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「あ、起きたね」
ふと目を覚ますと、圭吾の声が聞こえた。
「よかった。まだ始まったばかりだよ。外で待ってるね」
そう言って圭吾は食堂を出ていった。沙耶は食堂で皆が食事をしているのだと思っていたが、建物内は小さな明かりだけで薄暗く、ひっそりと静まり返っている。厨房にすら人がいない。その代わり外から賑やかしい気配がしていた。
「ワン」
ユキの鳴き声がした。先程まで沙耶の近くで丸くなっていたのだろうが、今は外へ行きたそうにそわそわと歩き回っている。
沙耶は体を起こすと、目を瞑ってルシファーにもたれかかっていたことに気付いた。
「ルシファー」
沙耶が声を掛けると、ルシファーも目を開けた。
「行くのか」
起きてはいたのだろう。寝起きでぼんやりとした声の沙耶と違い、小さくとも明瞭な声だった。その目線から「食堂の外に行くのか」と問われているのだとわかった。沙耶は小さく頷く。
するとルシファーは先に立ち上がると沙耶の手を引っ張り上げて立たせた。そしてそのまま手を引いて扉へと歩いていく。寝起きのせいなのか、暗い部屋のせいなのか、沙耶はふわふわとした心地で先を行くルシファーの背中を眺めていた。冷え切っていた手に、繋がれたルシファーの手が温かかった。
「……わっ?」
外に出た途端、思わず沙耶は手で顔を覆った。
外は昼間と見紛う程に煌々と明かりが灯り、大勢の活気ある人々の声が洪水のように押し寄せてきたのだ。目を細めて、恐る恐る手をどける。
そこはまさに祭りの夜のようであった。
食堂前近くの広場には大きな机がいくつも広げられている。その上には所狭しと多種多様な料理が大皿に盛られており、人々が好きなものを好きなだけ取り皿によそっていく。
その付近には何台ものバーベキューグリルが並んでいる。一つ一つ大きさや形の異なるそれは、ホームセンターに置かれていたものを全て使っているのではないかと思われた。そしてそのグリル全てで厚切りの肉を焼いていた。
その奥では何か巨大な肉を焼いているのも見えた。人くらいの大きさの骨付きの肉が、物干しのような台に掛けられている。もしかしたらあれは沙耶が獲ってきた猪の魔物の足か何かかもしれない。そしてそれをたくさんの隷獣たちが焼いていた。狐や人魂のような隷獣たちがあらゆる方向から火を浴びせ続けている。唯物界ならあれ程の肉など、どう焼けばいいか想像もつかないが、火を自在に放つことの出来る隷獣がいるここならば別だ。
異世界然とした光景に周囲でそれを見ている人々も喝采している。
広場の中央にはキャンプファイヤーのような大きな焚き火が燃え上がり、その周りを囲むように大勢の人々が思い思いに料理を食べ、酒を飲み、楽しそうに笑いあっていた。中には泣きながら食事をしている者もいる。数ヶ月ぶりのまともな食事だ。その気持ちは沙耶にも痛い程わかった。
「沙耶ちゃん、おっはよ!」
目の前の光景に圧倒され、見とれていた沙耶の目の前に勝成が現れた。そしてそのまま沙耶の手を引っ張って歩き出した。
「ほらほらー、どんどん食べてよ! せっかく獲ってきてくれたんだからさ。あ、俺様渾身のがこっちのねー」
早口で捲し立てながら、あっという間に人混みの中に分け入っていくのを見てルシファーが沙耶の手を離した。離れた手に気付いて沙耶は振り返ったが、そのまま勝成に連れ去られてしまう。そしてその姿は人の塊の向こうへ消えた。
大きく溜め息をついて、足元で尾を垂れているユキに声を掛けた。
「お前は行ってこい。捌いた時の屑をたらふく食ってもう入らんだろうが、あいつの近くにいろ。匂いを追えるな」
ユキは真っ直ぐルシファーを見上げる。
「何かあったら吠えろ。すぐ行く。……守れよ」
「ワン!」
大きく吠えて走り去るユキの背中をルシファーは見送り、喧騒から距離を取ろうと飛び去っていった。
勝成は沙耶をあちこちの机に連れ回しては「これは何の魔物で、どうやって調理して、あっちは何とかの魔物のどこそこの部位を使って」などと忙しなく喋り続け、気付くとその片手には大きな取皿いっぱいにいくつもの料理がうず高く積まれていた。
その怒涛の勢いに沙耶が目を回し始める頃、足元からユキの鳴き声がした。人々の足の間をすり抜けてきたのだろう。最後にユキを見た時一緒だったはずのルシファーは見当たらなかった。
“あいつ、人混みが嫌でどっかに逃げたな。勝手に離れるなとか言うくせに、自分はいいんかい”
ユキの声に足を止めた勝成は沙耶の様子に気付いたようだ。
「あ、ごめんごめん。引きずり回しちゃって。俺夢中になると周りが見えなくなるんだよね。えーっと、ほら、そこ空いてる。座って座って」
そう言って焚き火の近くに沙耶を座らせ、手際よく飲み物を取ってきてその横に座った。
渡されたのは木でできた樽の形をしたジョッキグラスだ。そこに満杯に入れられた飲み物を一口飲むと、今までに飲んだことのない味がした。勝成は仰ぐように一気に飲み干すと、沙耶に皿を指し示し、食べるように促した。
「食べてみてよ。ちーちゃんは若干不満そうだったけど、俺的にはどれも今出来るベストだって思ってんだ」
沙耶はひとまず皿に盛られた料理の一番上に積まれていたものを箸で摘んだ。
四角い塊に切られた肉を煮たもののようだ。角煮のようなものだろうか。厚い肉は箸でしっかりと掴むことが出来るが、掴んだ表面の部分は箸がうっすらと沈み込む。存外柔らかいのかもしれない。匂いを嗅ぐと醤油の香りがした。一口には少し大きい塊を、大きく開けた口に放り込む。口いっぱいに入ったそれを噛み締めると溢れる肉汁と一緒に熱い煮汁が口の中を埋め尽くす。唯物界の角煮とは少し違う味がした。それは肉が違うからなのか、使っている調味料が違うからなのかはわからないが、角煮といえば甘じょっぱい味だと思っていたが、こちらはそれよりもがつんと肉の味がした。
沙耶は目を丸くしてそれを懸命に飲み込む。一時口内が全て旨味で満たされたその余韻に思わず浸ってしまう。そしてその余韻が引いていく頃にはまたもう一口と箸を伸ばしていた。
沙耶は無言で皿の上の料理を食べ続けていた。角煮だけでなく、揚げたものや焼いたもの、肉以外にも魚や何なのか判断につかないものも多くあったが、どれも美味しかった。
勝成は沙耶が夢中になって食べているのを満足そうに見ていた。




