7
「もういいか、いつまで飲んでんだ」
「お水美味しいー! ああでも空腹だと思ったら急激にお腹が空いてきた。ううっ、辛い。気付かなきゃよかった」
「そしたら死ぬだろ、人間は。おら、これ」
ルシファーが沙耶に何かを投げてよこした。
沙耶が慌てて受け取ると、それは小さな石だった。そう、先程ルシファーが魔結晶と呼んでいたものだ。色は黒いのに向こうが透けて見える。
「ああ、これさっきルシファーが拾ってたやつ。これが何? あ、食べられるの?」
透き通った結晶のようなそれを指で摘み上げると、沙耶は口を開いた。
「な、馬鹿! 食えるわけねえだろうが! 何でも食おうとするとかお前は犬か! せめて人間でいろ!」
「むう! じゃあ何さ、これ」
馬鹿にされたことにも腹立たしいが、食べ物でないとわかると余計に空腹が辛い。気付いた途端それはぎゅうぎゅうと腹を強く絞ってくるのだ。ここまでの空腹は今までで感じたことがない。
「魔結晶だ。とりあえず持っとけ。ここにはさっきみたいな魔物がうじゃうじゃいるからな。そいつらぶっ殺してそれを集めんのがお前たち人間の仕事だ」
「はあ……。何、最終的には魔王でも倒しましょうってか」
「魔王? 何で魔王を倒すんだ。これを集めんのと魔王には何の関係もねえだろ」
“魔王の存在については否定しなかったぞ、こいつ……。え、いるの魔王”
不可解そうに眉をひそめるルシファー。そんなルシファーをげんなりした表情で見返す沙耶。
おそらく沙耶はまだ殆どこの状況を理解できていないのだろう。
なぜ、誰が、どうやって。疑問はいくらでも浮かんでくる。そしてその答えは重要なのだろう。
だがそれについて思考を巡らす気力も体力も今の沙耶にはもう残されていなかった。何よりもまずは直近の問題である空腹に向き合わなければならなかった。
「で、何で今この石渡してきたの? 食べられないのに。確かに綺麗だけど美しさでは腹は満たされないんだよ」
「お前がそれを持つことで何か起こるかと思ったんだが……。あー、言っとくがこれ以上は俺もよく知らん。ま、飯やら何やらは同じ人間に聞け」
「えぇ……知らんって何、それに他に人が――ってわっ!」
眉を寄せる沙耶をルシファーがいきなり片手で掴み上げた。そのまま沙耶を片腕に座らせるように抱きかかえた。
「黙ってろ。喋って舌噛んでも知らねえぞ」
抱きかかえられた羞恥でどぎまぎとしていた沙耶だったが、ルシファーの背中から翼が広がるのを見て目を輝かせた。
「わわわ……! う、動いてる」
「動くに決まってんだろ。おら、行くぞ」
翼を大きく動かしたルシファーが、沙耶を抱えたままふわりと宙に浮いた。驚いた沙耶が咄嗟にルシファーの首にしがみついた。驚く沙耶の反応が気に入ったのか、ルシファーは「くくっ」と喉を震わせると一気に上空へ飛び上がった。
ひと羽ばたきごとに地面が遠ざかる。ぐんぐん上空へ昇っていき、あっという間に近くにあった大木の先端を越していった。
恐怖と緊張で、目を閉じルシファーにしがみついていた沙耶だったが、ごうっと髪を巻き上げる風に思わず目を開けた。
「――わあっ……!!」
感嘆の声が溢れた。
沙耶の視界に映るのはどこまでも、どこまでも広がる世界だった。この森も、あの川も、その丘も、湖も谷も山も、空さえもどこも知らない。見たことのある場所などどこにもない。ビルに電柱、車に道路、見覚えのあるものなど一切ない。それどころか川一つ、山一つとってもどれもが現実離れしていた。
紺碧の水をきらきらと反射させて流れる川は、反対の岸が見えないほど幅広く、遠くに見える壁のようなそれは、山脈から突如として屹立して雲を貫き、頂上が見えないが山であるようだった。
明らかにここは沙耶の生まれ育った日本じゃない。それは否応ない現実として突きつけられている。だがその恐怖も悲嘆をも凌駕する感動がそこにはあった。陳腐でありきたりな言葉だが、「世界は広い」。否応なくその言葉が思い出され、そしてこの言葉を、これ程実感を伴って感じたのは初めてだった。
「すっ……ご。うわ、木の頭とか初めて見た。リアル航空写真を自分の目で見る日がこようとは思わなかったわ。川もあんな大きいの初めて見た。というかあっちって富士山があった方角だと思うんだけど、あれ、山ってことでいいのかな」
驚愕と興奮で声が上ずる沙耶。当初の恐怖心はどこへやら、今は見るもの全てが眩しい。
ふと下を見下ろすと、もこもことした森に大きく翼を広げたルシファーの影が浮かんでいる。それがなんだか無性に面白かった。
「ねえねえルシファー、いつもこんな光景を見てるの?」
ルシファーも興味深そうにぐるりと辺りを眺めた。
「あー? いや、俺も地界は初めてだな。よくもまあこんなもんを創り上げたもんだよな」
「ちかい?」
「この世界の呼名だ。つーか何だ、感動してるわりに怖えのか。飛んだ時からしがみつきっぱなしだな」
にやりと口角を上げながらルシファーが視線を沙耶に向けた。ルシファーに言われた通り、沙耶はルシファーの首に腕を回したまま、その上服を強く握りしめている。
うっと顔をしかめた沙耶は、ルシファーの視線から逃れるように顔を背けた。
「だって、だって! 今上空何十メートルよ! 落ちたら死ぬでしょうが!」
「はっ! この俺が、んなだっせえことするかよ。でもまあ、そういう殊勝な態度は悪くない。おら、どうせならこれも味わっとけ!」
「へ……ってきゃあ――!!」
ルシファーは沙耶を抱く腕に力を入れた瞬間、沙耶を抱えたまま一気に上昇し、そして今度は回転しながら一気に下降した。ブルーインパルスさながらのアクロバット飛行を生身で体験させられた沙耶はひたすらに悲鳴を上げ続けた。
機嫌をよくしたルシファーはけたけたと笑いながら暫く曲技飛行を続けるのだった。