60
臙脂色のソファの生地はくたびれ、所々剥がれ落ちていた。そのソファに深く腰掛け、両手で顔を覆い、沙耶は一人項垂れていた。今後どうすればいいのか考えなければならないと分かっているのに、考えが霧散してまとまらない。八方塞がりだった。
沙耶は何度目かの大きな溜め息をついた。
「あは、大きな溜め息」
頭上から降ってきた声に沙耶はどきりと身を固くした。その女性の声には聞き覚えがあった。聞くことなどないと思っていた声だった。
聞こえた瞬間、鷲掴みにされたように心臓が縮み上がった。錆びた機械を無理矢理軋ませながら動かすかのように、顔をおもむろに上げた。
「やっぱり! お久しぶりじゃないですかぁ、藤原さん」
「……今泉さん」
あの薄暗い自宅一階のオフィスでしか見ることはなかった顔がそこにいた。
今泉咲希。沙耶の実家である会社で働く従業員の一人だ。二十代半ばくらいの年齢だが、会社では濃いメイクをしていたので若いとも年嵩とも見えることはなかった。だが化粧品もない今はメイクはしていないようで、年相応に見えた。
咲希はソファに座り込む沙耶を上から下まで全身を見回した後、沙耶の横に腰を落とした。ソファが軋む。沙耶も横目で咲希を窺った。
肩より長い明るい茶髪は毛先だけ緩く波打っている。最後に会った時にはもっと強くパーマがかかっていたので、少しずつ取れてきているのだろう。だがそのふわりと巻かれた髪には手入れの形跡が見て取れた。服もおそらくウケと交換したものを着ているようだ。咲希が着ているのはハイウエストで帯のような太いリボンが巻かれた、丈の長いワンピースだった。ワンピース自体は唯物界にもある、ありふれた服の一種だが、ウケと交換したものはあちらではあまり見ることのない意匠をしているため、すぐにわかる。細部の形が違っていたり、独特の刺繍模様があったりするのだ。見ると、どうやら靴だけは違うようだ。職場でも何度か見かけたエナメルのハイヒールは傷だらけで汚れていた。
だがそれを差し引いても咲希の姿格好は随分と小綺麗に見えた。
ここの拠点は先程大食堂で見かけた代表者たちを除いて皆、唯物界のままの格好をしている者が多く、どこかくたびれた印象を受けた。服にまで回す余裕が無いのだろう。しかし沙耶の横に座る元同僚にはそれを感じられない。
咲希は横髪を耳に掛け、沙耶の顔を覗き込むように身を乗り出した。
「昨日他所から旅してきたって言う二人組が来たって騒ぎになってて、どんな人なのかと思ってたらーまさかの藤原さんだったなんて驚きですー! 確かに大学は市外って言ってましたもんね。あ、まさか仕事が心配でわざわざ帰ってきてたんですか? ほんと真面目ですねー」
咲希の言葉に、沙耶ががたりと身を乗り出した。
「え! も、もしかしてうちもこっちに……?」
「あは、違いますよー。多分会社は巻き込まれてないんじゃないですかー? 私はあの日お休みとってこの辺に遊びに来てたらこのざまでぇ、ほんと最悪って感じですよねー。ま、仕事しなくていいのはラッキーって感じですけど。ね、そう思いません?」
「え、いや、その……」
咄嗟に言葉が返せず、どもる沙耶。咲希はそれを否定の意味と捉えたのか「やっば、マジで仕事大好きじゃん」と呟いている。
沙耶は言葉を返せなかったというよりは、絶句して言葉が出てこなかったのだ。
“ラッキー……って、逃げ出したくなるくらい仕事やってるとこ見たことないんだけど”
呆然とする沙耶を意に介することなく、咲希は話を続ける。
「さっきの見てましたよー。リーダーも頭固いですよねー。でもまあリーダーの言ってることのが正論、みたいな」
笑うようにそう言った咲希に、沙耶は思わず黙ってしまう。
そんな沙耶の様子を横目でちらりと見ると、咲希はゆっくりと身体を捻った。
「――ねえ、藤原さん」
その声に、沙耶はひやりとしたものを感じた。これは何度も聞いたことのある声音、そしてこの声の時に持ちかけられるものは大抵沙耶にとって、ろくでもないことなのだ。
「藤原さんのその格好、強ーい隷獣持ってますよね。それに遠方からこんなとこまで歩いてこれたってことは魔物と戦うのも慣れてますよね」
咲希の話が見えない。何が言いたいのかわからず、沙耶は沈黙を続ける。
「実は私まだ隷獣っての呼べてないんですよね。で、ここって毎日隷獣持ってる人たち、あ、さっきのリーダーたちなんですけど、そういう人たちが狩りって言って、魔物を倒しに行くことになってるんです。それはすっごく助かってるんですけど、隷獣なしの人間もその狩りについてかないといけない当番みたいのがあるんです」
淡々と語る咲希に、沙耶は眉をしかめた。段々と彼女が言いたいことがわかってきた。
「補助番って言うんですけど、狩りに行く三人の隷獣持ちに一人、隷獣を持ってない人がついていかなきゃいけないんですよ。魔結晶を稼げないにしろ手伝いくらいはしろってことらしーんですけど、これ、男女関係なく参加なんですよ! ふつーこういうのって男だけの役目じゃんって思いません?」
咲希は問いかけるように話しかけながら、間髪入れずに続ける。
「魔物倒した後の魔結晶を拾ったりとか荷物持ちをしたりとからしいんですけど、そんなん狩りに行く本人が自分でやればいいのにって思うんですけど、強制だって言われちゃって。で、その当番がとうとう私に回ってきちゃったんですー」
ここまで言われればもはや明白だ。
沙耶は次に咲希から発せられるであろう言葉を待った。それは判決を待つ虜囚のような気分だった。
「だからー、つよーい隷獣を持ってる藤原さんがやってくれたらなって思って! どうです?」
ある意味期待通りの言葉だった。嬉しくはないが。
「あのっ! わ、私……その」
「え、何?」
びくりと肩を震わせ、手を強く握りしめて続ける。
「私、今隷獣いないんです。だから出来ません」
咲希の動きが一瞬止まった。先程まで沙耶と話ながらも髪を触ったり足を組んだりと、忙しなくどこかしら動いていた咲希が突然ぴたりと動きを止めたことで、この部屋全てのものの動きが止まってしまったかのようにすら思えた。




