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となりの世界の放浪者たち  作者: 空閑 睡人
第八章:放浪者たち
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「大丈夫ですか」


鈴のような声だった。

だがその声が聞こえたと思った刹那、辺り一帯から耳をつんざくような大音声の絶叫が響き渡った。びりびりと地面が揺れている。声がした背後に注意が向き、眼前に迫る魔物から外れた視線を戻すと、驚きに思わず息を呑んだ。


硬質な魔物の体がぐずぐずと泡立ったかと思うと、どろりと崩れ落ちたのだ。見ればそれは無数に伸びる全ての触手だけでなく、その触手を伸ばす魔物本体も同様に溶け落ちている。この地を揺るがすほどの断末魔は、体が崩れ落ちる痛みと苦しみに溢れていた。


何が起きたのかわからなかった。


何十人もいた隊員は尽く皆塵を払うが如く蹴散らされた。隊長と呼び敬われた己の指揮も、隷獣も、あの巨大な魔物に敵わず、こうして地に伏している。


それなのに。


それなのに、これは一体どういうことなのか。


魔物は一瞬にして悲鳴を上げる肉塊と化し、消え去ろうとしている。意識のある隊員も起き上がり、眼の前の光景に茫然自失としている。


「あの、大丈夫ですか」


澄んだ柔らかな少女の声。この地獄のような光景に全くそぐわないその声に、はっとして振り返る。


そして男はそこに神を見た。

神々しき至上の光景を前に、男の頬に、この世界に来て初めて涙が一筋流れたのだった。


一人の男の運命がこの時大きく動いた。

そしてまたこの地界の各地でも世界を動かす運命が蠢動を始めていた。



ある都市では活気づく何人もの少年たちが一処に集まっていた。派手な服を纏い、つるむ様は不良少年のようにも見えるが、その中には大人しそうな小柄の少年も楽しげに混じっている。その彼らの見つめる先には巨大で異様な建築物が聳え立っていた。


ある方向から見れば、それは石造りの尖塔アーチを備えたゴシック様式の城の一部のようにも見えるが、またある方向から見れば、滑らかな曲線を描く金属板で覆われた近未来を思わせるドームの一部にも見える。他にも武家屋敷を彷彿とさせる木造の長屋門や、美しいタイルでアラベスクに彩られた丸屋根まである。それらが全て継ぎ接ぎのように一つの建築物として構成されている。


まさに混沌といった体だが、今まさにそこへ黒光りするオベリスクが加わった。それは一瞬で現れ、どうやって今までの建築物に付け足されたのか、どうやってこの目茶苦茶な造りで平衡を保っていられるのか不明だが、確かに建築物の一部と化していた。


少年たちの間から歓声が沸く。

どうやら彼らがこの建築物を造っているようだ。自分たちでも、この建築物が奇妙で可笑しいものだとわかっているのだろう。新たに足された記念碑を見て、囃し立てるように笑っている。


その内の何人かが何かに気付いたように空を見上げて手を振った。彼らの視線の先、巨大な建築物の遥か上空には大きな翼を広げた生き物の大きな影が通り過ぎていった。



またある場所は、辺り一面を重たい雪に閉ざされていた。鉛色の空からは絶え間なく大きな雪片が降り続いている。その雪の向こうに空と同じ色をした、無骨な建物がうずくまっている。


急峻な屋根に、厚く何重もの壁に覆われた飾り気のないその建物は「寒さから逃れればそれでいい」といわんばかりに、実用一辺倒の造りをしている。コンクリートを型に流し込んで固めて造られたかのようなのっぺりとした見た目で、まるで現実の風景の中に絵が紛れ込んでいるかのような奇妙な光景を作り出している。

それと全く同じ造りの建物がいくつか無秩序に並び、その中にとりわけ大きなものが建物群の中央に建っていた。五階建てはあるような高さで、一階部分に窓はなく、それよりも上の階に小さな明り取りにしかならないような窓が申し訳程度についている。建物の外を歩く人はまばらで殆ど見かけることはないが、その数少ない出歩く人々の多くがこの大きな建物の中へと入っていく。


皆厚い帽子を目深に被り、襟巻きを口元まで上げているので目元しか見えない。逃げ込むように建物に入った人々は次々にその厚い防寒着を脱ぎ、階を貫くように伸びる階段を上っていく。


その中の一人、寒さで表情が固まってしまったのではないかと思える程に無表情の男が、とある一室に足を踏み入れた。無表情の中に、僅かな緊張の色が走る。


男が頭を下げたその先、長椅子の肘掛けにもたれていた人物が億劫そうに背を起こし、おもむろに腕を伸ばした。

その指には四つの水色に輝く指輪が嵌っていた。



「だあー! いつまで続くんだ、この森は!」


深い木々の間から一人の男の声が響いた。


藪が大きく揺れると、そこを掻き分け、疲れ切った顔の男が出てきた。

日に焼けた僅かに赤茶色が交じる短い黒髪で、肩幅は広く、背も高い。二十代後半に見えるが、がっしりとした体型だ。その男は、長丈で腰の辺りをベルトで絞ったコートの上に、貫頭衣型のケープを纏っているが、そのケープの端々は破れやほつれが目立つ。ゆったりとした幅広のズボンは膝下まである長靴の中に押し込められているが、その革靴も傷や汚れが多い。大きな袋のような鞄にはぎりぎりまで中身が詰め込まれているのだろう、重そうに膨らんでいる。


男はずり落ちてきた鞄の紐を肩にかけ直し、辟易した表情で辺りを見回した。


「ああ、くそ。突っ切ったほうが早いだろ、とか言って森の中を進もうだなどと言い出したのは誰だ……そうだ、俺だ。俺の馬鹿野郎! ああ、次に拠点を見つけたらまずは風呂だ、そんで酒だ! 暫くは動かんぞ」


そうぶつぶつと独りごちる男の周囲一体には木々が生い茂り、その隙間を埋めるかのように丈の長い草が地面を覆っている。木と草で前も後ろも道が見えないどころか、本当に進んでいるのかと疑いたくなる程に景色が変わらない。

実際には確かに進んでいるし、見える木々は変わっているのだが、疲れ切ったこの男にはそれらの違いは無いに等しいものであった。


すると男は不意に空を仰ぎ見た。背の高い梢の間から小さな青空が覗いている。男はその空へと向かって大声で呼びかけたのだ。


「おい、まだ拠点は見えんのか」


空が一瞬陰った。ばさりと大きな羽音がした。

青空の先に、白く輝く翼が見えた。


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