り固まった筋肉や関節が音を立てていた。
「いやぁ、ついつい没頭を……新しい理論を見るといけない。時間を忘れてしまう」
稀代の天才魔導士は辺りを見回すが、石に囲まれたここには日の光は届かない。ランプが常に一定の灯りを届けるため、どうしても時間間隔は薄くなってしまう。加えて言うならば、この地下室は快適過ぎた。
座り心地の良いソファー、書類や本を積み上げてもスペースの余る机、文句も言わずに一日中火を灯すランプ。机からは左程離れずとも、手を伸ばせば大きな本棚が二つあり、自身の専門と最新の魔導書がズラリと並ぶ。果てはコーヒーがいつでも飲める環境とあれば、全く以って文句の付け所がない。
「ようやく執筆が終わりました……が、我ながら素晴らしいものが出来てしまった!」
ふふふ、と大魔導士は笑った。迫る締め切りを前に缶詰をしていたが、息抜きに新書を手に取ったことがいけなかった。ざっと読んで、思いつくままにペンを走らせればご覧の通り。
普段はそれ程独り言を溢すタイプでもないが、彼は徹夜明けでナチュラルにハイテンションであった。屋敷そのものは平凡であれど、研究室や工房にはとことん手も財もかける――魔導士とは大抵こういうものだ。
ただ一つ、この空間には意図的に排除したものがある。
「しまった、今は何時ですかっ」
コーヒーカップに手を伸ばしたところ、魔導研究家としての顔が崩れた――この部屋には時計がない。時間に追われると執筆に差し支える、かといって時間を無視する訳にもいかない。せめても、一段落してカップに手を伸ばせば時間を気にするような、そんな習慣やら暗示が身につけられている。
「ああ、しまった、しまった」
コーヒーを注ぐこともなく、空のカップを手にしたアーヴァインはバタバタと階段を駆け上がる。急いだものだから、首元で括られた髪は乱れるし、永らく愛用している眼鏡も擦り落ちる。
そこには天才魔導士の姿はなく、ただただ弟子を心配する師の顔があった。
(今日は出掛けると言っていました)
お弁当は研究室に篭る前、テーブルのいつもの位置に置いている。ただ、弟子がアレなので、心配症の師匠はお見送りはしたいと思っていたところでこれである。
凡そ何でも出来る彼であるが、思い通りにならないものが二つある。一つは自身の時間管理であり、もう一つは――――
「お、御師様ーーっ!!」
地上へと続く扉を開けるなり、女の子が飛び込んで来た。両手を突き出してダイブする様は、年齢よりも幼さを抱かせる。
「おっ、と……まだ出かけてなかったのですか?」
階段を一つ下がりながら、師は弟子であるフィアをキャッチした。リビングに掛けられた時計を見ると、もうとっくに出かけている時間である――やはり愛弟子の行動は思い通りになってくれない。
「雨が、雨がーーっ!」
えぐえぐと泣きながら、フィアは師のローブに顔を埋めていた。単語のみで会話が出されるので、研究屋の彼としては掴み兼ねてしまう。だが、師匠の方の彼は何となく察しをつけていた。
「ああ、これでは薬草採取に出る訳には行きませんか」
よいしょ、と掛け声と共に地上へと足を伸ばす。窓の外は暗く、しとしとと雨が降っているのが見受けられた。
魔導学院の学友と出かける約束をしていたが、キャンセルになった。そんなとこだろうと師は当たりをつけた。
「お、御師様ー」
「はいはい、わかっていますよ」
弟子を床に降ろすと、ローブから鼻水が伸びる。情けない声を上げるフィアを泣き止ませるために、師は朗らかに微笑んだ――先程の「よいしょ」もそうであるが、ローブを汚されても笑っていられる辺り、自分は変わったと天才魔導士は思う。
さてどうしたものかと、考えながら自然と足はキッチンへ。いつもの通り、まずは彼女に何か温かいものをとコンロに火をかけ始める。自分がコーヒーを飲もうとしていたこともすっかり忘れていた。
「リィーンだ、リィーンのやつが雨を降らせたんだ」
「何ですって?」
ローブの裾を握ってフィアは恨めしく言葉を紡いだ。聴けば、前日にリィーンは師である西の魔女から天候を操る魔法を習ったと自慢していたらしい。その特訓の間に、リィーンを抜きにして薬草採取の約束をしたから腹いせに……幼い少女が考えるには理が伴っているが、アーヴァインは表情を少しばかり曇らせる。
「お、おのれぇ、リィーン」
悔しさ全開、肩を震わせるのはそれ程楽しみにしていた証であり、師としても嬉しいものだ。だが、泣きべそはともかく、恨み節はいただけなかった。
「これ、フィア。いつも言っているでしょう?」
眼鏡の位置を直しながら、アーヴァインは眉間に皺を寄せる。叱責とまではいかないが、お説教の時にする顔だ。
「だって、師匠ー」
「だってじゃありません。忘れましたか?」
泣くことは別に構わない。
「覚えてる。他人の所為にしてはいけません、です」
「はい、その通り。さぁ、ミルクでも飲んで、まずは気を落ち着けなさい」
素直に教えを反復する少女。口はへの字に曲げられていたが、温かい砂糖入りのミルクが出されれば、その硬さもみるみる内に溶けていった。
へへへ、と笑みを浮かべる彼女を見ていると、安心と共に少々の苛立ちがアーヴァインの中に渦巻いていた。リィーンはよく出来た魔導士見習いで、本来はフィアのライバルになるようなレベルではない。それが何かと突っかかってくるのは、これは師匠同士の問題であった。
「いいですか、フィア。天候魔法というのは、相当に大規模です。残念ながら、リィーンにはまだまだ扱いきれないでしょう」
「そうなの?」
「そうですとも。大方、性悪魔女が私への当てつけで弟子に吹き込んでるんですよ。全く、弟子は道具じゃないと言うのに……」
因縁のある女が悪い表情をしている様が浮かぶ。対人関係もそつなくこなしてきたアーヴァインも、彼女とだけは相性が悪かったのか、丁度今のフィアとリィーンのように日頃から衝突が繰り返されていた。
「すみません。これはもう、私たち師匠の業を弟子に背負わせているようで――」
「御師様! 他人の所為にしない!」
め、とフィアは吠える。言わんとせんことはよくわかるが、鼻の下には白い髭が出来ており、何とも格好がつかない。思わず、アーヴァインは笑い声を上げてしまった。
「御師様、酷い、御師様が教えてくれたことなのに!」
「ああ、すみません。笑っちゃいけないのですが、何か、嬉しくてですね」
「嬉しい?」
目元に指をやる師の姿に、少女は首を傾げた。
「弟子の成長は、師の喜びですよ。さて――」
ちょっとこっちにおいでなさい、とアーヴァインは手招きをする。
「御師様、外は雨だぞ」
訝しがりながらも、弟子は開けられた扉へと足を運ぶ。
「ええ、折角の雨ですから、散歩をしましょう」
同時、短く紡がれた呪文により、二人は透明な膜のようなものに包まれる。
「おおっ! 雨が、避けていく!」
凄い、と弟子は驚きを露わにした。雨を弾くではなく、纏われたものを避けるようにして雨露は流れていった。
「魔導を研究すれば、こういうことも出来るのです。少し、歩きますよ」
少し気分を良くした大魔導士は、自慢になり過ぎないようにして語る。彼にとっては簡単な魔法であるが、こうも驚かれれば披露した甲斐があるというものだ。
屋敷の外は草原が広がっており、すぐ傍には森もある。この森を抜けるとフィアの学友たちが住まう町へと繋がっている。
雨は左程強くもなく、濡れた森はいつもと景色が変わって見えた。このような自然の顔を弟子にはよく見せておきたいものであった。
「御師様、折角の雨って、こういうこと?」
葉っぱの下で雨宿りをする虫を眺め、フィアは笑う。友達と過ごす時とはまた違った視点で物が見えたようで、何やら嬉しい気持ちが湧いてくる。
「そうでもあるし、そうでないとも言えますね。雨が嫌だと思えば、嫌になる。でも雨がないと自然は育ちません。人間も、きっとそうですよ。私は、そう思いますね」
衝突の多いリィーンとも、仲良くやれるに越したことはない。師は直接には口にせず、弟子の反応を待った。
「わからん! 御師様、小難しいぞ!」
「……そうですか」
ガクっと膝が折れる思いがするが、そこは大魔導士の面子で踏み止まった。大人相手ならば、今の説明で十分だったのにな、と師は己の不出来を省みる。本当に、弟子というものは思い通りにならない。
「ただ、最初っから嫌うなってことはわかった! 食わず嫌いはするなって、御師様はいつも言ってるもん」
「……そうですね」
噛み締めるように、アーヴァインは答えた。表面の小難しいことはわからずとも、弟子は伝えたいことを何とか理解しているようであった。思い通りに全くならないが、それこそが弟子を育てる醍醐味とも思う。
「そうだ御師様、この魔法どうやってるの?」
「そうですねー、魔力を身体の表面に放出しながら押し留めているのです。イメージはヴェールを纏うってところですが」
魔導研究家としては理論で語りたいところを、ぐっと堪えて説明する。初歩のような魔法だが、理論を理解出来ていない駆け出し魔導士ではとても再現出来ない神秘だ。
「よし、やってみる!」
「あ、ちょっと待ちなさ――」
ふん、と弟子が力を入れれば、身体からは御し切れない分量の魔力が溢れ出した。ヴェールどころか毛布を二重三重に巻いて踏ん縛る程のものになっている。
当然、師の掛けた繊細な魔法とは反発を起こして、即座に弾けた。
雨粒を弾くどころか、爆散させたそれは、木の葉に溜められた雨水を一気に少女へと流し込む結果となった。
「師匠ー、食べてみたけどダメだ。これは私にはまだ美味しくいただけない」
ぶっすー、と不機嫌さを露わにしながら、少女は呻く。失敗して悔しい想いもあるが、師の教えに忠実であろうとする姿がそこにはあった。
「だから待てと言ったのですが……まぁ、何事も挑戦ですよ。では、帰りましょうか」
広げた外套の下に少女を匿い、師は踵を返す。明日以降、フィアが薬草採取に行く際に、ヒントとなるようなものを今日は教えようと思っていた。
だが、今の彼女を見て師は余計なことを教えることは取り止める。それこそ、何でも挑戦なのだ。ゆっくりと、自分の足で知ってくれればいい。
「御師様、帰ったらお弁当だ!」
「……家に居るんですから、温かいものを召し上がったらどうです?」
濡れネズミになりながらも、嬉しそうな顔をする少女へ、師は思わず問うていた。
「やだ。折角作ってくれたんだもん。食べる! 食わず嫌いは――」
「してはなりませんね」
拳を振って熱弁する弟子に、思わず笑いが漏れる。
(本当に、思い通りにはいきませんね)
むしろ、この予想外が良い。小さな少女だからこそ、魔導ばかりに凝り固まった大人の詰まらぬ考えを打ち壊してくれる。
夕ご飯は何にするか、明日のお弁当はどうするか――そんな所帯じみたことを考えながら大魔導士は弟子とともに帰路についた。