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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

滴り落ちるは君の蜜

作者: きゅーび

 窓を揺らす室外機の騒音。

 冷房では寒すぎたし、ドライでは寝苦しい。

 時計を見れば、時刻は夜中の二時を回っている。

 ぽたぽたとどこかで水の落ちる音がするのは、冷却水が漏れだしているのだろうか。

 僕は溜息をはいて寝返りをうつ。

 

 「──ごめんね、カズ君。私ね、もうお母さんでいるのが疲れちゃったの」


 瞼を閉じれば、まるでそこに映写機があるかのように何度でも再生されるそのシーン。

 気だるげに首を動かす扇風機と、氷が溶けて薄くなったカルピス。

 「大事な話があるからそこに座って」なんて言われた時には、ろくなことが起こらない。


 お母さんでいるのが疲れちゃったの。


 それはまるで何度も練習したセリフのようで。

 実際に彼女は、自分が主役の舞台にすっかり酔いしれていた。

 じゃあ目の前にいるのは誰なんだろう。

 実のところ、僕だってうすうす勘づいていた。

 嬉しそうにマニキュアを塗る仕草、いつの間にか香水をつけるようになって、服だって華やかになっていった。


 「お母さんは自由に生きて幸せになるから、カズ君も幸せになってね」


 にっこりと笑う唇の鮮やかな口紅が、やけに気持ち悪かった。

 誰だコイツ、と僕は思う。

 母親だった何か。そこにいるのは、母親の仮面を被った見知らぬ誰かだった。

 見慣れた筈のほくろも、少し離れがちな目も、すべてに違和感を覚えて、僕は何も言わずに逃げ出した。

 誰も望んでない思い出の再上映はいつだってそこで終わりを告げる。

 この現象はまったく理にかなっていない、くだらない感傷にまみれている。


 「幸せになんかなってんじゃねーよ」


 タオルケットに潜りこんで、僕は暗闇に呪詛を吐く。

 ぽたぽたと垂れる水音は、それでもずっと聞こえていた。




 ***




 リビングとキッチン、寝室までがすべて繋がった六畳ワンルーム。

 築40年を越えたアパートの朝は他人の生活音で溢れている。

 壁越しでも聞こえるアラームの音、途切れて聞こえるニュース番組のアナウンサーの声。

 慌ただしく階段を駆け下りる音、少し間をおいて聞こえるバイクのエンジン音。


 僕らは同居人のようでいて、その実、お互いの顔も知らない不可視の共同体だ。


 僕は歯を磨きながらしつこい寝ぐせを直そうとして、結局それを諦める。

 カズ君の髪はパパ似なのね、──だなんて。

 ふいに蘇る甘ったるい声を振り払う。


 「しばらく一人暮らしをしたい」

 

 父さんにそう切り出した時はてっきり反対されるだろうと覚悟していた。

 だってまだ僕は高校生で、生活力なんてほとんどない。

 だが父さんはいつも通り無感情な顔で頷いた。

 離婚の手続きの時もそうだった。

 一度として声を荒げる事もなく、淡々と処理を済ませて、その間もいつも通りの日常を過ごしていた。


 「父さんと母さん、どっちに着いて来たいんだ?」


 いつかそう聞かれるのを僕は恐れていたけれど、結局聞かれないままだった。

 母だった人の新しい生活には、僕の存在はただ邪魔なだけだった。

 お陰で僕は、すっかり自分のことを見失った。

 だから、家族の思い出が今も染みついたあの家で、何事もなく過ごすなんて無理だった。


 幸い父は優秀なプログラマーで、僕が一人暮らしを始めても生活に困ることにはならなかった。

 せめてアパートは出来るだけ安いところを選んだけれど、その対価はなかなかに高くついた。

 一軒家に慣れた僕には、他人の生活音や、効き目の悪いクーラー、狭いユニットバスもすべて苦痛の種だった。

 それでも僕には、母の匂いが残るあの家にいるよりは、遥かにましに思えたのだ。


 「行ってきます」


 誰も聞いてはいないのに、鏡を睨みつけて声に出す。

 癖の強い黒髪、懐かない猫みたいと言われた生意気そうな吊り目。

 ああ、確かにこんな子供は可愛くないだろうなと納得する。

 溜息をはいて玄関に向かい、スニーカーを引っかける。

 ドアノブに手をかけたところで、ぽつりっと頬に雨粒が落ちてきた。


 ──いや、ここはまだ室内だ。


 上を見上げればまばらに染みが付いた天井から、ぽつりと水が滴ってくる。

 何とかしなくちゃと思うものの、すぐに出なくては一限目の授業に遅刻する。

 水漏れに対応する時間をいかに短く見積もっても、間に合わないことは明白だ。

 「ああ、もう」と舌打ちをし、苛立ちを籠めてドアを締める。


 外に出ればどっと押し寄せるのは、初夏とは思えないほどの熱気だった。

 息がつまる。

 一瞬止まりかけた足を励まして、駅に向かって駆け出した。




 ***




 夕刻──。

 学校を追えて帰ってきた僕は204号室のドアとにらみ合っていた。


 204号室、すなわち僕の真上の部屋がここだった。

 天井から水漏れがするならば、恐らく原因はこの部屋にあると思ったのだ。

 大家に頼んで調べて貰う手もあった。だが、あの老婆は初めて会った時に「高校生が一人暮らしなんていつまで続くもんかね」とせせら笑った。

 水漏れくらいで泣きついたら、なんと言われるか分からない。

 だから直接訪ねてみたのはいいものの、ドアベルを見つめたまま、かれこれ10分は経っていた。


 下の階のものです。天井から水が漏れているんですが、何か零したりしませんでしたか?


 伝えるべき言葉は無駄なくそつなく考えてある。

 さっきから幾度となく反芻しているのに、どうしてもドアベルを押せないのだ。

 怖い人が住んでいたらどうしよう。でも、いくら怖い人だからって、水漏れを指摘したくらいじゃ怒らないだろう。

 ……いや、やっぱり怒るかもしれない。

 怖い人は何がなくとも四六時中怒っているように思えるのだ。

 彼らは非効率をサガとして生きている。


 諦めよう。

 自分には荷が重い。いや、……違う。

 君子危うきに近寄らず。

 怪我をする可能性と水漏れを天秤にかけた結果、安全を重視しただけだ。


 そう思って踵を返した瞬間に、ガチャリと背後から音がした。

 僕は驚きのあまり飛び上がりかけた。

 そうして、慌てふためいて振り返る。

 はたしてドアの隙間から顔を出したのは、どこか眠たげな目をした20歳くらいの女性だった。


 「あら、……お客さん?」


 その声は鼓膜をくすぐるかのようだった。

 首を傾げる仕草は気だるげで、襟ぐりが大きく開いた胸元からはふわりっと甘く、どこかねっとりとまとわりつくような香りが溢れ出す。

 僕は絶句したままに固まった。

 その香りも、白く眩しい胸元も、僕の思考を一時的に停止させるには十分すぎるほどだったのだ。


 オーバーサイズのTシャツに半ズボンのスタイル。

 それは決して女性らしすぎる訳ではない。

 だが半ズボンから見える素足はやけになまめかしく思えたし、シャワーを浴びた後の生乾きの髪を緩くまとめ上げた姿は、彼女の私生活がにじみ出ていて、どうにも目が離せなかった。

 なによりも、だぼだぼのTシャツから覗く胸元はあまりにも蠱惑的だった。


 「あ、ああの、ええと……」


 何故だか喉が乾いて、うまく言葉が出て来ない。

 あんなに頭の中で繰り返し練習した筈なのに、最初の一文字すら出なかった。


 僕は唯識論なんて信じていない。

 この現実世界で、脳内のイメージが現実を作るなんて話は、ただの宗教的妄言だと思っていた。

 だというのに、越したばかりのアパートの二階に、色っぽくて気だるげな、妙に目を引く美人のお姉さんが住んでいたという一点において、数学的な確率論から合理的な説明を導き出せる自信は、──ない。


 「君、知ってるよ。……104号室の神谷少年、だよね……?」


 問われて僕は赤べこみたいに頷いた。

 名前を知られていた。それだけの事なのに、何故か頬が熱くなる。

 少年、の部分には引っかかりを覚えるが、訂正を求める余裕はない。

 脈拍も上昇、心肺が異常を訴える。


 「はじめまして。204号室の長内です」

 「ああ、は、はい」


 目のやり場に困って俯く僕に、長内さんはクスクスと笑みを転がした。


 「……今日、暑いね。良かったら冷たいお茶でも飲んでいかない?」

 「え?」


 まさかの誘いに戸惑う僕をそっちのけで、長内さんはドアを開け放ったまま部屋の中に戻っていく。


 「麦茶がいい? 緑茶もあるけど。ああ、コーラもあったかな」


 冷蔵庫を覗き込む長内さんに、僕は固まったまま動けない。

 頭の中にあるはずの計算機は、打ち込むべき数字を見失い、エラーの文字さえ出なかった。

 完全なるフリーズだ。

 長内さんは顔をあげると、ふふっと悪戯めいて微笑んだ。


 「早く入って。ドア、開けっ放しじゃ暑くなって溶けちゃう」

 「は、……はい、お邪魔、します……」


 僕はもう半ばパニックで、何をしに来たかほとんど忘れかけていた。

 ただなんとなく誰かに見とがめられては不味い気がして、慌てて室内に入り込んで戸を閉める。


 中に入ると部屋の中は驚くほどに冷えていた。

 汗が一気に冷めていくほどで、寒暖差で肌に鳥肌がたっていく。

 それなのに、出された麦茶にも氷がぷかぷかと浮いていた。


 「あ、あの、寒くないんですか?」


 僕が尋ねると長内さんは首を傾げた。

 そうとうの暑がりなのだろうか。実際これだけ冷えた部屋で半袖半ズボンなのだ。

 暑さに弱いというよりも、寒さに強過ぎるのではないかと思えるほどだ。


 「それで、少年は私になんの用だったのかな?」


 問われてようやく僕は本来の目的を思い出した。

 しどろもどろに天井からの水漏れを告げると、長内さんは困り顔になる。


 「そっかー。それは困ったわね。でもこのアパートって古いから、あちこちの配管が壊れてたりしてね。思いもよらないところから染みだしてることもあるんだよね」

 「そう、……ですか」


 実際、室内を見回してみても水漏れの原因になりそうなものは見当たらない。

 そもそも一階に染みだすほどの水漏れをしていたら、長内さんだって慌てるだろう。


 僕は結局、なんの目的も果たせないまま、麦茶を勢いよく飲み干して長内さんの部屋を後にした。

 だってあの部屋にあまり長くお邪魔していたら、僕はどうにかなってしまいそうだった。


 「勘弁してくれよ」


 引っ越し先のアパートで綺麗なお姉さんと知り合ったなんて、人づてに聞いたら羨ましい限りの話だけれども。

 短パン姿の長内さんはあまりにも刺激が強すぎた。

 お陰で僕は部屋に戻って、眠る時間になった頃まで心臓が跳ねたままだった。




 ***




 ぴちゃん、ぽちゃん、と水の滴り落ちる音がする。

 決して大きな音ではない。室外機の音の方がよほどうるさい筈なのに、その音はやけに気になった。

 キッチンも風呂場もしっかりと蛇口がしまっていることは確認した。

 だのに、どこからともなく、ぴちゃん、ぽちゃんと音がする。


 僕は溜息をはいてタオルケットから抜け出した。

 玄関の水漏れには、ひとまず洗面器を置いて対処した。

 だが今聞こえてくるこの音は、玄関からではなさそうだ。

 起き上がって照明のスイッチをオンにする。普段なら数度瞬いて灯るはずの照明は、なぜか反応を示さない。

 仕方ない。

 僕はキッチンへ向かって歩き出す。

 数歩も進まないうちに、裸足の指先が浅い水たまりを踏みつけた。


 「ああ、……もう」


 水たまりが増えている。

 天井を見上げてみたものの、薄暗い室内ではまるでノイズがかかった画面のように、ほとんど何も分からない。

 洗面器はもうないから、仕方なく鍋を置いて急場をしのぐことにする。

 明日になったら大家に連絡をしてみよう。

 おざなりに雑巾で床をふき、その上に鍋を置いて水滴の落下地点に調整する。


 ──寒いな。


 脈絡もなくふいにそう思った。

 いや、実際に寒かった。水に濡れた足先はひどく冷たくなっていたし、全身もいつの間にか冷えている。

 クーラーを利かせすぎただろうか。

 いや、違う。

 今夜はそこまで寝苦しい夜ではなかったから、クーラーは止めて寝た筈だ。


 ぱしゃん。


 ふいに響いた水音は、水滴が落ちるものとは異なった。

 まるで魚が跳ねたような、質量を伴った重い音。


 ぱしゃん。


 それはバスルームから聞こえてくる。

 恐る恐る足を踏み出す。吐く息は白く濁るほど部屋の空気は冷えていた。

 キッチンの電気もやはり反応しなかった。カチ、カチとスイッチを切り替える音だけがむなしく響く。

 バスルームの戸は曇りガラスだが、暗すぎて中の様子は窺えない。

 僅かに届くのは表の路地にある街灯の光で、暗闇の中にわずかな輪郭を映し出す。


 もう一歩踏み出したところで、先ほどより大きな水たまりを踏みつけた。

  やけにぬめる。水ではない。ぬるりとした粘液が足の裏にまとわりついてくる。

 鼻を刺すのは、甘ったるく腐った果実と、生臭さが入り混じった匂い。

 それはゆっくりとバスルームの戸の隙間から溢れ出しているようだった。

 だが、……どうして。

 部屋にはユニットバスがついていたが、僕はシャワーを浴びる程度で浴槽は使っていなかった。

 だから水が溢れ出す筈がない。

 それに音は、魚が跳ねるようなその音は、──。


 ざばん。


 先ほどより大きな水音は、確かに曇りガラス越しに聞こえてきた。

 なぜ、何が……?

 その瞬間、まるで僕の疑問に答えるように、ベタリと何かが曇りガラスに張り付いた。


 手だ。


 理解した瞬間、大きく息を飲み込んだ。

 一歩後ろに下がろうとして足元が滑る。

 明らかに水ではない。粘度の高い液体にバランスを保てず僕は無様に転がった。

 ベタリと、もう一方の手も曇りガラスに張り付いた。

 そして、顔が。

 白くぼやけた輪郭がゆっくりとガラスに近づいてくる。


 瞬間、僕はあらんかぎりの気力を振り絞って悲鳴をあげた。

 その悲鳴で、僕は勢いよく飛び起きる。

 窓から差し込む朝の光と、少しばかり乱れたタオルケット。

 なんの変哲もない日常が、そこにあるのがしばらく信じられなかった。


 「……夢、……か」


 自分自身を納得させるように呟いた。

 けれどあの甘くどろどろと濁った腐敗臭は、まだ僕に縋りつくようにして残っていた。




 ***




 風呂場にはなんの異変も見当たらなかった。つまりあれは、すべて悪夢の産物だった。

 腑に落ちない思いを抱えながらも授業を終え、ようやく迎えた放課後。

 覚悟を決めて大家に電話をしたものの、何度コールしてもまったく相手は出なかった。

 不思議に思って今度は不動産屋に尋ねてみると、なんと大家は七月盆でしばらく留守にしていると言う。


 「いやぁ、申し訳ないですけど、我々も仲介が仕事ですので、水漏れなどトラブルは大家さんにご相談頂けますかね」


 悪びれた風もなく、不動産屋にも切り捨てられて僕は大きくため息を吐き出した。

 数日だけ実家に戻ろうか。

 そんな考えが浮かんだが、すぐさま首を振って追い払う。

 たかが水漏れ程度のことで、実家に逃げ帰るなんて情けないにもほどがある。

 せめて三か月、出来れば半年、それくらいは意地を見せるべきだろう。

 うなだれながら帰路についた僕を出迎えてくれたのは、二階から降ってくる甘く間延びした声だった。


 「おかえり~、104号室の神谷少年」


 ドアに伸ばしていた手を引っ込めて、数歩下がって二階を見上げる。

 錆びた鉄柵からするりとのびた白い手、その指先には大分短くなった煙草がゆらゆらと揺れていた。

 声の主は長内さんだ。今日もまた昨日とほとんど変わらない、Tシャツと短パン姿だった。


 「暑いの、嫌いなんじゃなかったんですか?」

 「嫌いだよー。でも、部屋で吸うとあとが面倒なんだもん。神谷少年も、吸いたくなったら外で吸いなよ」

 「興味ないです」


 何故かむすっとした声が出てしまったのは、長内さんに煙草が似合ってないように思えたからだ。

 それは僕が長内さんを理想化している証拠で、それが恥ずかしくて突き放すような声になる。

 実際、煙草は健康によくないのだ。喫煙者は非喫煙者にくらべて発がんのリスクが増加する。

 確率的に見て、煙草は避けるべき存在だ。


 「水漏れ、どうなったの?」


 それでも長内さんは、まったく気にした風もなくのんきに話かけてくる。


 「大家さんに連絡したけど、お盆で留守で、不動産屋も大家が帰ってくるまで待てって」

 「そっかー。困ったね。それじゃあ、お姉さんの部屋で寝る?」

 「寝ません!!!!」


 冗談でも心臓に悪かった。長内さんと話していると自分が思春期のガキなのだと自覚する。

 わざとらしく溜息をはいて改めてドアに手を伸ばしたところで、郵便受けに白い紙がねじ込まれているのに気が付いた。

 なんだこれ。

 紙を抜き出してひろげてみる。

 

 『長内千夏に近づくな』


 そこには赤いマジックで殴りつけるかのように乱雑な文字が書かれていた。




 ***




 数年間、ずっとストーカーから逃げてるの。


 長内さんは事もなげにそう答えた。

 招かれた彼女の部屋は相変わらずクーラーが効きすぎるほどに効いていて、僕は麦茶に氷を入れるのを断った。


 「数年前からって、だったら、その、もっとセキュリティのしっかりしたとこに住んだ方がいいんじゃ」

 「無駄よ。どうせすぐに追いついてくるもの。何度も引っ越しをしてると、段々住めるところが少なくなるの」

 「実家に、戻るとか」


 僕が言うと、長内さんはからかうように目を細める。

 こてんっと首を倒す仕草は、きまぐれに甘える時の猫みたいだ。


 「実家に帰りたくないのは、君の専売特許じゃないんだよ」

 「それじゃあ警察に相談するとかは?」


 問いかけると、長内さんはなみなみと注がれたコーラのグラスを傾ける。


 「……アイツ、お堅い職業だから。学校の先生してて。もうじき教頭になるとかで。みんなから信頼されてるの」

 「詳しいんですね」

 「うん」


 長内さんはなぜか柔らかく微笑んだ。


 「父親……だから」

 「え?」

 「言ったでしょ。家に帰りたくないのは君の専売特許じゃないって」


 僕はしばらくの間、長内さんが何を言っているのか分からなかった。

 彼女の言葉が、何を意味しているのか理解できない。いや、理解を拒んでいる。

 長内さんはコーラを飲むふりをしてグラスの縁を噛んでいる。カチカチと響く音が、彼女の言葉に嘘がないことを告げていた。

 僕はゴクリと息を飲んで口を開く。


 「それで、どうするんですか?」

 「どうしようもないよ。また新しいところを探さなくちゃ」

 「でも、……」

 「それじゃあ君が守ってくれる?」


 その瞬間、長内さんの目はまるで深い海を覗き込んだかのように暗かった。

 僕は喉元まででかかった答えを、吐き出せない。

 助けたいという理想論と、自分に出来ることを数値化して、乖離した現実を突きつけられる。


 「ごめん。意地悪言っちゃったね」


 長内さんはすぐに笑って見せた。

 そこに、ほんの僅かに、でも確かに存在した失望感を、僕は不運にも嗅ぎ取った。


 「あの、……」


 言いかけたところで、ふいにバシっと何かがぶつかる音がした。

 バシ、バシと小さな何かが柔らかな壁にぶつかる連続した音。

 なんだろうか。

 首を傾げた瞬間に、長内さんが立ち上がった。


 「もう帰って。私も引っ越しの準備しないといけないし」

 「でも、……その、……」


 戸惑いながら立ち上がると、長内さんは僕の肩を優しくつかんで玄関まで押していく。

 結局、僕は気の利いたセリフ一つも言えないまま、彼女の部屋から追い出された。

 体には、甘く湿った彼女の匂いがまとわりついていた。

 それはまるで、忘れろと言われても思い出してしまう記憶のように、服の中までべったりと入り込んでいた。




 ***



 

 ぴちゃん、ぽちょん、ぽたぽたぽた。


 まるで雨が降っているような音がする。

 音は浅い眠りの中にまで入り込んできて、僕はまるで雨にうたれながら眠っているかのようだった。


 ぴちゃん……ぽちょん……。ぽた、ぽた、ぽたぽたぽた……。


 雨粒に甘く湿った匂いが混じる。

 僕は息苦しさに寝返りをうつ。


 「あの子、全然可愛くないのよ。お父さんとそっくり。ご飯を作ってあげても当たり前。ありがとうも言わないの」


 いつだったか。たまたま授業が早く終わって帰宅した時。

 母さんが電話で話している声が聞こえてきた。


 「お母さんだから感謝しなくても当たり前。何もかもやってあげても当たり前。そうやって私を”お母さん”って名前の家政婦にするの。あいつらはいつまでも男の子なのに、私からは女である事を取り上げるの」


 母さんは酔っているみたいだった。

 でも僕はきっと、あの言葉を酔っぱらいの戯言だと切り捨てるべきじゃなかったのだ。

 僕は信じていた。母さんが”お母さん”のままでいてくれると。

 僕はあの人を深く傷つけたのだろうか。


 ──お母さんでいるのが疲れちゃったの。


 あの時の母さんの目も、深海を覗き込んでしまったかのようだった。

 深く、絶望に濁っていて底の見えない。


 きっと僕は、僕にできることをするべきだった。

 斜に構えて、感情任せの言動だと呆れた溜息を吐く前に、ちゃんと向き合うべきだった。

 この手が、まだ届くうちに。


 ごめんなさい。

 言わなくても伝わると思っていた。

 戻ってきてくれると思っていた。


 「──ごめんなさい……!」


 掠れた自分の声で目が覚めた。

 ぴちゃぴちゃ、ぱたぱたぱたと水音がそこかしこで響いている。


 「なんだ、これ……」


 気が付けばタオルケットがびしょ濡れになっていた。

 暗くてはっきりとは見えないが、室内のいたるところで雨粒のようの水滴が降っている。

 それに甘い。噎せ返るような甘い匂いに満ちている。


 「冗談、だろ?」


 一体、何が起こっているのか。

 その時、僕の耳にくぐもった音が響いた。

 何かが倒れる音。そして、断続的に響く鈍い音。

 心音がリズムを乱しはじめる。

 音は二階から聞こえてくる。

 また、低く重い音。何かを引きずるような音。

 異質な音だ。不快で、……それは暴力に満ちた音だ。


 行かなくちゃ。

 行ってどうする。


 二つの相反する気持ちが噴き出した。

 行くな、と理性が告げている。

 警察に連絡をして、それから、……それから、──駄目だ、それじゃ間に合わない!


 僕は恐怖で泣きそうになりながらベッドから飛び出し、駆けだした。

 ヒーローなんて向いてない。そんなのは非効率的で馬鹿げた行為で、僕なんかには似合わない。

 でも僕が行かなくちゃ。今度こそ、この手が届くうちに。


 体をぶつけるようにドアを開けて、階段を一段飛ばしで駆け上がる。

 そのまま勢いに任せて204号室に飛び込んだ。

 予想に反して、そこには誰もいなかった。

 相変わらず凍り付きそうなほどに冷えた部屋。

 レースのカーテン越しの街灯の光が、部屋をぼんやりと照らし出す。

 何もない。

 誰もいない。

 長内さんの姿は無かったし、そこに暴力の跡は見当たらない。


 けれど、僕の耳には不可思議な音が届いていた。

 小さな何かがぶつかる音。それは無数で、幾度も幾度もぶつかっている。

 それに、匂い。

 そこは僕の部屋よりも遥かに濃厚な匂いで満たされていた。

 果実が腐っていくような甘ったるい匂いの中に、胃の粘膜を引っかくような不快な刺激臭が混ざっている。


 それはバスルームからだった。

 そっとドアに近づいていけば、バシバシとぶつかる音はますます大きくなっていく。

 曇りガラスに弾けるようにぶつかって、また飛び回ってぶつかるのを繰り返す。幾度もぶつかり合う音に、低くうなるような羽音が混ざりあう。

 曇りガラスがどす黒い何かで覆われていた。

 それは動き、羽ばたき、蠢いている。


 ──蠅だ。

 その正体に気が付いた瞬間、喉元に胃液がせりあがる。

 なぜ、蠅がこんなに沢山。

 長内さんは?

 彼女はどこにいったんだ?


 警察に。とにかく警察に知らせるんだ。

 ポケットに手を突っ込んだところで、スマートフォンを部屋に忘れてきたことに気が付いた。

 慌てて振り返ったその瞬間、ガツンと重い衝撃とともに側頭部に火花が飛び散った。


 床が僕に迫ってくる。いや、違う、僕が床に倒れこんで、……。

 もうろうとする意識の中、バットを持った男のシルエットが揺らいでいる。


 「だから、警告しただろう。私は警告した。千夏に近づくなと言った筈だ。あれは私の娘だ。私だけのものだ!」


 何が起こったのか分からない。

 男のたわごとが近づいたり遠ざかったりしながら反響する。

 指を動かそうにも、うまく体が動かない。

 男はうろうろと部屋の中を歩いていた。


 まずい、早く逃げなくちゃ。そうしないときっと僕は殺される。

 でもそれは、酷く馬鹿げたことにも思えてしまう。こんなところで死ぬなんて、そんな話があるもんか。

 そんな筈はないだろう? だって僕はまだ十代で、ここにはたまたま居合わせただけなのだ。


 何とかして逃げようと、腕に力を籠めて床を這う。

 男はすぐにそれに気付くと再びバットを振り上げた。


 「ああ、畜生。お前が悪いんだ。言うことを聞かないお前が悪い。これは教育だ。教育なんだ!」


 ふと、男が動きを止めた。

 キィイイイっと軋む音が響いて、バスルームから腐って濁った水が溢れ出す。

 噎せ返るほどの異臭に胃液が逆流し、鼻の奥が痛くなる。


 びじゃり、ぐじゃり、と。

 溶けだし湿った足音がした。

 一歩進むごとに何かが崩れ出すような不吉な音。

 あまりの刺激臭で涙が勝手に溢れ出し、僕は目を開けていることすら叶わない。

 ただ近づいてくる足音と、男の悲鳴を聞きながら、祈ることしか出来なかった。

 男は無我夢中で部屋から飛び出すと、そのまま鉄柵に衝突し、勢いを殺しきれずに柵を乗り越えて落下する。

 落下の音は、僕の耳には届かなかった。


 「……来てくれて嬉しかったよ。神谷少年」


 僕の耳に届いたのは、長内さんの優しく頭を撫でてくれるような声だった。




 ***



 

 【アパートの浴槽から遺体 逃走した男は転落死】


 東京都内のアパートで、女性の遺体が見つかった。

 警視庁によると、発見されたのは集合住宅のバスタブで、遺体は死後約1週間が経過しているとみられる。

 遺体の処理に訪れたとされる男性が住民と鉢合わせし、そのまま現場から逃走。

 建物の2階から転落し、搬送先の病院で死亡が確認された。

 亡くなった男性と遺体との関係性や、事件の詳しい経緯について、警察は現在も調査を進めている。




 ……ネットニュースの記事は無機質だ。

 そこで人間の死は一つの記号のように扱われる。

 僕が体験した長内さんとのあの不思議な思い出が入り込む余地はどこにもない。


 以前の僕ならばそれが正しいと思っていた。死も、事件も、数字で割り切れて説明がつく。

 今の僕は、あの時の出来事をどう考えればいいか分からずにいる。


 あの後、僕はアパートの部屋を引き払って実家に戻ることにした。

 あまりにも大騒ぎになりすぎたし、僕自身もあの部屋で何事もなかったふりをして暮らしていくなんて出来なかった。


 実家に戻っても、父さんは相変わらずほとんど無表情のままだった。

 けれど僕の好物だったニラ玉炒めを作ってくれた。

 ニラはあちこち焦げていたし、卵は母さんが作ってくれたようなふわふわじゃなく、固くてぼそぼそになっていた。

 それでも僕は「美味しかったよ、ありがとう」と口に出す。

 父さんは少しだけ驚いた顔をして、それから珍しく嬉しそうに微笑んだ。



 きっと僕は夏が訪れるたび、長内さんのことを何度でも思い出すだろう。

 気だるげな目と包み込むような優しい声。

 あの甘く腐った果実の匂いは、まだ僕にじっとりと染みついたまま残っている。

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