第3話「取り戻せない切符」
夜の図書館は、いつもより静かだった。
楓は机の上の申込書に目を落とす。今夜の依頼人は、制服姿の少年だった。名前は高橋悠。ページに書かれた願いは、短い文字で、しかし切実だった。
『昨日、電車で逃した約束の時間を取り戻したい――』
楓はペンを握る手を止める。単純な「やり直したい」という願いだが、貸し時間図書館のルールを知っている楓には、代償の重さがすぐに頭をよぎった。
「代償は理解していますか?」
楓の声は、普段より少し低く、慎重だ。悠はうなずき、目を伏せた。
「……小さな記憶で構いません。昨日のことを覚えていないくらいで」
楓は深呼吸をして、白紙の本を開く。ページに悠の名前と願いを書き込むと、図書館の空気が微かにざわめいた。封印が完了する瞬間、悠の顔に微笑みが浮かぶ――だが、それはほんの一瞬だった。
「楓さん……?」
悠が尋ねる。手に握った切符を見ると、確かに昨日の電車に間に合う時間に戻ったはずだ。しかし、彼の表情が、どこかぎこちない。
「どうしたの?」
楓は問いかける。すると悠の口から、意外な言葉が零れた。
「昨日の夕方、母さんに言われたことを、忘れてしまった……」
貸し時間は、ただの“やり直し”ではない。代償として、彼の大切な記憶の一部が書き換えられていたのだ。悠はその瞬間、昨日の後悔を取り戻した代わりに、母親の言葉という小さな温もりを失った。
楓の胸が締め付けられる。
時間を貸すことは、人の心に触れること。その触れ方を間違えれば、取り返しのつかない代償を生む。自分の失われた一日も、きっとそんな代償とともに消えたのかもしれない――。
「……わかった。大丈夫、悠くん。あなたが悲しまないように、私も一緒に考えるから」
楓は白紙の本をそっと閉じる。ページの波紋は、棚の奥で微かに揺れた。あの本が、また自分の消えた一日を示唆している。
扉の外で夜風が街灯を揺らす。楓はペンを握り直し、次の願いを待つ。
貸した時間は戻せない。しかし、誰かの未来を守るために、今日も一頁だけ、慎重に恋と後悔を返す――。




