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ずきずきと釘を頭に打ち込まれるかのような痛みと共に沙耶は目を覚ました。頭が割れるように痛む上、眩暈に吐き気も襲ってくる。起きたばかりだが、何とかもう一度眠りの中に逃げ込もうと沙耶はぎゅっと目を瞑った。
だが普段ならば二度寝など至福でしかないというのに、こういう時に限って目が冴えて眠れない。結局暫くの間その間断ない攻撃が止むのを、ただただ耐えていた。
どれくらいそうしていただろうか、少し落ち着き始め、どうにか起き上がることが出来たと思うと、ユキの唸り声が聞こえた。
「ユキ……?」
所在を問う声が掠れてしまった。ユキに聞こえないかと思われたが、存外近くにいたユキは耳をぴくりと動かすと沙耶の近くに駆け寄った。未だ青ざめ顔色の悪い沙耶を気遣うように手を舐めると、すぐに沙耶の背後に向き直り、再び唸りを上げた。
ユキの睨み付ける先にいたのは、悠然とした歩で近付いてくる四本足の貉のような魔物だった。肥え太ったように重量感のある体躯をゆさゆさと揺らし、一直線に沙耶の元へと近付いてくる。
ユキは牙を剥き出して何度も吠えつける。だが、体の大きさの割に小さな、取って付けたような魔物の耳は音を上手く拾わないのか、魔物は聞こえている様子がない。
沙耶は慌てて辺りを見回し、持ってきていたオールを探す。近くの木の根本に、他の荷物と同じように置かれていたそれを掴もうと体を動かすが、力が入らずに倒れ込んだ。
数歩の距離が、今は遥かに遠い。
ユキがはっとして沙耶に駆け寄る。
「ユキ、私の後ろに……」
沙耶はユキに手を伸ばし、もう片方の手で腰に差したナイフを鞘から抜き取る。
“大きさはそこまででないけど、なんとも逞しそうな……。やれるか?”
震える膝を立てて、立ち上がろうと手をつく沙耶。ユキは魔物と沙耶に何度も視線を向けながらうろうろと歩き回る。ぐっと膝に力を込めて、沙耶がふらふらと立ち上がった。
「……うっし、こいやぁ!」
自分自身に気合いを込めるかのようにそう一喝してナイフを構える。魔物もその一声を合図に重たい体でどたどたと駆け寄ってきた。
魔物が沙耶に向かって飛びかかった。
だが目を丸くする沙耶の目の前で、バンと音をたてて魔物が動きを止めた。まるで壁にでも激突したかのような動きだった。
「な、なに……?」
困惑する沙耶だったが、驚きからか拍子抜けしたからか、思わず力が抜けてしまう。気合いで立たせていた足が崩れて倒れ込む。
「……何でお前はまず俺を呼ばない」
倒れかけた沙耶の体を支えたのは、どこからか飛んできたルシファーだった。
「どなたか様が長らくご不在にされていましたから、自分でどうにかする癖がついたんでないですかね」
「まだ言うか」
「まだ遊べる!」
軽口を言い合うが、沙耶はその視線を魔物から外すことはなかった。魔物はまだ消えていない。頭をふらつかせて立ち上がり、再度沙耶たちへと突っ込んできた。
だが、魔物は再び見えない壁によって行く手を遮られ、何度もその壁に体をぶつける。
沙耶が眉をしかめた。
「どういうこと? あれ、ルシファーの仕業でしょ」
「まあな。ふん、あの程度の魔物なら即興の刻式でも使えるもんだな」
「こく、しき?」
首を傾げる沙耶だったが、ルシファーはそれに答える前に指を弾くと、突進を繰り返す魔物に光の棘が突き刺さった。倒れた魔物は姿を光の粒子に変えて消えていく。
ルシファーは沙耶を寝袋の上に座らせ、魔物が落とした魔結晶を拾うと同時に、もうひとつ魔結晶を沙耶の近くの茂みから拾い上げ、それらを沙耶に手渡す。
「これだ。あの魚のカラクリもな」
「え? どういうことよ」
両手に二つの魔結晶を載せ、首をかしげる沙耶だが、ルシファーは既に沙耶の横を通り過ぎ、背を向けている。仕方なく沙耶はしげしげとそれらを眺めているしかなかった。
そのルシファーはというと沙耶の背後で尾を垂れて項垂れるユキの元へと来ていた。声を抑え、低い声音でユキに話しかける。
「おい、わんころ。俺が何を言いたいのかわかるよな」
ルシファーの淡々とした言葉にユキは小さく鳴いた。ルシファーが舌打ちすると、屈み込んでユキの首根っこを摘まみ上げた。
「いつまでそうしているつもりだ。もう必要なもんは得てるだろ」
ユキがぴくりと耳を動かすが、また力なく項垂れ、ルシファーに摘まれるがままになる。
「沙耶に、俺に抱えられて飛び続けて、お前の種族の矜持はないのか」
小さく鳴き声を漏らすユキを、ルシファーが鼻を鳴らして放り出した。そしてそれ以上何も言うことなく沙耶へと歩を向けた。
背を向けていたルシファーの声は、沙耶には聞こえていなかったのだろう。渡された二つの魔結晶をまだ見比べていた。
大きさや色味が多少違うが、それはどの魔結晶でも同じだ。だがルシファーが『カラクリ』と呼ぶのだから、それ以外の違いがあるはずなのだ。沙耶は矯めつ眇めつそれらを眺めていたが、両手で顔に触れるかのように、二つの魔結晶で頬を挟み込んだ時「あっ」と声を出した。
「これ、こっち! ルシファーの魔素の感じする」
「良く出来ました」
ルシファーは沙耶の頭に手を乗せ、満悦そうにふっと笑った。そして沙耶が「魔素を感じる」と掲げていた魔結晶を摘まみ上げると、片手でそれを握り潰してしまった。
「ああーっ!」
砕けた破片がぱらぱらと溢れ落ち、さあっと粒子となって消えていく。
「もったいない」と口を尖らせる沙耶を無視してルシファーはにやりとほくそ笑んだ。
「覚悟しろ、魚。この俺を手間取らせた罪は重いぞ」




