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押し寄せる不調に耐えきった頃には、威張り散らすのにも飽きたのか、ルシファーも静かになっていた。先程まで沙耶が横になっていた木にもたれ掛かり、震える沙耶をぼうっと眺めていたようだった。
だが沙耶はそんな彼の様子に気付くはずもなく、ルシファーは沙耶が苦しんでいる間うたた寝をしていたのだと思い、翼の存在で少し上がった評価を下方修正していた。
「はあ……はあ……。――ふう。……きっつ」
「やっと回復したか。全く面倒だな」
背後から聞こえる気怠げな声に、沙耶は恨めしそうに振り返った。
「面倒って……。ああ、もういいや。それより今の何? 私に何をしたの」
「俺が直接お前に何かしたわけじゃねえぞ。お前が元々持ってた魔素量じゃ俺の必要とした魔素量を賄いきれなかったから、お前の体が一気に魔素を生成して補った。その反動なんじゃねーの」
頭を金槌で殴られたようだ。わからない事象をわからない単語で説明されるとこういった感覚になるのだな、という感想は隅に置き、沙耶は必死に今わかっていることとルシファーの難解な回答とを結びつけようと頭を働かせた。
今事実としてあるのは、ルシファーが手から炎を出した直後に、沙耶は体の中をひっくり返されたような不快感に襲われたことだ。となればルシファーの炎と沙耶の不快感には何かしらの因果関係があると見て間違いないだろう。
そしてルシファーの言う「魔素量」に「魔素」という言葉。魔素というのは例えるなら昨晩やったゲームの中のMP、マジックポイントのようなものではないだろうか。魔法を行使するには代償としてこのMPを使用する。MPがなければ魔法使いといえど魔法を使うことはできない。そして恐らくルシファーの炎にはこの魔素が必要なのだ。
だがそれはゲームでいう魔法使いであるルシファーではなく、魔法使いでも何でもない自分から供給が行われる状態にあるのではないか。
「……ということは私には魔素、とやらがあるってこと?」
「そうに決まってんだろ。ま、足りなかったがな」
「つまり……つまり、えーっと……。私は知らない間に魔法使いになってたってこと? あ、私今、魔法が使えるの!?」
しかめっ面で考え込んだ後、ぱっと顔を輝かせて尋ねる沙耶。魔法が使えるなんて、本当にファンタジーの人間になったようだ。魔法が使えるなら心が浮き立たぬはずがない。
「使えるわけねえだろ。魔法とか何言ってんだ、お前。恥ずかしくねえのか」
「んが!」
魔法が使えないことももちろん残念ではあるが、何よりファンタジーを集めて固めたような男に言われると一層腹が立つ。
沙耶が怒りを腹の中で抑え込もうとしていると、ルシファーが近付いてきて見下すように鼻を鳴らした。
「だからさっき言っただろうが。戦うのは俺なんだよ。お前じゃねえ」
ルシファーのこの偉そうな態度も腹立たしいものだが、確かに先程そんなことを言っていた気がする。
「そもそも戦うって何? 何と戦おうっての」
「魔物だ」
「……魔物」
やはりファンタジーの住民じゃないか、と心の中で毒づく。流石に沙耶もだんだん頭が痛くなってくる。まるで昨晩のゲームの続きを現実でやっているようだ。
“現実にやると碌なもんじゃないな、これ”
沙耶はかぶりを振った。
「その魔物とやらがいるとして、それとルシファーが戦うと。どこにいるのさ、その魔物とやら」
沙耶は周囲を見渡す。ここには大きな木が一本立っているだけであとは小川と穏やかな草原が広がるばかりだ。牙の生えた巨大な獣も、人を呑み込むような植物も、翼の生えたドラゴンだっていやしない。
いや、実際いられたら困るのだが。
「ここらにゃ自分から襲ってくるようなやつはいねえよ。じゃなきゃこんなとこで寝こけてられねえだろうが」
「確かに……。え、もしかしてルシファーが安全な場所に運んでくれたってこと? ここ私が乗ってた電車が全く見えないんだけど、相当遠かったんじゃない?」
辺りを見渡す。あの恐怖の場所らしきものはちらとも見えない。
そういえばと手を広げた。あの時、瓦礫でかなり大きく手を傷つけたはずだったが、そこにはきちんと綺麗に布が巻かれている。
「それに今気付いたんだけど、この手。布巻いてくれたのもルシファーだよね。ごめんね、気付かなくて。ありがと」
「……だから命の恩人だっつったろうが」
バツの悪そうな顔をすると、ルシファーは顔を背けた。敬えだ何だと言っておいて、正面切って感謝されると怯んでしまうのか。
沙耶はまた少し気分が上向いた。
「じゃあ結局魔物はここにはいないってことだね」
「いや、いるぞ」
「えっ!」
驚愕の声を上げる沙耶。何の気なしにそう言ってのけたルシファーは木と反対方向へ指を指した。
「あそこに一匹。つーかさっきからいたぞ」
「うえ、こわ! 早く教えてよ!」
「だから襲ってこねえって言ってんだろ。おら、見たほうが早え」
そう言うとルシファーは沙耶の腕を掴み、ぐいぐいと引っ張って先程指差した辺りへ歩き出した。
「ちょちょちょ…待って! 心の準備が……ってえ、人? いや、人影……?」
膝ほどの高さの草をかき分けて進んでいくと、木から少し離れた場所に人影が見えた。灌木の影になっていて気付かなかったのだろうか。
他にも人がいたのか、と安堵したのも束の間、その人影の異様さに気が付いた。
「――っ!」
沙耶は恐怖と衝撃に、ルシファーの影に隠れてその服の裾を握りしめていた。
それは確かに人影だ。だが本当に影なのだ。影しかない。光を遮る主体がないのに、それは人の形をとってゆらゆらと動いている。
「魔物っていうか、ホ、ホラー! うわ、うわ! これ夜に見なくてよかった! え、何、ルシファーあれ成仏させるの? 魔法使いじゃなくて僧侶じゃん!」
「ホラーじゃねえし、僧侶じゃねえ。何よくわかんねえビビリ方してんだ。ありゃ一番の雑魚だぞ。自分の形を作る力もないから、姿を借りてるんだ」
「よくわからん、よくわからん! ってうわ、何かこっち向いてない、目が合ってない? あー、今日絶対寝れない!」
「だあっ、うるせえ! 雑魚だっつってんだろうが! おら!」
すかさずルシファーはまた手の平から炎を出して影にぶつけた。すると人影はさあっと形を崩して消え去ってしまった。その時指の先ほどの小さな石がぽろりと落下した。
「ふーん、本当に魔結晶が出たな。沙耶、お前の仕事は俺を使ってこの魔結晶を……ってまたか!」
ルシファーが魔結晶と呼んだその小さな石を拾い上げて振り返ると、膝から崩れ落ちたように地面に手をつき、這いつくばる沙耶がいた。
「おおお……。ルシファー、あんたいい加減にしてよね……」
先程同様、酷い眩暈と吐き気に沙耶は立っていられなくなっていた。
もしかしてルシファーが何か攻撃のようなものをするたび、こんな目に遭うのか。そう思うと気が遠くなるようだった。
「お前、流石にひ弱すぎるだろ。いや、そもそもこんなショボい魔素で俺を呼び出せるわけがねえ。……ああ、そういえばお前、丸二日は何も食ってないだろうが、腹は減らねえのか」
「へ、丸二日……? え、今日何日? あれからもしかして二日も経ってるの? ということは起きたときからある、このお腹の違和感はもしかして空腹? ちょ、言ってよ!」
「いや、お前俺が言わなきゃ気付かなかっただろ。逆に大丈夫なのか、生き物として」
「ええ……。ということは私、丸二日飲まず食わずじゃん! お水飲まなきゃ! あ、あの川の水飲めるよね?」
言うが早いか、沙耶はルシファーの返事も待たず川へ向かって走り出した。
今太陽の位置を見るに昼前といったところだろう。沙耶が電車に乗っていたときは夕暮れ時だったので、実際は二日半眠りっぱなしだったということだろう。たとえずっと眠っていたのだとしても、今まで沙耶は一日以上何も食べなかったことなどないのだ。まさに未経験の出来事だった。
「元気じゃね―か。……でも、ふむ。となるとあいつ、そんな状態で俺を出し続けていられるわけか。なるほど、伊達にこの俺を呼び出しただけのことはある」
ルシファーは一人そう呟くと、必死の形相で水をかき込む沙耶のもとへ歩いて行った。