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その後も一抱えはありそうな大きさの虫の魔物や黒い羽の大きな嘴をした鳥の魔物が数羽飛んできたが、どれも倒した後に肉体を残すことは出来なかった。その度に千幸は落ち込み、既に勝成は諦めの様相を呈していた。だが沙耶とルシファー集中がぶれることがなかった。
その時だった。
「……ああ、来たぞ」
ルシファーが沙耶の肩にそっと触れた。見るとアイリスを連れてこちらに向かって走ってくる圭吾の姿が見えた。
「ねえ、この蟹直進してくるんだけどー!?」
そう叫びながら駆けてくる圭吾の後ろには、土埃を巻き上げながら何本もの足を動かして向かってくる魔物の姿があった。四角くて薄い胴や、そこから横に伸びる八本の足、そして二本のはさみは確かに蟹と判断して間違いではなさそうだが、圭吾の膝下程もある大きさな体躯は、毒々しいまでの鮮やかな緑色をしており、体長の半分以上あるはさみは刃物のように鋭い。何より背の部分から後ろに伸びる海老のような尾が、その魔物を明らかに異界の生物たらしめていた。
蟹の足はそれほど早くはない。圭吾が追いつかれる心配は無いだろうが、引き離すことは出来ない程度には俊敏だった。魔物は足を不気味に動かしながら、専ら背から伸びる尾を使って前進しているようだ。
「近寄んな」
ルシファーが魔物を指差したと思うと、立てた指をすっと地面に向けた。すると一瞬にして魔物の足元の地面がめり込み、穴が出来た。蟹の魔物はあえなくその穴に落ちる。
「これなら狙いやすいだろう」
得意げなルシファーの言う通り、魔物は狭くて自身の体長よりも深い穴の中で身動きが取れなくなっている。必死に足をばたつかせるが、僅かに土を掻き出すだけだ。確かに狙うには易い。
「つったって蟹て。オール刺さるの、これ」
「ああ? ……まあ、しょうがねえな」
そう言うなりルシファーは穴を覗き込み、手を伸ばした。
「こういう細けえ調整がいるのは、普通にやるより魔素を食うんだがな……。俺があれの甲羅を割るから、即やれ」
沙耶が頷いた。ルシファーは沙耶が穴に近付くのを確認すると、伸ばした手に力を込めた。
瞬間、蟹の魔物は奇声を上げ、その硬い甲羅をひしゃげさせた。まるで見えない鈍器を叩きつけられたかのように、甲羅がへこんで割れ目が出来ている。
「おりゃ!」
沙耶はそれを見るなり間髪入れずにその割れ目へとオールを突き立てた。オールの先までを自分の腕だと想像し、その伸びた手の先から放射する感覚。腕全体が熱を帯びたように熱く感じる。
“……流す。流す。流す!”
沙耶は目を見開いて力を込めた。
刹那、オールを持っていた右腕からたちどころに熱が消えた。感覚としては熱が吸い取られたかのようだった。その急激な変化に驚愕したと同時に、頭を強く揺さぶられたような感覚が沙耶を襲った。
「ゔうっ……! あっ、久しぶりにきたぁ」
オールを持ったまま膝からへたり込む沙耶。大学を出て以来の、魔素を使いすぎたことによる反動だ。せり上がる嘔吐感を必死に抑え込もうと目を固く瞑っていると、背後から響いてきた雄叫びにびくりと体を震わせた。
「おおおおーっ!」
「成功じゃんー!」
がんがんと痛む頭を抑えながら視線を向けると、穴に身を乗り出すようにして千幸が雄叫びを上げていた。その隣で勝成も喜色満面で穴を覗き込んでいる。沙耶の背中に何かが触れた。
「お疲れ、沙耶ちゃん。久々に見るね、その感じ。オールは持っておくからもっと広いところで休んでおいで」
沙耶の背中にそっと手を当てた圭吾が、気遣うように沙耶の顔を覗き込んだ。
「そうする……。あの感じ、上手くいったんだね」
「うん。ちゃんと残ってるよ。にしても魔物の一体の肉体を残すのに、沙耶ちゃんがこんなにへばる程魔素が必要になっちゃうのは大変だな」
圭吾の視線を感じ、ルシファーが肩をすくめた。
「んなこたねえだろ。ここに来るまでもさっきも、俺はバンバン魔素を使ってたし、そもそも魔素を体に巡らせる事自体魔素をかなり消費する。大学を出た頃の沙耶ならとっくにぶっ倒れてるだろうな」
「おお……、せ、成長だあ……」
そう空元気に喜ぶ沙耶の声はか細く弱々しい。圭吾が苦笑した。
「ほらほら、あとはあの蟹を捌くなりなんなりしなきゃだから、その間沙耶ちゃんは休んでなさい」
そう言って沙耶をルシファーに押し付ける圭吾。沙耶はルシファーにぶつかってもたれかかると、瞼が吸い寄せられたように離れなくなり、意識を失うように眠ってしまった。




