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エッセイ

キリスト教と謙遜

作者: 相浦アキラ

 ドストエフスキーを通してキリスト教に興味を持つようになったので、YouTubeでキリスト教徒の方の解説動画を見てみました。しかし多くの方が神を信じたらお得ですよーみたいな論法で語るので「なんか違うなあ」となりました。彼らは神にへりくだっているようで結局傲慢でしかないという印象を受けてしまいました。死後の幸福の為に神に現世の身を捧げるというと聞こえはいいですが、結局人間は現世の感覚でしか死後を想像する事はできない以上、あの世の幸福を追求することも現世の幸福を追求する事も本質的に大きな違いはないように思います。そして自分の幸福の為に神を信じるというのは、神を自分の幸福の為に利用している不遜な態度であり、結局自分を中心に物事を考えてしまっているという事ではないでしょうか。


 考え出すとキリスト教が増々わからなくなってきたので、大昔に道端で配布されていたポケット版新約聖書を取り出して一通り読んでみたのですが、結局良く分かりませんでした。ニーチェも驚愕している事ですが、神が人類の罪を赦す為に罪のない自分の息子を生贄にするというのは、全く常軌を逸した行いです。有体に言ってあまりにも都合が良過ぎます。そもそもキリストの自己犠牲が聖書の核で、自己犠牲が人間が模範とすべき生き方だとするなら、人は「私達の罪が赦されなくてもいいので、自分を犠牲にするのは止めてください」と声をあげ、キリストの自己犠牲に対して自己犠牲で返すべきではないかという気もします。しかしキリスト者の主流派はキリストの自己犠牲には全く反対していませんし、「キリストは私達の為に死んでくださった」というスタンスが殆どで、まさしくそういった人間の独善的な「救われたい」という欲望こそがイエスを追い詰め死に追いやってしまったのではないかと考えると悍ましい印象も受けました。


 それからずっと「何でこんな宗教が世界的に流行ってるんだろうか」と良く分からないまま放置していたのですが、キェルケゴールの死に至る病を読んでみてやっと分かって来た気がします。死に至る病は実存主義の走りとも言われますが、キリスト教教化の書としての色が強く、神に対しての自己の在り方が主題となっています。デカルトからヘーゲルへと続く近代の流れの中で、西洋思想は神から脱却し人間が主役となる方向に舵を切って行った訳ですが、そういった時代の流れに逆行するようにヘーゲルとは真逆の道を進んだのがキェルケゴールです。彼は絶望を罪であり死に至る病であると断じ、小説の登場人物のディテールを語るように「神に対する絶望」「自己に対する絶望」といった様々な絶望の在り方を取り上げていきます。


 中でも感銘を受けたのが帝王の例えです。日雇い労働者がいきなり現れた帝王に「お前を養子にしたい」と言われたとしたら、日雇い労働者はどう思うでしょうか。例え帝王が本気で彼を養子にしたがっていたとしても「この人は自分をからかっているのだろう」と彼は自分自身に悪意を抱き、帝王の提案を固辞してしまうでしょう。キェルケゴールはキリスト教の教えも同じようなものだと説きます。


『この人間の為に、ほかならぬこの人間の為に神は世に来り、人の子として生れ、苦しみを受け、そして死んだのである、――この受難の神がこの人間に向って、彼に申し出でられている救助を受け入れてくれるようにと乞うている、いなほとんど嘆願しているのである! 実に、もし世に気が変になるほどの何物かがあるとすれば、これこそまさにそれである!』(岩波文庫172pより引用)


 出来すぎた幸福を素直に受け入れるのは難しいものです。そしてこういった躓きの可能性が世界に満ちている事はキリスト教に問題があるのではなく、人間が神に馴れ馴れしく接近し過ぎない為の防衛としての躓きの可能性であり、寧ろキリスト教の高さの証左であるとの事です。


『それを信ずることをあえてする程の謙遜な勇気をもっていない者は誰もそれに躓く。なぜであるか? それは彼にはあまりに高すぎるから。彼はそれを把捉することができないから。彼はそれを受け入れるだけの開かれた気持になることができないから。』(岩波文庫172pより引用)


 謙遜な勇気という言葉から思い至ったのですが、キリスト教の核は自己犠牲にあるのではなく、謙遜にあるのかも知れません。そう考えた方が辻褄が合う感じがします。同じ自己犠牲でも、自分の名を残したいといった欲望の為に行う自己犠牲は真の自己犠牲とは言えません。自己犠牲以前に、人は謙遜を持たなければなりません。神の子であるイエスが人間の姿を取って刑死するというのも自己犠牲である以前に大いなる謙遜であるという事です。そして世界が絶望の可能性に満ちているのも、人に謙遜をもたらす為の神の計らいであるという事です。(奇妙な話ですが、ニーチェもまた謙遜の人であったと考える事もできると思います。ツァラトゥストラは超人の為に没落を選びました)


 またキェルケゴールはキリスト教は信じるべきドグマであり、概念的に把握する事はできないとしています。「~だからキリストを信じた方がいい」といった風にキリスト教を擁護するやり方は、むしろ神を冒涜しているといいます。こういった考え方は神を概念的に証明しようとした中世とは違って近代的な考え方のように思います。


 さて、キェルケゴールは近代人として生まれ近代的な思考を持ちながら、何故キリスト教に向かったのでしょうか。何故キリスト教を信じるべきだと言うドグマを持つに至ったのでしょうか。それはキェルケゴール自身の近代人としての自我があまりにも巨大すぎた為ではないかと思います。ドストエフスキーが描いたように、近代がもたらした巨大すぎる自我はやがて破滅し絶望に至ります。いくら自我が巨大になろうとも、世界から見て人間存在はちっぽけに過ぎないからです。この矛盾を徹底的に突き詰めて耐えられなくなった時、必然的に自我は謙遜に向かわざるを得ないという事でしょう。自我を絶対化して世界を見ると矛盾ばかりですが、謙遜を軸に世界を見れば調和が見えてきます。信じるから救われるのではなく、自我の矛盾、世界の矛盾に突き当たり、絶望に突き当たり、すべてを弁証法的に止揚する事で自己を取り戻し、謙遜に到達すべきであるという事です。


 私としても、直感的には絶対的としか言いようがない筈の自我が世界の一部にしか過ぎないという矛盾には思う所があります。自分は神だと思い上がる事も、自分は世界の一部に過ぎないと心の底から認める事もできません。神を信じる事もできませんし、ヘーゲルやニーチェが掲げたような現実世界の理想に向かって生きる事もできません。これは何かの努力でどうにかなる事でもなく、私自身の限界であり、時代の限界でもあるでしょう。しかしそれでも、私は世界の一部に過ぎないはずだという謙遜を軸にすれば見えてくる事があるのではないかと思います。死に向かって老いていく自己も、巨大な自我に逆らう現実の不条理も絶望も、自我を戒める為の意味がある。そしてキリストが刑死したように、死によって自我の謙遜は完成する。そういう風に考える事ができるかもしれません。




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