2.
雨が続くと、少しだけ世界が暗く感じる。晴れ間が恋しいけれど、こんな空のほうが今の私には合っている気がした。
今朝、エライザの結婚と妊娠が報告された。
彼女が働き始めて1年と少し。せっかく仕事も覚えてきたタイミングで、という微妙な空気すら、彼女を前にすると、祝福の空気に変換されてしまうのが不思議だ。
私だけ取り残されたような気分になっているのは、一体どうしてだろう。
暑さが本格化する頃、退職するエライザへのプレゼントの準備が始まった。
「イリーナさん、エライザって甘いもの好きだったよね? 」
「この店の焼き菓子、どうかなって思ってて」
先輩がそう声をかけてきた。私は「いいと思います」と笑い、さすが先輩ですね、と続ける。
あくまで自然に、いつものように。
羨ましいと思った瞬間、私はもう負けていたのかもしれない。
何に勝って何に負けたのかは、私にもわからないのだが、”負けた”と感じたのだ。顔には出さなかったし、仕事も手は抜かなかった。むしろ、業務で完璧を目指すことで自分の価値を保とうとした。
心の奥底でぐるぐると回り続ける感情は、静かに、確実に、じわじわと私を蝕んでいく。
もし私がこの職場からいなくなるとき、果たしてこんなふうに送り出してくれるだろうか。
誰かの記憶に、ちゃんと残るだろうか。
「あなたと働けてよかった」と、思われるだろうか。
心の奥で、どろりとしたものが溜まっていく感覚。
日常繰り返して、少しずつ、少しずつ、感情を押しつぶしていく。
顔をしかめないように。声を荒げないように。冷たくならないように。
私は誰よりも“大人”であろうとしていた。
部屋でひとりになると、巷で人気の“異世界転生”を題材にした小説ばかりを読み漁ってしまう。それは、戻れない時間にすがるような行為なのかもしれない。夢を見ていたいだけなのかもしれない。
誰にも言いたくない。
言葉にしたら、現実を受け入れなければならない。誰かを羨んで、過去を悔やんでいる愚かな私を。
こんな醜くて、卑しい自分の感情は、共感されるはずがない。
明日は仕事だというのに、疲れを感じるほど小説に没頭してしまった。
——今の記憶を持ったまま、過去に戻れたらいいのに。
誰もいない自分の部屋で、そう呟く。
ふと、頭上から鐘の音が鳴った気がした。
「……は?」
突如として、視界は暗転する。
目にしたのは、見覚えのある天井。
ただ、何かが違う。
——いや、すべてが違っていた。
ベッドは昔捨てたはずのソファベッド、シーツの柄も昔のもの。起き上がって辺りを見渡せば、古びたテーブルセット。よく見れば、全体的に物が少ない。
「……夢?」
呟いた声は、部屋の静けさに吸い込まれた。
《××年3月19日》
毎日めくることを楽しみにしている365日カレンダーが、憧れだった職場に採用されることが決まった日を示していた。
今でも鮮やかに思い出せるほど、嬉しくてたまらなかった、懐かしいあの日。
慌てて鏡を見てみると、映る顔は今よりずっと若くて、頬がすっきりしている。肌にも張りがあるし、目の下のクマもない。
時間が——巻き戻ったの?
もし私が、とシミュレーションを繰り返していたのは“異世界転生”だったんだけどなあ。
ありえない、とぼやきながら、私はやり直しのチャンスを手に入れたのだ。