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圭吾たちと別れた次の日だった。
移動はルシファーの翼のおかげで、地上を歩いて移動していた時よりも随分と早く、前日は暗くなる前には野宿が出来た。とはいえ早速「なるべく拠点に泊まる」という口約束を破っているのだが、それは沙耶たちの眼前に広がる海に現れた巨大な穴のせいだった。
「ここ、唯物界だったら伊勢湾の出入口にあたる場所だったはずなんだけど……改めて見ても、何なんだろう……あれ」
その巨大な穴は大きなドーム一つ分はすっぽりと入ってしまう程に大きく、海水が滝のようにその穴の中へと轟音を響かせて吸い込まれていっている。消えた海水は何処にいくのか、何故穴があいているのかは全くわからない。
昨日夕暮れ時にこの穴の手前まで辿り着いたのだが、そのえもいわれぬ光景を前に、万全を期すため、
日の高い時にもう一度見てから考えよう、と野宿を決めたのだった。
「昨日ちらっと見た感じ、穴の底全然見えないし、まずそもそも穴自体が大きいし……この上飛んで大丈夫かな? 迂回する?」
「いいのか?」
素っ気なく返されるルシファーの言葉に「うっ」と沙耶が言葉を詰まらせる。
「あれを見つけたとき、耳元でギャーギャーと随分はしゃいでいたようだが、折角真上から、間近で見られるこの絶好の機会を、お前は迂回していいのか?」
「ううっ! い、嫌な言い方を!」
図星を突かれ、頭を抱えて苦悶する沙耶。ユキはのんびりと欠伸をしながら、結論を気長に待っているようだ。
沙耶は暫くうんうんと唸っていたが、観念したように頭を下げた。
「み、見たいです……。見せてください、ルシファー様!」
「ふん。最初からそう言えばいい」
などと言うルシファーの顔はまんぞらでもなさそうだ。
早速ルシファーは沙耶とユキを抱え直して高度を上げる。沙耶は興奮を抑えるようにルシファーの袖を掴んだ。
「近付いてみて危なそうなら、すぐ離れていいからね!」
「この俺に危ないだなどというものはない。行くぞ」
言うが早いか、ルシファーはあっという間に穴の淵の上空に辿り着いた。
流水音が体を覆ってしまったのかと思える程、轟音が広がる。水が落ちる勢いで風が吹き上げられ、その風に乗って冷たい水の粒子が顔にぶつかる。海にぽっかりと開いた穴は間近で見れば見る程広く、海が大口を開けて海水をごくごくと飲み干そうとしているようだ。
穴を前に、沙耶が歓声を上げる。
「ふおおー絶景! なんだこれ、なんだこれ!」
隠しきれなくなった興奮で沙耶の顔は上気し、バシバシとルシファーの腕を叩いている。ルシファーはげんなりしたように顔を背け、ユキも沙耶の背負ったリュックの中に引っ込んでしまっている。
そんな一人と一匹の様子を意に介することなく、沙耶は身を乗り出して穴を眺める。
「あんなたくさんの海水、どこいくんだろー。海水の勢いが凄すぎて煙ってる! もはや霧!」
「おーおー、ご満悦そうで何よりだ。何ならもっとびしゃびしゃになるくらい近付いてやろうか」
ルシファーが呆れたようにせせら笑う。だが今の沙耶にはその皮肉めいた言葉も通じない。ぱあっと顔を明るくさせて、ルシファーに振り返った。
「い、いいの!? お願いします!」
「もはや取り繕うことすら辞めたか……」
一つ溜め息をつくと、ルシファーは穴の中へと下降した。
穴の底は光が全て塗り潰されたかのように全く見通せない。そしてその闇の中に海水が吸い込まれていく。だからだろうか、穴の縁は水音で他の音が聞こえない程煩いのに、穴の中央に行けば行くほど音がしなくなる。もはや穴の下はもう一つの別世界だった。
沙耶は小さく身震いをさせながらルシファーにしがみついた。
「お、おお……これは。ユキ大丈夫?」
背負うリュックに声を掛けると、身を縮ませる沙耶とは正反対に元気な鳴き声がした。初めてルシファーに抱えられて一緒に飛んだときもそうだったが、ユキはどうやら高所を一切怖がらないようだ。犬は高い所が苦手なことが多い動物と聞き知っていたので意外な心境だった。
「なんだ、びびってるのか。なんならここで宙返りでもしてやろうか……あ?」
「ちょ、何言って……どうしたの?」
けたけたと沙耶をからかうルシファーだったが、眉を潜めて表情を固くした。その変貌に沙耶も声を落とした。
「何だ? これは……下か!」
「うぶっ」
突然ルシファーが穴の中心部から端へと飛び退り、沙耶はルシファーの胸板にぶつかって呻き声を漏らした。ぶつかった衝撃で咳き込みながら、ルシファーの視線の先、穴の中心部の底へと目を凝らした。
変わらず何も見えない。ただ闇が満ち満ちているだけだ。だがルシファーからは警戒する張り詰めた空気をひしひしと感じる。沙耶は再びその闇の底へと目を細めた。
不意に闇が小さく揺らいだ気がした。はっとして目を凝らすが、既に変化は見られない。
沙耶が眉をしかめて首を傾げたその時だった。
「わ、わーっ!?」
沙耶の悲鳴が響き渡る。
それは突如として穴の底の闇から、滝の音とはまた異質な低く、長く伸びる不気味な鳴き声を響かせてその化物は現れた。
それは、全長三十メートルはあろうかという細長い魚のような魔物だった。側扁で帯のような体躯に、鋭く尖った大きなエラがまるで羽のように両端から伸びている。よく見ると片側のえらの端に銀色に光るものがあった。石か何かだろうか。背びれや胸びれは長大で、魔物はそれらをゆらゆらとはためかしている。全身は銀白色で鈍く太陽光を反射している。
その巨大な魔物は穴から飛び出すと、空中をまるで水の中を泳ぐかのように動き回り、この穴への侵入者へ威嚇する。
「さ、魚! ていうか太刀魚? ていうか魚なのに鳴いた!?」
「あれ、魚か? まあ、いい。黙ってろ、舌噛むぞ」
そう言うなりルシファーは沙耶を両手で抱えて魔物の上空まで飛び上がった。すかさず魔物はルシファーに向かって口から巨大な水の球を吐き出す。ルシファーはそれを難なく避ける。
「わっ! え、水球? 魔物の横幅より大きくない? どうやって吐いてるんだろ」
「何に注目してんだ。あいつ、遠距離攻撃もしてくんのか。だがこの程度の速さなら問題ない。いいだろう、焼き魚にしてやる」
ルシファーはにやりと笑うと、指をくるりと回す。すると魔物の中腹に赤く光る円陣が広がったと思うと、そこから炎の柱が燃え上がった。
魔物の姿は炎に包まれて見えなくなった。




