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「ふ、藤原ちゃん、無理よ、駄目よ、やっぱり魔物となんて戦えないわ! 逃げましょう、死んでしまうわ!」
晴美がわなわなと手を震わせながら悲鳴のように叫ぶ。
だが沙耶にはそんな晴美の声など聞こえてはいなかった。とはいえ晴美に言われずともその感覚は沙耶もひしひしと感じていた。
死だ。今自分は死に晒されている。
元の世界で生きていれば、まず陥ることなどないようなこんな状況で、まずすることなどないような無数の怪我を負って。身体はふらふらと無我夢中で鉄パイプを振り回し続けるのに対し、頭はじわじわと疲れや痛みに侵されながら、それでも湧き上がってくるのは後悔や悲しみだった。
“ああ、何で私こんな必死になって鉄パイプ振り回してるんだろう。何でこんなことやってるんだろう”
魔物の爪が腕を掠める。ぴっと赤い筋が一本腕に走る。
“私がルシファーを呼び出せさえすればこんな目に遭わずにすんだのに”
鉄パイプで魔物を叩き落とすが、すぐに起き上がってくる。腕が痺れてきた。
“私にもっと力があれば圭ちゃんの負担にもならなかったのに”
足ががくがくと震えだし、息が荒くなる。
“私があの時無理してさえいれば大学にまだいられたのに”
あの時あの二体目の魔物を倒せてさえいれば。
もっと魔素量を増やす努力をしていれば。
ばきんと音がした。見ると鉄パイプが折れている。魔物たちは鉄パイプが折れた音に一瞬たじろいだようだが、すぐに体勢を立て直す。沙耶の手には半分の長さになった鉄パイプだったものしかない。
去来するのは後悔、自責、悔恨。全ての感情が自分を責める。
大学を出てからずっと自分を責めてきた。今こんな時ですら自責の念を止めることが出来ない。
ずっとずっと、これからも自分を責めてこの重たい気持ちで生きていくのだ。
ずっと、ずっと――
――嫌だ
沙耶の手が止まった。魔物たちは今にも襲いかかろうと足を踏みしめている。
――嫌だ
沙耶が視線を上げた。一匹の魔物が牙を向いて飛び込んできた。
「もう嫌だ!」
沙耶は飛びかかってきた魔物を蹴り飛ばした。魔物が悲鳴を上げて吹き飛ぶ。晴美が目を丸くした。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ! 一体いつまでこんなウジウジ、グダグダと思い悩まなきゃならないんだ! 私はいつまでおんなじことを考え続けてるんだ!」
沙耶の足が地面を思い切り踏みつける。
「あああ、自分の思考に自分でイライラしてきた! 自分のせいだ、自分が悪いって何だ! 私はいつから完璧超人になったんだ! ていうかほんとに私が全部悪いのか!? 違うだろ! この調子だと、戦争がなくならないのも、地球温暖化も、リンゴが地面に落ちるのも全部自分のせいにしだすぞ、私の馬鹿!」
突如叫びだした沙耶に魔物が警戒し動きを止める。沙耶はその様子が見えているのかいないのか、一切気にすることなく叫び続ける。
「そもそも! 大学でのことだって、他の人たちがぜんっぜん戦おうとしないから対策もろくにできなくてああなったんじゃん! 大変なことは全部人任せにしておいて、そのくせ自分たちはお酒飲みながら楽しいことばっかやってたの、私気付いてたんだから!」
晴美は呆然と、突如怒鳴りだした沙耶を見つめた。
「ああああ! それで言えば実家での仕事だって、どいつもこいつも私にやらせとけばいいって何でもかんでも押しつけてきやがって! 今だってこれだ! 頼りにしてる、って言葉は無茶を押しつけていい免罪符じゃないんだよ!」
沙耶は近くにいた魔物に持っていた折れた鉄パイプを突き刺した。魔物が呻き声をあげる。沙耶はすかさず魔物に刺した鉄パイプを片足で思い切り踏みつけた。呻き声が悲鳴に変わる。
「こっちでもあっちでも、どいつもこいつもいいように人をこき使いやがって! 何よりもそんなのに何も言わずにへこへこ引き受けてた自分の意志のなさに腹が立つ!」
もう一匹走ってくる魔物が見えた。もう沙耶の手に武器はない。だが沙耶は躊躇うことなくポケットに手を突っ込んだ。
「もうなんもかんも、知るか!」
ポケットからもう光のつくことのない、未読メールが溜まってるであろう携帯電話を投げつけた。携帯電話は魔物にぶつかって鈍い音を立て、砕け散った。魔物は面食らったように足を止めた。
一陣の風が強く吹き抜けた。風に雲が押し流されていく。灰色の雲間に青色の筋が入った。そしてそれはどんどんと広がっていく。沙耶の立つ野に光が差し込む。
沙耶は耳をそばだてるかのように周囲の気配を読み取る。やはりあの違和感のような感覚が強くなっている。その違和感はもはや正体のわからないものではなかった。
この感覚には、この空気には覚えがあった。
「ああ、それと! 今ならわかるよ、なんでむしろ今までわかんなかったのかってまた自分にむかっ腹が立つけれど! こんなとこで一人、丸腰で魔物どもの相手しなきゃいけなくなってんのはあんたのせいでもあるんだからね、ルシファー!」
虚空に叫ぶ沙耶。
羽音がしたと思うと、その空から声が降ってきた。黒い翼が黒い髪が、沙耶の空に浮かぶ。
「くっくく。なんだ、気付いたのか。随分と面白いことを叫び散らしているじゃないか」
久方ぶりに見るはずのその顔は、記憶の中で何度も見た不敵な笑みを浮かべていた。沙耶は怒気を孕んだ声を荒げて叫んだ。
「うるさい! いいからさっさとあんたの仕事をしろ!」
「ああ、なんなりと」
そう言うとルシファーは指をぱちんと鳴らした。
すると沙耶やイワの周囲をうろついていた魔物たちに一斉に火がついて燃え上がった。そしてあっという間に消し炭となって消え去ってしまった。
その光景を沙耶は見ていなかった。沙耶は仁王立ちで上空のルシファーを睨み続けていた。ルシファーも魔物たちに一瞥することなく、にやついた笑みで沙耶を見つめ続けている。
魔物がいた後には焦げ付いた臭いと小さな魔結晶が残されていた。そしてその近くには折れた鉄パイプと、砕け散った携帯電話だったものが散乱している。
ルシファーは沙耶の目の前に降り立った。ちらりと辺りを見渡す。
「ふ、なんだ。いい子ちゃんはもうやめるのか」
「やめますー! やめちゃうんです! 何さ嬉しそうに」
愉しげに笑みを浮かべるルシファーに食ってかかる沙耶。ルシファーは背を曲げ、ぐっと沙耶に顔を近付けた。
「まあな。俺の主はお前であって他の誰でもない。――で、お前の主は誰なんだ」
ほくそ笑むルシファーの言葉に、沙耶がぴたりと動きを止める。だがそれはほんの一瞬のことだった。
沙耶はルシファーの胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「……私の主は私だ。藤原沙耶だ。――私が何をするかは、私が決める!」
「くくく、いいじゃねえか」
沙耶の叫びに、喜悦の表情を浮かべるルシファーは、自分の胸ぐらを掴む沙耶の手をそっと取ると、その手の甲に口づけをした。
「それでこそ俺の主様だ」
沙耶は鼻を鳴らすとルシファーの手を払った。そのぞんざいな対応にもルシファーは満足そうに背を伸ばした。
「いくよ、あっちも片付ける」
「ああ」
そう言うやいなや、ルシファーは沙耶を抱き上げ、翼を広げた。そして唖然としたままの晴美を残して阿部たちの元へと飛んでいった。




