メガネガメ
大学の文芸部で発表したものです。
――私はメガネが嫌いだ。
学校から帰る道すがら、意図せずため息が漏れる。一緒に生気や情熱といったものまで吐き出しているような気分だ。肩を落とし、首を垂れる。すると顔の大きさに不適なメガネがカクリと傾いた。
ブリッジに指を添えて位置を正す。この一連の動作に慣れ切ってしまっている自分に気づき、また一段と気分滅入ってしまった。
夕日が照らす河川敷。周りに人の影はなく、時間は緩慢に過ぎていく。川の流れも穏やかで、覗き込めば川底まで見通せるほどに澄み切っていることだろう。秋風は草木を揺らし、舞い散る紅色の葉が目の前で踊る。
何とも風情ある景観じゃないかと思う。故に、私の鬱屈した気分と全く噛み合っていなくてとても不愉快だ。
俯いたことで、水面に移った自分の顔が目に留まる。瞬間、私の気持ちはついにどん底を突き抜けた。
嗚呼、なんて……ブサイク。
自分の顔を見ると不快感がどっと押し寄せる。極力鏡や窓のない道を選んで下校しているというのに、とんだトラップに引っかかってしまった。もはやため息すら出てこない。
全部全部、このメガネが悪い。
私の顔の面積の約四割を占める赤いセルフレームのメガネ。これが自分でも驚くほどに似合っていない。しかも顔にフィットしていないからとにかくずれる。そしてその時の私の顔が輪をかけて決まらない。ダサすぎて泣けてくるほどに。
ただ私がダサいと思っているだけのうちはよかった。しかし今日、ついに友達に言われてしまったのだ。
『ヨウコさぁ、そのメガネ……あんま似合ってないよね』
何も言い返せなかった。だってそれは自分が一番わかっていることだから。わかっていたはずのことなのに、いざ友達に指摘されるとどうしようもなく侘しい気持ちになってしまった。そのままずぶずぶと気持ちは沈んでいき、一緒に帰ろうという友達の誘いも断った末、現在に至る。
「こんな、メガネなんてっ」
メガネをはずして地面にたたきつけたくなる衝動をぐっと抑える。メガネがなくなってしまえば前が見えなくなって家に帰れなくなる。それほどまでに私の視力は悪い。
やり場のない怒りに只々奥歯を噛みしめる。こんな似合わないメガネさえかけていなければここまで惨めな気持ちを味わうことなんてなかった。
そもそもの始りは二週間前まで遡る。幼いころより目が悪かった私はコンタクトレンズを着用していた。よく、目に直接レンズを付けることを怖がる人がいるが、私はむしろコンタクトがなければ落ち着かないとさえ思っていた。
ある日の朝、そんな慣れ親しんだはずのコンタクトが突如牙をむいたのだ。前日の夜に誤ってコンタクトを着用したまま就寝してしまったため、目が覚めた時に瞼の裏側に入り込んでしまっていたのだ。コンタクトを使い始めてから六年目にして初めての体験だった。
これがなかなかに辛い。痛みはもちろんあるのだが、それ以上に眼球の裏側に何かが張り付いているという感覚がどうしようもなく不愉快なのだ。
朝から家族全員で大騒ぎをした。幸い入り込んだのは右側だけで、取り出すのにそれほど時間もかからなかった。しかし、その時の私はかなり気が動転していたようで軽いパニックを起こしたらしい。私自身記憶が曖昧で半分ほどしか覚えていないのだが、相当暴れまわった気がする。
その日の夕方にコンタクトからメガネに変えるよう、母に勧められた。しぶしぶながら私もそれを了承したわけなのだが、まさかこんなことになるなんて。
メガネの種類が悪いわけじゃない、きっと私が絶望的にメガネの似合わない顔つきをしているだけだ。コンタクトをつけているときは一度も自分のことを不細工だなんて思ったことはなかった。別に可愛いとも思っていなかったけど。
「もうやだ……」
花の女子高生ライフもこんな顔では満足に謳歌できないではないか。コンタクトに戻すことも考えたが、二週間前の出来事がトラウマになってしまっていて、戻す勇気が持てない。それに、似合わないとはいえせっかく買ったメガネを使わないでおくのはもったいない。憎きメガネもお金を出して買っている以上、無碍に扱うことはできないのだから。
だがしかし、こんなものをかけていてこれから生活上手くいくのだろうか。せっかくの女子高生、恋にかまけてお留守になったりもしてみたい。今の私に好意を寄せてくれる男性など現れようはずもないが。
途方に暮れて再び項垂れる。するとやはりメガネはカクリと傾いた。
◯
――俺はメガネが好きだ。
厳密に言うと、メガネを掛けた女の子が好きだ。俗にいうメガネっ娘属性というやつである。
しかし、ただメガネを掛けていればいいってわけじゃない。掛けたメガネがその娘に似合っていなければ何の意味もない。だが、掛けるべき女の子が掛けるべきメガネを掛ければ、それは最高級のアクセントになる。可愛らしい女の子の顔の上に鎮座する冷然としたメガネ。有機と無機のアンビバレンツ。メガネを掛けることによって女の子にインテリジェントな印象が付加される。メガネによって女の子が高圧的に見えてしまうこともあるだろう。しかしその無機質なレンズの向こうから覗く瞳は優しく暖かだ。相克するはずの二つの要素がメガネによって同居できてしまう。あな、すばらしや!
かわいい娘にはメガネを掛けさせよ、それが俺の持論だ。似合わないかもしれないが、まぁとりあえず掛けてみよ。うまくすればその子の魅力は数倍、数十倍にまで跳ね上がることだろう。メガネ越しの微笑み、いいじゃないか。メガネ越しの憂い顔、大いに結構。メガネを持ち上げる僅かな仕草、たまらん。
ではどんな女の子がどんなメガネを掛けるのが相応しいのか。コレに関しては好みの問題だと言わざるをえないだろう。蓼食う虫も好き好きという。
ある男が町ですれ違った女の子を見て、あの娘にはチタンのハーフリムが似合うといった。しかしそこで俺が、いやいやあの娘の顔においては、リムの存在がさを阻害することになる。故にあの娘はリムレスを掛けるべきだと反論した。一体どちらが正しいのか。どちらも正しいのだ。
似合う似合わないの判断は見るもの各々がすればいい。一概にどれがベストかなどと決めてしまうのは愚かの極みだ。違うメガネを掛けることでその娘の新たな一面が垣間見えるかもしれない。似合わないと思っていたはずのメガネも、いざ掛けてみれば意外に悪くないかもしれない。
メガネっ娘の可能性とは、無限大なのだ。
ということを考えながら、俺は日々過ごしている。
「あぁ~あ、メガネっ娘の彼女できねぇかなぁ」
誰に聞かせるわけでもなく一人ごちた。淡い願いを乗せた言葉は、秋の風にかき消されていく。……虚しい。
齢十六にして恋愛経験ゼロ。俺はこんなにメガネっ娘を愛しているのに、メガネっ娘のほうは俺のことを愛してはくれない。
先ほど似合う似合わないの話をしたが、多少似合っていなかったとしてもメガネっ娘であるなら俺は一向に構わない。むしろ伏してお頼み申し上げたいくらいだ。メガネっ娘であれば、少しくらい性格が悪くても、少しくらい体格に難があっても、少しくらい趣味が合わなくても全然問題はないのだ。最初に言ったことと食い違っている気がしないでもないが、まぁそれはいいだろう。
俺が女の子に求めることは一つ、メガネを掛けていること。たったそれだけなのに、どうして俺には彼女ができないんだ。
「どうしてなんだ!」
今度は腹の底から声を張り上げる。しかしその声もまた、夕焼け空に溶けていくばかりだった。
虚しさを紛らわすためにポケットの中に入っているものを取り出す。それはメガネだった。いずれ出会うであろう最愛の人のために持ち歩いている、メガネ。僕の彼女となるべき女性とはつまり、このメガネをかけてくれる人ということになる。
まぁ、度の入っていない所謂伊達メガネなのだが。
未だ見ぬ彼女を想いながら、俺はそのメガネを自身に掛けた。
●
三人の男が私に詰め寄ってくる。我ら虞犯少年でございと言わんばかりの風体だ。
高架下に差し掛かったところで突然現れたこの男たち。あたりに人影は見当たらないと思っていたが、勘違いだったようだ。
「よぉ姉ちゃん、もちっと静かに歩けねぇのかな」
リーダー格らしき男が顔を突き出してくる。典型的な不良の言いがかりだ。特にうるさくした覚えなど無い。
正直怖くて震え上がりそうだ。今は何とか平静を保っているが、これ以上何かされたら泣いてしまうかもしれない。女に手を上げない程度の倫理観がこの男たちにあることを祈るばかりだ。
「す、すいません。何かお気に触るようなことがあったのでしたら、謝罪します」
とにかく逆らってはいけない。今は言うとおりにしてこの場をしのぎ、その後警察に駆け込もう。
「私は、どうすればいいでしょうか。申し訳ありませんが、お金は、その、あまり……」
「あ? なんだその態度は。お前俺らのことおちょくってんのか」
男はさらにその面持ちを険しくする。気持ちを焦らせるあまり、誤った受け答えをしてしまったようだ。お金目当てではないのだろうか。
「てめぇの気色悪ィ声にこっちはイライラしてんだよ。大体なんだよそのメガネ、全然似合ってねぇぞ」
あぁ、それはご尤も。なんてことだ、恫喝してきた悪漢にまでメガネの似合わないを指摘されるなんて。この人達はもしかしてメガネを掛けた私がブサイクだから絡んできたのだろうか。
男は壁を軽く殴り、威嚇してくる。要求がわからない以上対処の仕様がなく、只々怯えることしかできない。
高架下は薄暗く不気味で、よりいっそう私の恐怖感を煽ってくる。助けを呼ぼうにもうまく声が出せない。仮に出せたところで、あたりに人がいるかどうかもはっきりしないので、より一層相手の怒りを買うだけになるかもしれない。
吹き出す冷や汗に不快感を覚えながらも、こちらに抵抗の意思がないことを必死で訴えかける。本当にお金目当てではなく、苛立ちのみで絡んできたのであれば、向こうが落ち着くまで何もせずにじっと耐えるのが一番だろう。
だがこちらの気持ちを知ってか知らずか、男はますます腹を立てている様子だ。
「お前の顔みてるとさ、マジムカついてくるんだわ」
男は理不尽に怒りをぶつけてくるばかりだ。たまらなくなったので、思わず睨み返してしまう。するとついに男は激昂に発した。
男は私の顔を叩くべく、右手を振り上げた。咄嗟に目をつぶり顔を引っ込める。すると男の振り下ろした平手は、私の顔に触れず、掛けていたメガネを弾き飛ばした。
顔の大きさに不適なメガネは勢い良くコンクリートの地面を跳ねた。
◯
「……ってぇなぁ、この野郎」
目の前にいつの間にか居た不良らしき男たちにガンを飛ばす。男たちは一瞬たじろいだ。
俺はその一瞬を見逃さなかった。
先ず至近に居たリーダー格らしき男の鼻っ柱に拳を叩きこんだ。顔を抑えながら怯んだところで、足を刈って転倒させる。男は地面に強かに頭を打ち付け、昏倒した。
わずか数秒の出来事だった。
「てめ、調子に乗ってんじゃ――」
リーダー格が倒されたことに驚きながらも、他の二人が恫喝してくる。だがそれを聞く前に、俺は身を屈め片方の細身の男の懐に潜り込んだ。何が起こったのか理解できずに目をむく男の鳩尾めがけて、頭突きを食らわせる。細身の男は体をくの字に曲げてその場に倒れた。
最後に残った大柄の男は、立て続けに仲間の二人がやられたことが信じられないといった様子だった。数歩たじろぎながら、俺から視線を離せないでいる。
「お前、一体……なんなんだよ」
恐怖に身を震わせながらジリジリと後ずさる。倒れた二人を見捨てて逃げるつもりなのだろう。どうやら俺には勝てないと判断したらしい。
「先に手を出してきたのはそっちだろうがよ」
試しに一歩距離を詰めると、男は俺に背を向けて一目散に遁走した。すでにあの男は脅威となりえないため、追いかける理由はない。残ったのは気絶した二人の男のみ。よくわからないが、先に向こうが手を上げてきたわけだから、このまま放置していっても文句はないだろう。
「あぁ~あ、なんてこった」
俺は傍らに落ちていたメガネを拾った。それは、俺が未だ見ぬ彼女のために持っていた赤いセルフレームのメガネだ。先ほどの喧嘩の間に落としてしまっていたようだ。
不幸なことに、落としてしまった衝撃でレンズが割れてしまっている。このまま掛けるのは危ないため、リム内に残ったレンズの破片も払い落とす。完全にフレームだけの状態だ。
もともとレンズに度は入っていなかったが、それでもフレームだけではメガネとは呼べない。くだらない喧嘩で大事なメガネを傷物にしてしまうなど、メガネっ娘属性としては恥ずべきことだ。
とりあえず今は嘆いてもしかたがないため、他に目立った傷がついてないか確認する。さらに、フレームに歪みがないかどうか確かめるため、一度掛けて確かめることにした。
◯
伸びている不良たちをそのままに、再び帰路につく。
特にフレームにゆがみはないらしく、付け心地は気にならない。レンズがないことを除けば、普段かけているのと同じメガネだ。
しかし、そこでふと違和を感じた。
俺は普段、気が向くとまだ見ぬ彼女を想いながらこのメガネを掛けていたはずだ。しかしなぜだろう、リムに囲まれ、切り取られて見る風景に馴染みを感じられないのだ。付け心地は確かに普段通りだと思えるのに、このメガネを掛けたのは初めてかのような錯覚に陥っている。
レンズがないから? しかし、もともと度は入っていない。それほど違いがあるとも考えがたい。
何やら言い知れぬ不快感を覚えながらも、その原因がわからずにそのまま歩を進める。
今度こそ辺りに人の気配はなく、川のせせらぎだけが耳に入る。不意に魚か何かが跳ねる音が聞こえたので、つい流れる川に視線を向けた。澄み切った川面は、鏡のように世界を反射している。
そこに映っていたのは、赤いセルフレームのメガネを掛けた見知らぬ女の子だった。
「……かわいい」
なんだこの女の子は。めちゃくちゃメガネが似合ってるじゃないか。
俺が未だ見ぬ彼女のために持っていたメガネを、完全に掛けこなしている。小顔に対してやや大き目なフレームが不釣りあいに感じる者もいるかもしれないが、俺はむしろこのブカブカのメガネをこの娘が掛けることによってその良さが際立っていると思う。例えるならば、中学生の女の子が背伸びして大人びたワンピースを着た時に感じるようなコケティッシュ。
川面に映った彼女こそが、まさに長年追い求めた俺の理想とする女の子だ。間違いない。
もっと間近に彼女の顔が見たい。身を乗り出し、川面を覗き込む。すると彼女もまたこちらに身を寄せてきた。互いの意思が通じ合っているかのように徐々に顔を近づけていく。彼女もまた、一目見て俺に心を奪われたのであろうと確信した。
二人に言葉など必要なく、ただただ思いを通わせるのみ。初対面のはずなのに他人の気がしない。ずっと昔から彼女のことを知っているような気がした。
いざ唇を重ねんと瞳を閉じたところで、俺は足を滑らせて川に転落した。