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「美味しそうー!」
圭吾の歓声が響いた。
蟹の魔物を調理し始めて一時間程。ルシファーに抱えられたまま沙耶は眠り続け、ユキもその傍で眠っている。ルシファーも調理に関しては興味がないようで、目を瞑っていた。
その間、千幸主導で蟹の魔物の調理が進んでいたようだ。眠っていた沙耶も賑わう声に気が付いた。
「んむ……」
まだ眠りから覚めきらぬ沙耶はとろんとした目で、頭をもぞもぞと動かす。
「起きたか」
「……むえ?」
頭上から振ってくる声に、自分が何を枕にしていたのか気が付いた。硬い枕だと思っていたものはルシファーの胸板だったのだ。
「おお、これルシファーだったのか……。ごめ……」
「おい、言いながら寝るな。なんか出来たみてえだぞ」
「お、沙耶ちゃん! おはよー!」
まどろみの中、再び瞼を落としかけた矢先、圭吾が溌溂とした声で駆け寄ってきた。沙耶は小さく唸りながら目を擦った。
「おはよ……。ん、何かいい匂いがする?」
「あはは、そうだよ。ほら!」
そう言って圭吾が差し出してきたのは、大きな葉の上に乗せられた焼かれた蟹の足だった。殻の半分が切り落とされ、見るからに弾力のある蟹身が剥き出ている。鼻をくすぐる香ばしい匂いは、その身や僅かに焦げ目のついた殻から発せられたものだった。うっすらとした桃色の中にちらほらと白色の身が覗く。身と殻の隙間には溢れんばかりの汁がじゅわじゅわと音を立てて湧き出していた。
「蟹と言ったらまずはシンプルにこれでしょう! というわけで、はい」
圭吾は笑顔でそう言うと、沙耶に葉ごと蟹脚と箸を渡した。渡されたそれは厚みのある葉越しでも熱さが伝わる程に温かく、その湯気からはたっぷりと蟹のよい香りが漂ってきた。
「ふおお……。蟹なんて久しぶりだあ」
胡座をかいたルシファーの足の中、その胸板を背に、渡された蟹脚を見て感激の声を漏らす沙耶。
蟹など唯物界にいた頃ですら、年に数回食べるかどうかだったのだ。それも食べられるのはスーパーで安売りされていた冷凍の蟹だ。それが今目の前にあるのは、高級蟹もかくやといった肉厚で薫り高いものだ。例えその殻がペンキの色のような鮮やかな緑色をしていたとしても。
箸で蟹身を摘み上げる。元々の強靭な生命力を彷彿とさせるような確かな弾力の身は、持ち上げると殻から綺麗に身を剥がし、ぷるぷると揺れている。
「いただきます!」
そしてその身を贅沢に一口で頬張る。口に入れた瞬間その熱さに少し驚いたが、噛み締めるとそれはすぐに感動に変わった。
「――っ!」
それは声にならない歓声だった。噛み締める度に、肉汁が口の中に溢れる。繊維は心地いい抵抗で歯を弾くが、噛み締めると歯切れよく切れていく。まごうことなくこれは沙耶が人生で食べた中で一番美味しい蟹だった。
ルシファーが椅子にされたまま、特に何も言ってこないのをいいことに、沙耶は夢中でその蟹脚を頬張り続けた。圭吾は嬉しそうに沙耶が食べているのを眺めていたが、当の沙耶自身は見られていることにすら気付かぬ程に食べることに集中していた。そしてあっという間に渡された分を食べきってしまったのだ。
「ああ、やはりいいな」
圭吾よりも低い声に、沙耶は顔を上げた。
「あ、えっと……千幸、さん」
「ああ、君も彼と同じように呼んでくれて構わない。何しろ君は俺の命の恩人だ」
「はあ……?」
千幸の言葉に首を傾げる沙耶。よくよく見ると千幸の目が赤い。泣いていたのか、泣きかけていたのか。圭吾は沙耶と沙耶の持っている空になった殻を見て、至極満足そうに何度も何度も頷いた。
「俺の作った料理で、こうして美味しいと喜んでくれる人が見られる。至上の喜びだ。これこそが俺の生きる意味」
大仰な言葉にたじろぐ沙耶だったが、水を差す気にはならなかった。本当に心の底から歓喜しているのがひしひしと伝わってきたのだ。
「ねえ、じゃあ僕ももう食べていいよね!?」
「ああ、好きなものを食べてくれ。あそこで何か知らんがへこんでいるあいつにも食べさせてやってくれ」
「僕がいくの、傷口に塩を塗ることになるんじゃ……。まあいいか」
そう言って圭吾は駆け戻っていく。見ると焚き火の前にはいくつも調理器具が並び、そこから少し離れた場所で勝成が傍目からもわかるほどに酷く落ち込んでいるのが見えた。圭吾が蟹脚を渡そうと声を掛けると、びくりとしたように体を震わせ、圭吾の全身を上から下まで見下ろして再びがくりと項垂れた。
“あ、気付いたのか”
目を細める沙耶は、心の中で勝成に同情の言葉を掛けた。そして同時にその決定的な瞬間に、自分は眠っていてよかったと安堵の息をついた。
その沙耶の目線を勘違いしたのだろうか。
「……ああ、君が起きるまで食べるのを待ってもらっていた。この蟹は君がそんなになるまでして獲ってくれたものだ。君が一番に食べるべきだと思った。もちろんアイリスの毒見も済んでいるし、俺も調理前の身は味見しているから、安心してくれ」
まだ会ってから一日と経っていないが、それでも今目の前に立つ千幸は普段よりも饒舌に見えた。料理人の彼にとって、まともに調理が出来て味のする食材の登場は、それほどまでに待ち望んだことだったのだろう。沙耶が口元を緩めた。
「ええっと……ち、ちーちゃんも食べてきてください。すっごく美味しかったですから」
「ああ、そうしよう」
千幸が表情をほころばせた。見ると焼き蟹の他にも色々と調理したものがありそうだ。きっと今までの鬱憤を晴らすかのように、様々な料理を作ったのだろう。それらも美味しいに違いない。
「他のも貰いに行こう! ほら、ルシファーも! 食べられないってわけじゃないんでしょう?」
「食えんわけじゃないが、俺は別にいらんぞ。俺はお前からの魔素で十分存在を維持出来る」
「そういうんじゃなくて、楽しみの問題なのー。ほら!」
そう言って沙耶はルシファーの手を引っ張る。ユキもそれに跳ねるようについていく。こうして沙耶たちは暫く心ゆくまで舌鼓を打ったのだった。




