【上】
大華帝国の黄家と言えばその国では知らぬ者はいない、古くから続く名家の筆頭に上がる一門である。
黄家は代々主だって外務に携わることが多く、他国との折衝を図ることを得意としている。
一門の者は大抵が巧言令色にして、顔は違えどそれぞれが生まれながらにして麗しき美貌を持っている。
黄家は未来の外相として幼少の頃よりその見目をより効果的に使い、人を手取る手管を教え込まれる。芸事から、他国にも精通するような豊富な知識、人を絡めとる話術まであらゆる能力を叩き込まれる。
その業と、血族なら一様に持ち得る不可思議な芳しい桃の香り、そしてひたすらに近親婚を繰り返すことから仙境の一族と揶揄されることがままあった。
黄家は他家との婚姻が非常に少ない。一門の中でひたすら婚姻を繰り返している。それも、より親等の近しい者同士が多い。
その為非常にその血は濃く次代へと受け継がれていっている。
黄家は血に縛られている、とは専らの噂だった。
黄美雨は黄家の直径の血を引く長女だ。
だが、一つ下に異母弟が一人いるため何か無い限り家元を次ぐことは無いと早々から決まっていた。
今年で十六となる。
この年にもなればこの国ではそろそろ結婚する時期になり、縁談の一つや二つは入ってくる頃だ。大貴族であれば尚更。見初められてという場合も無いではないが、大方は家柄を重視する。所謂政略結婚と言うものだ。
だが美雨の元には一つもそう言った話は舞い込んでくることは無かった。
美雨は黄家では珍しいことにそんなに美人では無い。特別不細工という訳でも無いのだが、如何せん一門の他の者と並ぶとどうしても見劣りしてしまう。
しかし原因はそれではない。
美雨は、それが弟のせいであることを知っていた。
弟、玉祥は姉の縁談を片端から潰していた。
本人は恐らく密かにしているつもりなのだろうが、美雨は理解していた。
そしてその理由も。
美雨の父であり現黄家当主でもある徳賢はそれに対し黙認を貫いている。それに何か言うほど父は美雨に興味が無かった。
元々、昔から同じ子でも美雨より玉祥の方が目をかけられていた。と言っても大した違いがあった訳ではなかったが。
美雨が傍目から見ても、美雨の母、セイレーンを父が愛してるとは思えなかった。嫌うている訳ではない、ただただ無関心なだけだ。
母は大華帝国の北に聳える麗月山を挟んだ差し向かいにあるリボワ大国のシーザー公爵家の次女だった。シーザー公爵現当主でもあるシギルは、リボワ大国の外交官を勤めている。他国の申し入れとあっては流石の黄家も断り切れなかったのが、事の顛末だった。
他家の血が交わることが珍しい黄家に母が馴染むことはついぞ無かった。
美雨は幼い頃から母の様子をずっと見てきた。
美雨を見ると母は口の端をゆるりと持ち上げ笑って見せる。国内では見慣れぬ白い肌に薄く金に光る髪、湖畔よりも冴え冴えとした青い瞳は鏡のようにただ美雨の顔を映していた。
自分に関心を寄せない父に母は何を思っていたのだろう。
母は数年前に流行り病により呆気なく亡くなった。
美雨は玉祥の母が誰であるか知らない。
だが恐らくその女性は父が唯一愛する女性だろう。そしてその女性は父と近い血の繋がりがあるということを確信していた。
美雨の生まれたその年に行方不明となっている叔母の艶紅、彼女こそが玉祥の母なのではないかと美雨は考えている。
黄家の人間は近親を愛する。
黄家の人間であれば誰でもその言葉を身を持って知ることとなる。
美雨が玉祥の異常とも言える執着に気付くのに然程時間はかからなかった。
二人が初めて顔を合わせたのは美雨が六つ、玉祥が五つの頃だった。
幼い頃から黄家でも屈指の美しさを生まれ持った玉祥は天使のような笑みをもってして美雨を姉と慕った。そんな愛らしい弟を美雨も大いに可愛がった。
昔は仲の良い姉弟だったのだ。
そうでなくなってしまったのは、一体いつからだったろうか。
「御加減はどうですか、姉上」
夕暮れ時、玉祥は美雨の部屋を訪れた。
玉祥はまだ小さい皇太子殿下の付き人兼遊び相手として出仕している。付き人は他にも多くいるが、殿下の覚えも殊更良いのだと侍女達はよく噂をしている。
いくら弟と言えど体を横たえたまま話すのは見苦しいのでせめて上半身だけでも起こそうとすると、「姉上、どうかそのままに」と玉祥にそっと肩を押さえられて寝台に戻されてしまう。
「私の時は無理なさらないで」
「そうね、玉祥は弟だものね」
玉祥はそれには答えず、ただ微笑んだ。
薄気味の悪いやり取りだ、と美雨は思う。
美雨の体の不調は三年前からだった。
薬湯を日に二度、食後に飲んでいるが良くなる気配は一向に無い。それもその筈だ。その薬湯こそが元凶なのだから。
二年前くらいにこの薬湯を飲む振りをして部屋にある鉢植えに捨てたことがあった。
するとその日は体の調子が起き上がれる程に良くなり、代わりに鉢植えの沈丁花が萎れているのを見て美雨は確信した。
それには、美雨の部屋に足繁く通っていた玉祥も気付いてしまい、朝餉と夕餉の時間は大抵側に付いているようになった。
嫌な話だ。縁談は美雨のこの病弱を主に理由にして玉祥は断りを入れている。政略結婚において求められるのは家同士の縁故と血筋、そして世継ぎが産めるかどうかだ。
起き上がる事もままならない程病弱となれば子もそう簡単には産めないだろうと周りは判断する。それを押してまで美雨と結婚をしたいと言う人は未だに現れた事は無い。
程無くして美雨付きの侍女の梦铃が朝餉を持って現れた。梦铃は粥の入った器と薬湯が乗った膳をそっと美雨のベッドの脇にある文机に置いた。その文机は美雨が食事時にベッドから降りなくて済むようにと考慮されて置かれたものだ。そういった物を置く必要がある程には美雨が自由に起き上がれる時は少ない。
梦铃は一礼してまた部屋を出て行く。梦铃は元々とても大人しい性格ではあるがそれでも礼儀として普通は声をかけるものだ。梦铃は礼儀を知らないような性格ではない。それなのに、ともすれば失礼にも当たる行為をしているのは大方玉祥の命令だろう。
梦铃は三年前に急に美雨付きの侍女になった。それまで美雨に付いていた侍女が体調を崩したのが原因だった。
美雨と彼女とはそんなに仲良くは無い。美雨からしたら彼女は嫌いな訳では無いが、玉祥の息が掛かっていると思うと声をかけるのも途端に億劫になってしまうし、そもそも彼女も美雨と関わりたくないだろう。下手に自分と関わって玉祥の気分を損なうのは彼女にとって得策とは思えないというのは美雨の想像に難くは無かった。
粥に口を付けると牛の乳のもったりとした甘さと少しの塩気が口の中に広がった。
乳粥というもので、西の方から伝わってきた粥と聞く。美雨はこの粥が一等好きで、昔から体調を崩すとよくこの粥を侍女にねだっていた。
好物だからかいつもより幾分か食が進む。玉祥はその様子を至極嬉しそうに見ていた。
「姉上は昔から乳粥がお好きでしたね」
「…そうね」
「覚えておられますか?いつだったか二人でこの粥を食べたことがありましたね。確か共に川縁で遊んだ日でした。あの時、姉上は川の流れに足を取られて転んでしまわれた…」
玉祥は懐かしい思い出に浸るようにそっと目を伏せた。口許には笑みが浮かんでいる。
「ええ、そんなこともあったわね……」
足を人前で晒すのは端ないこととは知っていたけれどあの時の美雨はまだ羞恥心よりも欲求の方を優先してしまう頃だった。
玉祥が、足を浸したらきっと涼しいというからつい靴を脱いで足を入れてしまったのだ。前日は丁度激しい雨が降っていたものだったから川に雨水が流れ込んだのかいつもより流れが少しだけ急だった。でもそんなに危なそうには見えなかったのだ。玉祥も恐らくそう思ったのだろう。
いつもは側にいた侍女達に隠れて外に出ていた時だったから止めてくれる大人もいなかったのも良くなかった。
玉祥の無邪気な言葉に美雨はついつられてしまったのだ。
いつもは浅い川だった。けれども水嵩が増していたし、二人はまだ幼い子供だった。目先のことに捕らわれすぎてちゃんと川を見ていなかったのかもしれない。いつもなら足首までだろうと思っていた川は膝まであって、片足を差し入れただけで想像より深い川に驚いた拍子に美雨は転倒してしまった。玉祥は身を屈めて靴を脱いでいる時だったと思う。
頭から美雨は転倒し、水面に勢いよく額を打ち付けた痛みと驚きとでパニックになり、溺れてしまった。
冷静に考えたら立てば済むものだったが、あまりに急なことで美雨は手と足をバタバタと動かしもがくことしか出来なかった。元々そんな深さでは無かったから川底にある無数の小石に体が当たり、結局美雨は複数箇所怪我をしたのだった。
助けてくれたのは玉祥だった。美雨より一つ年下だったのに、思いの外力強い腕に捕まれて美雨は驚いたものだった。
玉祥は美雨を引き上げると美雨を強く抱き締めわんわんと子供のように泣いた。美雨もつられて一緒に泣いてしまって、二人が泣き止んだのは結局夕暮れ時になってからだった。
二人共服は濡れていたし、土で服が汚れることも気にせずに座り込んで泣いていたから泥だらけだった。二人で手を繋いで帰って乳母に酷く叱られた。
もう乳母は死んでしまったが、あの頃はまだ楽しかった。何も知らない子供でいられた。
それから美雨と玉祥が外で遊ぶことは無くなった。ほとぼりが冷めた頃美雨はまた外に行きたがったのだけれど玉祥はそれを酷く嫌がった。
玉祥が美雨を束縛を段々とするようになったのもこの頃からだと思う。
「あの日の夜は二人共熱を出してしまって、一緒にこの粥を食べましたね」
あの日、玉祥は何処か怯えたような様子で美雨から離れるのを嫌がった。乳母は男女が一緒の部屋で寝るのは良くないことだと言ったけれど、今にも泣きそうな玉祥が余りにも可哀想で離れがたかった。美雨も玉祥もあんまり強情だったものだから流石の乳母も思うことがあったのか最後には離すのは諦めてくれたのだった。
あの甘くて少しだけ塩辛い粥を二人で食べて、美雨は玉祥の熱い体を抱き締めて寝た。
あの時はまだ幸せだった。
玉祥はその後は当たり障りの無い話を美雨に滑らかに話して聞かせた。
玉祥はもう十五になる。
まだ少し若くはあるがそろそろ父から家督を譲られてもおかしくはない年齢だ。
その日が来るのが美雨は恐ろしかった。