潜まる
▼ホラーにありがちなテーマで短編。短いので是非読んで下さい。
「うん、聞いてるよ」
タバコに火をつけて彼女の愚痴を流しながら、気持ちはこの後のベッドでの行為のことだけだろうか。
「そっか残念だったね」
微かなテレビの音と電車の騒音に紛れて、なかなか聞こえない彼女の声。
『……でも……』
「うん、いいよ」
一瞬だけ聞こえた柔らかな声に、ベランダに身を乗りだし耳をそばだてるも、それ以上は何を言っているのかわからない。
彼氏は何かを承諾すると、ガラガラと窓をしめ、部屋に戻る。
残るのは電車の騒音と、虚しさだけ。
音をたてないようにそっとソファーに戻る。
また男がタバコを吸いに窓を開けベランダに出るまで待つだけだ。
週末の夜に訪れる男と隣の女性の窓越しの会話。微かに聞こえる女性の声をベランダ越しに聞くために、いつでも窓は全開にあけたまま。
一生独身を覚悟して購入した分譲マンションは思っていた以上に快適だった。
六畳ワンルームと狭いが、その分設備は充実している。
スーパーや飲食店の充実した駅から、徒歩数分というのもかなりの魅力だ。
線路から近いのが難点だが、その分防音設備は完璧で、二重窓を閉めてしまえば隣の部屋の物音どころか、外の音もほとんど聞こえない。
アダルトビデオの鑑賞が唯一の趣味の自分としては、ヘッドフォンなしで見れるのが有難かった。
ある日隣に若い女性が引っ越してきた。 土曜日の朝から、引越し作業をしているのが目に入る。
おそらく賃貸だろうが、確かに若い女性の一人暮らしの場としては完璧なマンションだ。
目の前に交番もあるし、オートロックなどのセキュリティは万全。いたるところに監視カメラもついている。
浴室暖房乾燥機もあるから、線路から見えるベランダにむき出しに洗濯物を干す必要もないのだ。
家賃は少し高めだろうが、安心を一番に考える女性なら当然だ。
その女性は最初の数ヶ月ほどはひっそりと暮らしていたし、エレベーターでかち合ったりすると顔を隠して階段を使うぐらい、慎重に暮らしていた。 けれど半年も経つとさすがに慣れたようで、換気のために窓を開け放しにしたまま一日でかけたり、夜中にこそっとでてコンビニや翌日のゴミをだしにいくようにもなった。
度々訪れていた母親も姿を見せなくなり、代わりに彼氏と思われる若い男が週末に訪れるようになった。
男が来ている時はすぐにわかる。
夏の夜の暑い日は窓を開け、冷気を取り入れて寝るのだが、隣の部屋の窓がガラガラと開き、「カチッ」というライターの点灯音と「フッー」と息を吐き出す音がベランダ越しに聞こえてくるからだ。
ごくたまに女性との会話も聞こえることがある。 最初はテレビの音と混ざっていたが、ベランダにこっそり顔をつきだして耳をすましていると、女性の柔らかな声が聞こえてくるのだった。
――そのまま窓を閉めずにベッドに二人で上がってくれればいいのに、と思う。
ただその願いは叶わなかった。
男はタバコを吸い終わると生真面目に窓を閉めていった。
そうなるとどんなに耳をそばだてても二重ガラスの窓や分厚い壁越しには声はいっさい漏れてこない。
唯一聞こえるのは何かを落とした時に聞こえるような響く重い音や、洗濯機の地を這うような低い振動音や、玄関の扉の明け閉めの際の空気を動かす音ぐらいだった。 玄関先で鉢合わせしたとき、ベランダ越しに会話がきこえたとき、夜中にゴミを捨てにいく姿をベランダから階下にみるとき、自分の胸が高鳴るのを感じていた。
台風が吹き荒れる日、ずっとたまっていた有休を消化し自宅に籠る。
ずっと頭にあったことを実行に移す日には最適な日だった。
女性が出掛けたのを確認すると、浴室に入り頭がぶつかりそうなくらいの低い天井を見上げる。
浴槽の真上には浴室暖房乾燥機が設置されており、何の設定にしなくてもゴォーと音をたてて二十四時間換気をしている。
そして洗い場の真上には蓋をずらして持ち上げるタイプの点検口があった。 ちょっと蓋を持ち上げてみると、太い配管や柱がむき出しに見える。
浴槽の縁に足をかけて、後は手の力で天井裏に這い上がる。
決して身体の小さくはない自分でも優に動けるだけのスペースがそこにはあった。
ベランダ、浴室、キッチンへと続く太いパイプを便りに暗闇の中を進んでいく。
小さな廊下を挟んだキッチンに辿り着くと、隣の部屋とを隔てる壁にぶち当たる。
一旦下に戻って懐中電灯を手にし照らすと、それは壁というよりも木の板で辛うじて塞いであるだけだった。
ふと手元に飲みかけのドリンクが置いてあるのに気づく。
今はその業者に感謝するべきかもしれない。 台風の轟音に合わせて、力一杯にデカイホチキスのようなもので止めただけの板をひきはがす。
するとそこから自分の部屋とは対照的につくられた天井裏があり、また新たに下から出ているパイプをたどると、女性の部屋のバスルームの真上だった。
点検口を開ける勇気まではなく浴室暖房乾燥機の小さな網目の隙間から下を覗くと干した洗濯物があり、よくみえはしないが、明らかに自分のバスルームではない空間が拡がっていた。
――女の子の匂いがする
蒸せた匂いや油っこい匂いの中に、シャンプーや香水の入り交じった甘い匂いを確かに感じた。
気づけば自分の部屋にいる時間よりも彼女の浴室の真上にいる時間が増えていった。 週末の夜、いつものように女性が男を駅まで迎えに出掛けた瞬間を狙って潜まる。
いつも女性のいいなりなはずの男だが、今日はなにやら様子が違い、激しい口論をしているようだった。
次第にそれは激しさを増し、リビングとバスルーム、二枚の扉を経ていても伝わってくる。
そして大きな音がし取っ組み合いに変わっていったのがわかる。
「助けて!」
突如彼女が叫びながら浴室に逃げ込んできた。
顔が少し腫れていて、首筋に赤い跡がある。
まさかとは思うが男に首をしめられたのだろうか。
自分が思うよりも自体は深刻なようだった。
追って凄い剣幕の男が扉をこじあけて入ってくる。 大人しい男を怒らせると恐いというのはこういうのをさすのだろう。
何度か朝二人で出勤するところに出くわしたことがあるが、見るからに気の弱い男だと思っていたが。
男は入ってくるなり彼女の首に手をかける。
「お前俺がプレゼントしたバッグ、全部質屋に入れたんだろ!その金はどうした」
「し、しらない」苦しそうな声がもれる。
「お前のためにいくら使ったと思ってんだ。いくつの消費者金融に頭さげたと思ってんだ」
「し、し、しらな……」
どうやら金がらみのトラブルのようだった。
男がさらに強く首を締め上げた瞬間、彼女がこちらを見た、――気がした。
そして「助けて!」と自分に向かっていった、――気がした。
「誰も助けにきやしないよ。外に漏れなんてしないんだ。俺の金で身分不相応のいいマンションに住みやがって」
「助けて……」幻想なんかじゃない、確かに自分の目を見て言っている。
今まですれ違っても決して目を合わせなかった彼女が、ベランダ越しの声しか聞こえなかった彼女が自分を見ている。
殺されそうになって、自分に助けを求めている。
俺は身体を反転させ、点検口の蓋をこじあけると、真下にいた男の背中に飛び乗った。
男の予想だにしないといった、驚く顔がしてやったりと俺の気持ちを昂らせる。
瞬間首をしめていた手がゆるめられ、彼女は盛大に咳き込んだ。「大丈夫か?」と彼女の無事を確かめる。
その様子を見て男は慌ててバスルームを飛び出した。
か細い声で彼女はいった。
「殺して」と。
確かにいった!
急いで飛び出ると対面にあるキッチンの上にむき出しで置いてあった、包丁を手にとる。
鍵を開けチェーンを外そうとしている男を追う。
右の首筋をぶったぎった。皮膚や欠陥だけでなく、首の骨まで入ったようなかなりの手応えを感じる。
「ぐっう」
男は変なうめき声をあげると血が吹き出してきた首筋を押さえる。
「は……はめ……やがったな」
声にならない声でいう。
「とどめを」 彼女の声におされて、空いている左の首筋も勢いをつけて切りつける。
男はあわててもう片方の手も添えるがもう遅い。抑えた手も虚しく血が溢れていく。
男は何かを言おうとしたのかこちらを振り返ったが、もはや声にはならなかった。
そのままズルズルと床に落ちていく。
塞き止めていた両手を失って、血が遠慮なく吹き出る。
足がピクピク痙攣しているのが、とても気持ちが悪く俺は半場無意識に男をけった。
目はひんむかれだらしなく口をあいたまま。
気持ち悪い。こんな男が彼女と釣り合うわけがない。
ふと自分の横を彼女はすり抜けると、男が息たえるのを確認してこちらを向いた。
「ありがとう」 少し照れくさそうにハニカミながら微笑む。
その天使のような微笑みに身体中の力が抜けて、ヘタヘタとその場に座りこむ。
人を殺したというのに、彼女を助けたという充足感が身体を包んでいた。
しかし彼女はそのまま血だらけの男をまたぎチェーンを外すと玄関の扉をあけ外にでた。
あっけにとられるこちらをみてまた微笑むと、マンションの玄関から左斜め下にある交番に向かって叫んだ。
「助けて~隣の部屋のストーカーが彼を殺したの~包丁を持ってるわ!」
驚いて立ち上がろうとする自分を扉の隙間から確認すると彼女はマフラーを首元に巻いて、バタンとドアをしめた。勢いよく階段を降りていく音がする。
「はめられた」
そう呟いて、ベランダに向かう。これで死んだら彼女の本当の思うツボだ。生きていれば、彼女の首元のアザの手形が男のものであるとか、男が彼女に貢いでいたとか、自分に殺人を指示しただとか証言することができる。
でも男を殺害した殺人犯は俺だ。ストーカーし部屋に潜んでいたという事実も明るみになる。生き恥を晒すのか……。
外が騒がしくなり外を数人の警官が囲っているのがわかった。パトカーのサイレンが何台も鳴り響き、スピーカーで住人に注意を呼び掛けている。
玄関の扉が開いた瞬間、意を決すると、リビングを走り抜けて用意周到に開け放たれていた窓を抜け、 これまた用意周到にベランダに置かれた椅子を踏み台にし、赤いランプの光る階下へと身を投げ出した。
身体が打ち砕かれるまでの数秒の間に、頭に浮かんだことがあった。
一ヶ月ほど前、年末の大掃除を手伝うために彼女の両親がきたときに、自分が潜む換気蓋を外し洗おうとしたのだが、彼女は「それは後で自分がやる」ととめたことがあったのだった。