フィアと御師様
冬にしては暖かい陽気の中、空っ風を身に纏って少女は駆けていた。
鼻の頭が赤いのは、寒さの所為ではない。彼女に近寄れば、目尻に光るものが見られたであろうし、鼻を啜る音も聞こえたであろう。
ザクリと草を踏みしめる音がしていたが、少女――フィア・ウォーレンが住まう屋敷へ近づくにつれて、その音が変わる。
踏み固められた地面に足が触れれば、バタバタと騒々しいものが響き出す。
「ああ、もうこんな時間でしたか」
弟子が帰宅したことを悟り、アーヴァインはいつもの呟きを口にする。若くして天才と言われる彼であるが、背中を丸めて歩く姿からは他者を威圧するようなものは感じられない。
「お、御師様ーーーっ!!」
扉が開かれるや否や、勢いそのままにフィアは師匠の鳩尾辺りに頭をぶち込んでいた。アーヴァインにすれば、避けることなぞ造作もないことであったが、泣いて帰ってきた弟子をないがしろにするわけにもいかない。
「学校は、楽しかったですか? ……まぁ、悲しいことがあったのでしょうね」
「き、聞いてよ、御師様!」
少女の突進を受けることも慣れたもので、師匠はけろりとした顔で尋ねる。これも最早日課であった。トラブルメーカーと呼ばれる彼女が、どんな一日を過ごしたか。魔導の師は、おやつを何にするかなどを考えながら耳を傾けていた。
夕刻にはまだ早いこの時間、魔導に勤しむ子どもたちがそれぞれの住まう宿へと帰る。血統で才能のほとんとが決まる魔導の世界にあって“親なし”と蔑まされるフィアには苦労が多い。その師であるアーヴァインは、出来うる限り彼女の嘆きを聞こうとしていた。
それを甘いと言う者も多かったが、何せ弟子が可愛いことこの上ないので仕方がない。年齢よりもやや低い背の彼女は、トレードマークのような犬歯をむき出しにあれこれと語る。
今日も今日とて、フィアは長くもない黒髪を振り乱しながら、師匠のローブに顔を埋めていた。元より赤い瞳は、涙を含んで一層色味を増していた。
「リィーンが、リィーンのやつが……」
えぐえぐと嗚咽を漏らしながら、少女は師のローブに涙を吸い込ませる。彼女が身につけているものは、まだまだ学びの徒であるカラス色のローブであったが、涙を吸い取って、師の藍色のローブも同様の色に変わっていた。
「いつものことですが、誰に何を言われようとも、フィアはフィアです。泣くことなんてないんですよ?」
優しい声音で師匠が語るが、弟子は顔を埋めたままで肩を震わせている。いつもならば、大抵は泣き止むのであるが、それでもまだ少女は肩を震わせている。
「――るんですって」
「何ですか?」
嗚咽に紛れて聞き取れなかった言葉を、師は丁寧に尋ね返す。親のいない彼女にとって、彼は父も同然。当たり前のことを、否――当たり前以上の愛情を注ぐと決めていたので、泣いて帰った日にはこうして一層に優しく接するものだ。
「リ、リィーンが、いつもは厳しい師匠が優しくしてくれたって、自慢するんだ」
「んー、ああ……」
おおぅ、と唸りながら、フィアは窮地を説明する。
これには若き天才魔導士も困り果てた。リィーンとは、魔導の才を認められ、西の魔女と呼ばれる魔導士の弟子であるが、その魔女が曲者であった。魔導学院きってのスパルタで知れ渡る魔導士であるので、時折見せる優しさはそれはそれは利くものだろうと、アーヴァインは理解している。
(アメとムチとは、よく言ったものですが)
ローブに顔を埋めたままの弟子へは、その頭へ掌を置いて、彼は逡巡してみせる。
自らの師にも、お前は優しすぎる、などと忠告されていたことが頭を過ぎった。彼自身、周りが言う程にはお人好しとは思えていないが、どうやら優しい生き物と分類されてしまうことは知っていた。
「ちなみに、どう優しくされたのか、彼女は言っていましたか?」
少し考え、師は弟子を見つめながら言葉を紡ぐ。泣いている弟子の機嫌を伺う必要もないが、このように問うていた。親代わりのつもりでいる彼としては、この少女の心情には出来るだけ沿いたいというのが、正直な気持ちである。
それでも次の言葉を聞けば、彼の細い瞳も、いつも以上に大きく見開かれる。
「し、師匠ー、あいつ、リィーンが自分の師匠が一緒に寝てくれたって自慢してるんですよ! あたしゃもう、くやしゅーて、くやしゅーて!」
普段から標準語で話すように躾けている筈なのだが、感情の高ぶったフィアは南側の方言で捲し立てる。その勢いがあっても逃げることはないが、幾分か身を反らして師はあれこれと考えていた。
「あー……何と言うか、うん。悔しかったんですねー」
「そうなんですよ、御師様!」
一度は上げた顔を、フィアは再びローブに埋める。師のローブであるにも関わらず、涙を流す彼女はそのまま鼻をかんでもいた。
いつも通りのやり取りと言えば、いつも通りであった。昔はローブの膝元に向けられていたものの、今では師のヘソの辺りまでを、すっかりくたびれさせている。
(ふぅむ)
どうしたものか、とアーヴァインは心の中で唸ってみせる。よそはよそ、うちはうち――などと言えるのであればどれだけ楽であったか。だが、可愛い弟子が涙を見せているのであれば、何とか応えてやりたい。その程度には考える程、アーヴァインは子煩悩な生き物であった。
「とは言え、貴女もお姉さんなんですから」
「わーーん、師匠の人でなしー、鬼ー、メガネー!」
再び扉を乱暴に開け放って、フィアは飛び出す。外へ出たらどうしようかと、師は思ったところであったが、まだまだ幼い少女は自室に向けて走り出していた。
「うーん……どうしたものか」
どうしよもないものであったが、西の魔女へはどうしても恨みが募ってしまう。弟子を可愛がるのは構わないが、せめて自分の工房の中に納めておけよ。そう思ってしまうのは、天才魔導士といえども、人の子である証か。
腹を立てる度に、メガネと叫んで自室へ走る少女へはどうしたものか。そもそも、メガネは悪口なのか、と首を捻ってもいた。
「フィアも、いつまでも小さな子どもではないですし……」
頭を掻きながら、人並の子育ての悩みに愚痴を吐く。
弟子を際限なく可愛がりたい、このような願望には打ち勝ったものの、それは幾分も後味の悪いものであった。
いつまでも自分が護れる訳ではないし、いつまでもこの子が幼い少女ではないのだと、己に言い聞かせてもいたが。ともかく、魔導のライバルがしているから、自分も一緒に寝てやろう。そのような選択肢は残念ながらなかった。
「さて、どうしたものか」
繰り返しの言葉を短く唸り、師は開け放たれたままの扉へ視線を注いでいた。
(御師様に頼める訳は、ないじゃないか!)
心が荒むに任せ、フィアはベッドに体を放り投げる。別に師匠が一緒に寝てくれることを望んでいる訳ではない。だが、どうしても心に引っ掛かりを覚えてしまうのだ。
リィーンは自らの師匠に遠慮せずにお願い出来ているのだ――と。彼女自身、アーヴァインが我が子へ向ける以上の愛情を注いでくれていることは知っているつもりだった。
「でも、何ていうか、その……」
羨ましい。
その言葉は出すことが出来ずに、少女は瞳を閉じた。“親なし”の自分が魔導を学ぶことが出来ている――これがどれ程贅沢なものかと分かれば、もう不平を口に出してはいけないのだ。
モヤモヤとした気持ちが渦巻いていたが、幼い少女であるからか、ベッドに身を投げてしばらくすれば、次第に瞼が落ちていた。
「おやすみなさい」
半ば無意識に彼女は口にする。
「……はい、おやすみなさい」
師がそのように応えてくれたと思い、少女は一応の満足を得て眠る。
その様を見て、師である魔導士は軽く息を吐いた。
いつまでも小さな子どもではないが、まだまだ人の愛情を受けたい年頃だ。そのように思えば、ベッドに投げ出されたフィアの手を、しばらくは離すことが出来ない。
「いい夢が見られるといいですね」
弟子の寝顔が穏やかなものに変わったことを見届け、そっと師は部屋を離れた。
明日の朝は彼女が好きなパンケーキでも焼いてやろう。
我ながら甘いな、とも思いはしたが、この愛らしい寝顔を見れば誰もがそうした筈だ。才能の塊であるものの、魔力のコントロールが苦手な愛弟子の寝顔を一瞥して、師は微笑んでいた。