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『拝啓、家の皆。
旅立ちからもう数日は経ちましょうか、そちらはお元気ですか?こちらは夏の日差しも厳しく、井戸の水の冷たさに思わず顔が綻んでしまいます。
さて、私は今東海道本線を辿り、通商の街ヨコハマを目の前にしています。人のざわめきも賑やかで、今からどんな出会いがあるのか楽しみになってしまいますが……まずは、道中であった出来事について語りましょう。
アキバの街を出発し、しばらく経った時。私はかの有名なロカの施薬院を訪れました。特に訪れる理由があったというわけではなく、ただ単にどのようなものかと物見遊山のつもりで訪れたのです。そうしたら、なんとも驚かされましたよ。
実は、院長や看護師のような方々に混じって〈冒険者〉の方が働いていたのです。メイン職業こそ様々でしたが、皆〈薬師〉や〈山師〉、〈香油職人〉といった治療や療養に向いたサブ職業を習得していまして。院長さんに話を聞くところによれば、なんでも〈大災害〉直後から二ヶ月ほどの間にやってきた方々で、効果の高い薬品作りや滋養がある食事、心と体を和らげるマッサージなんかを行っていると。
これには当然ながら興味を引かれまして、その方々に話を聞いてみたのです。するとどうも、〈大災害〉直後の混迷を避けてここを訪れそのまま厄介になったり、身分の分け隔てなくあらゆる人々を治療することを掲げた院の方針に賛同してここに集まったりしたのだとか。皆生き生きとした表情で働いていて、本当に施薬院を気に入っているのが私にも分かりました。
きっと、これからこの施薬院はより発展することでしょうね。少々余計な勘ぐりまで降ってはこないか心配ではありますが、彼らならばうまくやっていくことでしょう。ひょっとすれば〈円卓会議〉からも、なにか持ち上がるかもしれません』
家の中でいちばん最後にその手紙を読み終えた少女は、丁寧に手紙を畳んで文箱に戻す。手紙の返事は後から全員で集まり、皆で決めるというルールになったからだろう。
少女は軽やかな足取りで家の外へと飛び出すと、緑の髪を夏の陽にきらめかせながら表通りに出た。その背中の向こうに、オーク材に字を焼き入れて作られた看板がひとつ。
〈イーハトーブ幻想館〉
と、記された看板はこの銀葉の大樹に程近い喫茶店のものである。焦がしたキャラメルのような扉と、大木に寄り添うような建物の構造がトレードマークの、物語を語って聞かせる喫茶店。エリアの所有者であるオーナーの名前は〈ナーサリー〉、つい数日前にここを旅立った〈吟遊詩人〉である。
「おっはよーございまーす!」
「おう、おはよう早苗ちゃん!今日も相変わらずかわいいねぇ!」
「今日はお待ちかねの茄子が安くなってるよ!後で買いにきとくれよ!」
アキバの街並みを駆ける白いブラウスを着た少女の背に、いくつもの声がかけられる。それは〈大地人〉の商売人であったり、街行く〈冒険者〉だったりと様々だ。
「やっほー、アルサおばさん大好き!ドーマさんはもうちょっと気の利いた台詞を考えてくださいね~」
「おねえちゃん、またお話聞かせてね!」
「仕事が早く終わったらね!今日もお母さんのお手伝いがんばるんだよっ!」
小さな声に手を振って、黒土の道路をいくつも通り過ぎる。特に大きな取引もない今日の早苗の勤務は、ブリッジ・オブ・オールエイジズ付近での商人や出稼ぎ労働者の応対だ。
〈円卓会議〉が設立した行政の、特に一般的な〈大地人〉との交流の重点を置く部門が早苗の勤務先である。強いて言うのであれば徐々に形になりつつある〈冒険斡旋所〉の役職に近いが、それよりももっと〈大地人〉に近い距離で接する仕事である。
早苗自身、人と話すのは好きだった。元の世界では漠然と、こういった仕事に就いてみたいなどと考えてはいたのだが、異世界転移の末に本当にそんな役職に就くとは思ってもみなかっただろう。最初は当然戸惑ったが、今ではそこそこ板についてきた、というところだ。
古びた線路沿いに橋へと向かっていけば、目的の場所はすぐに見えた。橋のそばに立つ簡素な建物は、〈円卓会議〉が設立した自警団の詰所だと少女は思い起こす、このすぐそばが早苗の橋での職場だ。ここにお世話になったのは威圧的な商人や貴族に絡まれた時くらいだったが、やはりあるとないとでは安心感が違う。今日も頼もしさを感じながら、すぐ見える位置にいた行商隊に声をかけた。
「あの、アキバの街にお越しになられた商隊の方ですか?」
「はい、そうですが君は……見たところ街の子かな」
「いえ、私は〈円卓会議〉の者です。街を訪れる〈大地人〉の皆さんにアキバをご案内するために、こちらでお話を伺っております」
そう言うと早苗は腕に嵌った腕章の、〈円卓会議〉を示す紋章を見せる。対面した若い商人はフリルブラウスに紺のフレアスカートの少女がそのような役職に就いていることに面食らったのか、少しうろたえながら応じた。
「そ、それは申し訳ない。〈冒険者〉の方は若くとも秀でた才を持っているとお聞きしました、驚くのは失礼でしたね」
「お気になさらず、私は見た目通りの若者ですから。……それで、話を聞かせてもらってもいいですか?街を訪れた〈大地人〉の皆様に〈冒険者〉側の需要や文化をお伝えし、また〈大地人〉側の要望や文化などを聞く。そうすることで双方の交流をより円滑にするのが私の役目ですので」
「ええ、もちろん構いません。ただ私どもとしてはそのー……料理のレシピなどを手に入れられれば、と」
「レシピ、ですか……新しい調理法などは既に耳にしていることかと思いますが、でしたら遠方の方なんですねー」
もう何度か繰り返してきたやりとりを慣れた言葉で済ませながら、早苗は手元のメモ帳に商人達の身元や名前などを記述していく。見たところ複数の用心棒にかなりの人数の小間使いも連れた大きな商隊で、奥にふんぞり返る中年の商人を見る限り地方の豪商といったところだろうか。いままで彼女が相手をしてきた商人のなかでは格段に大きい。
とはいえ、彼女も〈冒険者〉。凄いなーといった月並みの感想こそ浮かべど、それに物怖じすることはない。六月のクレセントバーガー騒動から猛烈な勢いで広まりつつある「新しい調理法」の拡大速度からアタリを付けると、商人は勢いよく首を縦に振った。
「そうなんです!ここ最近の商売の中心といったらやはり食事。〈料理人〉の者も同行させていますので、ぜひ〈冒険者〉の皆様の極意をお教えいただければと!」
「お、おお、熱意アリですねぇ……と、こほん。それでしたら書店で料理の教材をご購入いただくか、どこかの店と交渉してレシピの取引を行うか。簡単なものであれば個人の〈冒険者〉からでも教えてもらえるかもしれませんね。礼儀と節度さえ守っていただければ、我々〈円卓会議〉からも特に強制することはございません」
え、と面食らったかのような商人の顔に、早苗はなんだかおかしくなってしまった。少女が外からアキバに来た人々と応対する度、〈冒険者〉の知識を禁断の知恵か何かのように扱われることがあったのはこれが初めてではない。これも文化の違いとは思っても、そこまで恐々されてはつい笑うというものだ。
異世界の知識が、などというのはサブカルチャーでは定番のネタではあるものの、本当のところその当事者になるというのは考えていたより早苗の心に奇妙さを感じさせた。当たり前の知識で驚かれるのは単に年代が違うからというだけなのだが、手品で騙しているかのようなささいな罪悪感が胸に刺さったのを、一旦見ないフリをする。
そうしてあまり理解が追いついていない商人に対し、少女は説明を繰り返す。アキバの知識において漏洩が禁じられるものはそう多くはないこと、それどころか食に関しては大いに広まって、ご当地の味を発明して欲しいくらいだということ、勝手に盗みだしさえしなければ誰も怒りはしないことを告げた。そうすると、商人の顔がみるみるうちに喜色に染まっていく。
「そ、それは本当ですか!でしたら旦那様もきっと喜びます、これでウチの儲けもうなぎ登り間違いなしですよ!」
「あはは、万人に公開されてるってことだけは忘れないでくださいね?工夫なしに儲けなし、アキバのギルドもどんどこ新作を出しますから、頑張ってください」
家の帳簿を預かる女傑の言葉を引き合いに出しながら応援すると、どうやら先ほどの偉そうな年配の商人が焦れたのか目の前の商人を呼ぶ声がする。慌ててこちらに頭を下げる青年に礼を返すと、走り去る背中を早苗は見送った。
しかし、傲慢そうな年配の商人の態度をこっそり警邏担当の〈冒険者〉に伝えておくことは忘れない。入り口で追い返すほど問題のある態度でこそないものの、身分を笠に着て偉ぶるというのはアキバの街ではもっとも嫌われる行為の一つである。こういった窓口業務特有のやり取りも、既に何度も行われ実績を築きつつあるのだが、できればやりたくないというのが少女の本音でもある。
「なんであんなに偉そうなんだろう……街の人に失礼なこと、しないといいんだけど」
小さなため息をつきつつ、早苗は次の商人の馬車に向かって歩いていく。アキバの受付嬢は案外、いや結構忙しい。
『その後ロカの施薬院からいくらもしない距離、地図屋の方の計算通りの時間で〈エターナルアイスの古宮廷〉に私はたどり着きました。
いや、なんといいましょうか。本当に月並みな言葉ですが、私はあの宮殿を見た瞬間、感動のあまりつい泣いてしまいました。あのゲームの名所が、という話ではもはやないのです。あの時、私の目の前には古アルヴ文明の遺産が悠々と聳え立っていた。永久氷に抱かれ、遥かなる時を越えて今もなお人々の間に畏敬と美を感じさせる。あれは、まさに遺産と呼ぶに相応しいものでした。
もしも私が精緻に絵を描くことのできる〈画家〉であれば、真白く無垢な柱の細工から氷の蒼いきらめきまで密に描いて伝えたでしょうが、残念ながら私にはそのような技能はなく。そのことが非常に口惜しくてなりません。
そうそう、途中行きあった商人の方に伺ったのですが、近くこの古宮廷に貴族の方々が集まるんだそうです。街に来た使者の方々の話は聞きましたが、その会議というのは一般にも有名なようですね。彼らの中にはあまり貴族に好意的ではない人も居ましたが、マイハマのセルジアット公の評判は良かったですよ。身分の差という概念にはなかなか慣れませんが、慕われる領主も居るのだと思えばなんとなく気が楽になります』
昼の休憩も取り、太陽が少し傾き始めた頃。うんうんとメモを睨んでいた早苗の背中に声がかけられる。はっとして振り向けば、そこには早苗より少しだけ背の低い、魔法職か回復職らしき赤茶の髪をした少女が立っていた。その傍らには少々汚れた恰好の少年も立っていたが、兄弟と言うには少年の方が細身でひょろ長く、赤茶の少女とは背丈も顔つきも似つかない。ステータスを確認すればすぐに〈大地人〉と判明した。
思わず不思議そうな表情を浮かべてしまったものの、すぐに迷子か流民の類かと向き直る。少女のステータスには〈三日月同盟〉のギルド名が表示されているのを確認して応じる。
「あなたは〈三日月同盟〉のギルドメンバーの……セララさん、ですか。その子がどうか?窓口で対応できることなら、私がどうにかしますけど…」
「あっ、あの!〈大地人〉の雇い方ってどうなってるんですか?私、〈円卓会議〉の仕事にはあんまり関わっていないのでよくわからなくて」
「ああ、それなら私が書類用意しますよ!どこどこにこういう契約で雇われましたって書類を雇った側のお店や個人で提出して貰えれば、後は特になんにもありませんから」
臆病というわけではないかもしれないが、いささかあわてんぼうな気質があるのかセララはわたわたと話し出す。きっと広いアキバの街で迷っていた子供を保護したものの、働き先はないかと聞かれて戸惑っていたのだろう。腕に巻かれた〈円卓会議〉の腕章にほっとした表情を浮かべていたのが、早苗からははっきりと分かった。
それでは、と腰に装備していたブックホルダーから求人表を取り出すと同時に、早苗はひっそりと少年の表情を盗み見る。髪はヤマトにはありふれた焦げ茶の髪ではあるものの、同じ色に染まった瞳はどこか不信──というか警戒心のようなものを感じる気がした。服の汚れ具合やその目つきからなにごとかの事情を感じたが、口に出すわけにもいかず少女は黙り込む。
柔らかく日向の子犬のような空気のセララが側にいるのがせめてもの救いだなぁ、とこっそり考えつつ、少年に求人表を差し出すことにする。
「この辺は今もよく募集していますね。アキバにいる〈冒険者〉なんてどーせ一万人ちょいですから、やっぱり人手が足らなくて足らなくて。君にやる気があるんなら、いくらでも仕事はありますよ」
「……それ、本当に誰でもだよな」
「はい、誰でもです。あんまりちびっちゃいと危ない仕事は任せられませんけど、見たところ中が……じゃなくて、13から15歳くらいはありそうですし」
疑念の声に応えて説明をしてみるものの、疑惑の視線はどうにも変わらない。目を合わせ、はっきりハキハキとした声で、というマニュアルはしっかりこなしてみるものの、見るからに酷い目に遭ってきました、という相手には通じてくれないようだ。よくあることながら、早苗は出かかったため息を飲み込んだ。
だが、その悩ましさも、「不安なら見学を」と続けようとした声が奇妙な音にかき消された瞬間に消えた。音源をはっきり言ってしまうのなら、少年の腹部から。顔を真っ赤にした少年にやっと年相応な態度を見せたと安堵して、早苗はこう続けた。
「私、今日は早く終わりそうなので……一緒におやつでも食べませんか?セララさんもよければ一緒に」
アキバの持つ飽食の魔力が少年の心を解きほぐすことを期待して、少女は誘いをかけた。
『そんなわけで、商人の皆様とともに歩きながら、色々と話を聞かせていただきました。なんだかすんなり話されていたので、私のことをただの〈大地人〉と勘違いしていたのかもしれません。
曰く、領主の皆様もアキバの街と〈冒険者〉に関しては、どうも掴みかねているようで。街に出入りする商人などは、帰路に貴族の何某子爵やらに捕まって色々と聞き出されることがあったらしいのです。そこまでしなくとも、とは思うのですが、商人の皆さんも〈冒険者〉との接し方に悩まれていると。私たち、そんなに怪しく見えているのでしょうか……。
まぁ、キティさんの言うことには、そこまで深刻な溝ができる余地は今のところ無いとおっしゃっていましたし、街にいる皆さんと〈円卓会議〉が打開することでしょう。私はせいぜい、〈冒険者〉の印象が悪くならぬよう気をつける程度が関の山です。
あ、そういえば街道に沸いたモンスターをぶちのめしましたらこんなものを貰いましたので、同封しておきます。綺麗な藤色の鉱石だったので、〈細工師〉に頼んで研磨してもらうといいでしょう。ヨコハマでしばらく過ごしたら、また連絡しますね』
からん、と金色のドアベルが鳴る。まばらに客が座り、喫茶店特有の静けさに包まれた店は、やさしいランプの明かりと飴色のインテリアが古めかしさを感じさせた。シックなデザインの給仕服に身を包んだウェイター達が、しずしずと席の間を歩いている。それだけ見れば、よくある喫茶店なのだが、その店員というのが妙にバリエーションに富んでいる。狼牙族や狐尾族は見当たらないものの、その他の種族は揃っているように見えた。
そう、ここは今朝方早苗が飛び出してきた喫茶店。宣伝というわけではないが、彼女はわざわざこの店まで二人を案内しにきたのだ。
「〈イーハトーブ幻想館〉へようこそ!身内びいきかもしれないけれど、お菓子は美味しいですよ!」
「わぁー、わぁー!なんだかタイムスリップしたみたいな気分です!」
「……!?か、勝手に入っていいのか?」
古き良き喫茶店への憧れを詰め込んだかのような店内はセララの琴線に触れるものだったのか、きらきらと目を輝かせて落ち着きなく辺りを見回している。少年はその態度に隠れて平静な態度に見えなくもないが、発言を聞く限りやはり落ち着きはない。
早苗はカウンターの椅子を引いて席を勧めると、二人が着席したことを確認して自分も座った。そうすればすぐに、道化のメイクじみた文様が体に刻まれた青年がやってくる。……この店の名物従業員と言うべき人物が、注文を取りにきたのだ。端正な顔立ちの青年は、ほんの少しだけ表情に意地悪さを滲ませて翠緑の髪をした少女を見下ろした。
「客引きとは感心でございますね、早苗嬢。今度はいったい何を奢るつもりで店に参られたのでしょうか?」
「ナーグさん、私だって毎回奢ってるわけじゃありません!……まぁ、今日はそのつもりで来ましたけど」
「やっぱりおごるのではないですか。いえ、もちろん構いませんよ?貴女自ら売上に貢献していただいても」
不承不服、といったように言い返す早苗とそれに慣れた様子で返すナーグに、ポカンとした表情を浮かべる二人。その後すぐに「身内びいき」と言った言葉を思いだしたセララの背後から、どこか簡潔な言葉が飛んでくる。
「ナーグ、仕事中、私語厳禁」
「げっ……わかっておりますってーの、きちんとやりますから。ほら、早々に注文を済ませてくださいな」
「あっはー、ナーグちゃんまった怒られてやんのー」
ブルネットの髪をしたエルフの忠告に眉をしかめたナーグは、余計な言葉を飛ばしてきた小柄な男に睨みを効かせながらメニューを差し出した。おっかなびっくりそれを受け取ったセララは、ずらりとならんだ菓子の名前にぱあっと明るい表情を浮かべる。やはり女の子らしく甘いものは好きなようで、特に季節のメニューに興味津々という様子だ。夏に旬の果物をたっぷり使ったパイのどれを選ぶか迷っているのか、人差し指がさ迷っている。
その様子を見ながらも、早苗は戸惑ったままの少年の肩を叩きメニューの一つを指差した。理解が及ばない少年に笑いかけると、ナーグに向かって声をかける。
「ナーグさん、ナッツタルトのティーセットお願いします。あ、セララさんも決まりました?ならオレンジパイのティーセット、私はガトーショコラで!」
「へ、あっ。金なんて持ってないぞ、ボク!」
「誰がお金を取るって言ったの、これはアキバの案内人であるおねーさんのおごりです。存分に味わってくださいね?」
ふふん、という声でも聞こえてきそうに胸を張る早苗に、慌てる少年の態度が呆れを含んで静まった。おそらくは年上ぶった態度が引っかかったのだろうが、その瞳にはありありと胡散臭さに対する警戒というか、「何言ってんだコイツ」という内心が浮かんでいる。どうやら、彼は彼女らのことを年上と思っていなかったようで、そのことに当の早苗もセララも気付いていなかった。
とはいえ、それとこれとは別である。注文してから暫くして出されたケーキに、少年は思わず喉を鳴らす。蜜を纏ってきらりと輝くナッツと、香ばしく焼き上げられたタルト生地はそれだけで食欲を揺さぶった。次いで嗅覚に飛び込んでくるのは、かぐわしい黒薔薇茶の香り。嗜好品と呼べるものを口にできる身分ではなかった少年には、そのどちらもが衝撃的だった。
だがフォークで端を切り分け、口に含むとそれこそ今度は世界が変わった。
(なんだこれ、こんなに甘い食べ物食べたことが──いや、というかこれは甘いで括っていい食べ物じゃない!香ばしくて、さっくりしてあったかい生地からほんのりバターの風味がして……ああもう、ろくに菓子も食べたことのないボクがはっきり言えるわけがないだろ!)
「わっ、このパイ美味しいですねー!パイ生地がさっくさくで、層の間にオレンジのソースが絡んでとってもよく合います」
「ふっふっふー、あねさん特製レシピはおいしいでしょう?黒薔薇茶もいけますよ、ナーグさんが淹れたので“二番目に”ですけど」
途端に始まるナーグと早苗の睨み合いを尻目に、少年は黙々と食べ進める。タルトも黒薔薇茶も、まるで噛み締めるかのように、しかし一定の速度を保って口に運んでいく。黒薔薇茶を飲んだ時だけは口論するナーグに視線を向けるものの、喧嘩が気になるのではなく本当にこの人物の手からこんな味わいのものが生まれるのか不思議で仕方ない、といった視線なのだろう。
方やセララはというと、最初は口論を止めようと二人の間に入っていったものの、途中にブルネットの髪をしたエルフ──エレミアがそれを止め、おずおずとケーキを堪能する作業に戻っていった。パイの隠し味がなんなのか考えているようで、「にゃん太さんならわかるかなぁ……」とぼんやりつぶやく姿は何とも幼く愛らしい。しかし、この場の誰も知らない真実ではあるが、現実の彼女は高校二年生である。
そのように三者三様にこの時間を楽しんでいたところ、今日の朗読が始まった。一段高いステージの上、店の名物である朗読を担当するのは一見幼く見える少女であったが、店の常連たちは彼女がドワーフ故に小さいと知っている。それゆえ、特に奇異の目を向けられることもなく講演は始まった。
カウンターに座っていた三人も、朗読の声に気づくとそちらに視線を向ける。唯一少年だけは、相変わらず一心にタルトを口に運んでいた。
「そろそろグリューの仕事が始まりましたから、静かにしましょうね さ な え 嬢 ?」
「っぐ……わかりましたよー。今日はたしか、『みにくいあひるのこ』でしたね」
「あれ、ここ本の朗読もしているんですね。これってアンデルセン童話、だったかな?」
小さな子特有の高く、よくよく耳に届く声で物語は紡がれる。とある牧場の側にある池に住んでいた、家鴨の一家。そこに生まれた一羽のぶさいくなヒナが、この物語の主人公だ。
「それは田舎の夏のいいお天気の日の事でした。もう黄金色になった小麦や、まだ青い燕麦や、牧場に積み上げられた乾草堆など、みんなきれいな眺めに見える日でした」
話の流れは、おおよそどの〈冒険者〉でも知っているだろう。兄弟とは似ても似つかぬ姿で生まれたヒナが、迫害に苦しんだ末に逃げだし、その果てにようやく自分の正体を知るという筋書きだ。ただ、このヒナに対する迫害の描写というのがなかなか容赦ない。
ヒナは泳ぎも達者で大人しい質であったのも関わらず、図体が大きくみっともない顔をしていると誰にも彼にもいじめられるのだ。庇ってくれるのは母親だけで、突かれ、噛まれ、羽でぶたれるは人間に蹴られるはと散々な目に遭った挙句、堪りかねて住処を出て行くさまは痛々しい。
〈大地人〉も感想としては同じようで、朗読を続けるうちに方々の席からヒナを哀れむような声がこぼれ出す。カウンターに座るセララたちも、どこかハラハラした様子で物語の成り行きを見守っていた。…………ただ一人、表情を無くしていた人物にはまだ気付かない。
「兄弟までこの哀れな子鴨に無慈悲に辛く当たって、『ほんとにみっともない奴、猫にでもとっ捕まった方がいいや』などと、いつも悪態をつくのです。母親さえ、しまいには、ああこんな子なら生まれてこない方がよっぽど幸せだったと思う様になりました」
長い朗読は、やがて終わりが近づく。住処を飛び出したヒナは各地を放浪し、どこにも居つくことができず冬の寒さに凍えて眠りについてしまう。だが、やがて季節が春になりヒナが目を覚ましたあと、状況は一変する。ヒナが、水面に映る自分の姿に気付いたのだ。美しい姿と同じ白鳥の仲間を得て、かつて醜いと罵られたヒナは歓喜する。
シンデレラストーリーとはまた質の違う、過酷な環境からの脱出を描いたこの物語は、若き日のアンデルセンが過ごした苦渋の日々から生まれたとも言われている。けして心地いいとは言えない話の運びであっても聞き入ってしまうのは、この哀れなヒナを幸福にせんとした作者の思いがあるからなのかもしれない。
終盤になったことで、頭の片隅にあったナーサリーの、そんな解釈が早苗の脳裏に浮かんだ。
「『ああ僕はあのみっともない家鴨だった時、実際こんな幸せなんか夢にもおもわなかったなぁ』と叫ぶのでした。……おしまい」
物語の完結を告げる声とともに、静かな拍手がグリューと呼ばれた少女に捧げられた。グリューはその拍手に一礼で応えると、誇らしげにステージから降りていく。するとすぐに詩人風の〈大地人〉が少女に駆け寄ったり、子供に聞かせてやろうと算段を立てている女性がいたりと、いつもの光景が繰り広げられる。
音を立てないよう静かにしていたナーグも、それを見て二杯目の黒薔薇茶を用意し出す。飲み終わった三人分のカップと皿を回収して、そこで彼は気づいた。
少年の手が、まるで何かを堪えるように震えていることに。
「お客様、どうされました」
「……上手くいくわけないだろ」
「はい?」
聞き返そうとしたナーグの声を遮って、カウンターに力一杯拳が叩きつけられる。肉付きの足りない少年の腕ではカウンターに傷ひとつ付かなかったものの、その瞬間店内がしんと静まり返ってしまった。
少年は、胸のうちに燃え盛る黒々とした熱気を吐き出すように、声を震わせて吠えた。
「そんな簡単に、上手くいくわけないだろうが。生まれついての理由で痛めつけられた奴が、いつのまにか幸せになった?そんな簡単に楽になれるなら、誰も苦労しないんだよ」
「えっ、あの、どうしたんですか!?急に怒ったりして…」
「こういう奴はな。生き物扱いもされないで、這いつくばってでも自分で生きていかなきゃいけない。ボクはそれをよく知ってるんだ」
眦を吊り上げ怒りを露にする少年に、驚くセララ。早苗は何かを察して宥めようと手を伸ばすが、それも少年に届くことなく振り払われる。先ほどまでは無かった刺々しい敵意と苛立ちに、少女たちは触れようとすることも敵わなくなってしまう。
騒然とする店内に、身動きの取れる者はいなかった。客も従業員も声に潜んだ悲痛を感じたか、暴徒にするように押さえつけるのを躊躇い手が止まる。凍りついた空気の中、止まらなくなったのか、止められなくなったのか、自傷のようなつぶやきが溢れ続ける。
「お涙頂戴、とは言わないさ。けどな、いくら何でも都合がいいなんてもんじゃない!……ほっといて幸せになるなら、こんなナリしてねぇっての。あんたらだって、事が分かれば手のひらを返す。こんなお人好しなマネをすることなんて──」
「失礼」
だが、唯一人そこに挟み込んだ手がひとつ。カウンターの向こうから、少年の顎を押さえつける冷たい手。覗いた口の中に見えたのは、はっきりと舌に刻まれた蜘蛛のような文様。
「──がっ!?が、く……がっ、あが」
「お客様、ハーフアルヴですね?事情は計りかねますが、店内で騒ぎを起こさぬようお願いいたします」
押さえつけられた少年とハーフアルヴ、という単語に客席の一部からどよめきが起こった。〈セルデシア〉の世界においてハーフアルヴとは時たまヒューマンの血の中に発現する先祖返りのようなものである。〈冒険者〉はともかく、多くの〈大地人〉にとってかつて自分たちが滅ぼした呪わしい一族の名残は迫害の対象であり、ヒューマンであればどんな身分にも発現の可能性があるが故、程度はあれど彼らの生涯は多難であることが当たり前だ。
先ほどの少年の言葉は、時間によってあらゆる問題が解決されたようにも読み取れる“あひるのこ”を自分の境遇と重ねてしまったのだろう。ナーグは睨み付けてくる少年にため息をついて、
「ほら、席についてくださいませんか。そんなもの見慣れていますので、いちいち騒がないでくださいませ」
「……は?」
押さえつけていた手をあっさり離された少年の方が、面食らう。常連客や従業員もそれを騒動の収束と取ったのか、めいめい食事や仕事に戻っていく。先ほどどよめいていた面々も、従業員たちに宥められ静かになった。呆けているのは、少年だけ。セララに至っては心配そうに彼の方を見つめているほどだ。
なぜ、どうしてと問い詰めることもできずに沈黙する少年に、早苗は再び笑いかけた。ぺろりと出された舌には、少年と同じ蜘蛛の文様がくっきりと。
「この街にハーフアルヴの〈冒険者〉が何人居るか知らないでしょう?〈円卓会議〉のお偉いさんにも居るし、器用で魔法適正が高いから結構いるんだよね」
「え、あ……」
「だからそんなツンツンしない!その元気は就職先で発揮してくださいね?」
「そうでございますね、〈ロデリック商会〉あたりに送り込めばよいかと。今、マスターがそちらに手伝いに行っていたはずですから」
「ええっ!?だ、ダメですよ、いきなり〈ロデリック商会〉になんて!興味があったら止められないですけど、あそこは……」
「え、ええ~……?本気で無駄だったのか、ボクの警戒…………」
アキバの街は、今日もまた一人の〈大地人〉を驚かせた。
『追伸:
金井くん、まだ生きていますか?おそらく最近の開発ラッシュでバテていると思うので、帰ってきたら存分にねぎらってあげてください。僕もオキュペテーがあそこまで巨大化すると思っていませんでした。
夏の盛りの頃 ナーサリーより』
こんな感じでナーサリーの現状を手紙で伝えつつ、アキバ残留組の日常を伝えていく予定です。