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それは雨の日のことだった。
ここ数日曇天が続いていたが、とうとう雨が降り出した。とはいっても雨足はまばらで、雨具を必要とする程ではない霧のような雨だ。だがそれは徐々に、確実に身体を濡らして体温を奪っていく。風は吹いていないので凍える程でもないが、足元から這い上がってくるような寒さの日だった。
この日も目覚めてから沙耶と圭吾の会話は少ない。特にこの日圭吾は沙耶から話しかけない限り、口を開くことすらしなかった。そんな僅かな違和感を抱きながら、二人は大学を出てからいくつめかの拠点に辿り着いた。
そこは大きな湖の畔に立つ旅館だった。
二人は物資の買い足しや休息のため、その拠点に寄っていた。
元は風情ある高級旅館だったのだろう。今ではあちこち崩れ落ち、大きい旅館だったろうに、それがぐるりと周囲を無骨な石で出来た防壁に囲まれているせいで縮こまって見えた。防壁の内側には元々あったであろう小さな池や石畳を無遠慮に無視して高い見張り台がいくつも立てられている。天気のせいか、それはまるで巨大な牢獄に見えた。
この世界に召喚されてから短くない日数が経っている。召喚に巻き込まれた殆どの人はどこかの拠点に腰を据え、この魔物が蔓延る幻視界で旅をする者などまずいない。
そのためか突如この拠点に表れた見慣れぬ二人に、拠点の人々は警戒した。門の前に立つ警備の者に何度も誰何され、押し問答を繰り返した挙げ句、拠点内で話し合って決めるから待て、と言われたのだ。
おかげで沙耶たちが拠点に入るまで随分と待たされ、昼過ぎに着いたというのに、結局入れた頃には日が傾きかけていた。
拠点への入場が許可されたが、もう入口付近には警備の者以外誰もいなかった。見知らぬ来訪者を不審に思って皆拠点の奥へと移動してしまったのだろう。現に沙耶たちは拠点の奥へは入らぬように厳重に勧告されていた。
沙耶たちが建物に入ってすぐにロビーのような広い部屋に出た。
そこの高い天井全面に優美な絵が描かれていた。壁には天井まで届くほど大きな窓が南側全面に張られ、美しい庭園を見渡せるようになっていたのだと思われる。水を流していたのかもしれない細い水路のようなものが部屋の至る所に見受けられた。高座のような場所もあり、赤い毛氈が張られていた。
だがその全てが過去の遺物と化していた。天井の絵は欠け落ち、窓は割れ、庭園らしきものは瓦礫の山に。水路は枯れ果て、毛氈は殆どが剥がれている。そこはもはや廃墟のようにすら見えた。
その荒廃ぶりに目を凝らしながら、沙耶が部屋の中を歩み進める。
「長かった……。ただ待ってただけなのに、なんというか、疲れた。でも何とか入れてもらえてよかったよ」
沙耶がうんと背を伸ばしながらそうひとりごちる。沙耶の足元をくるくると動き回っていたユキが足を止めた。
圭吾からの返事がない。
ユキが吠えた。
「圭ちゃん……?」
沙耶が振り返った。
「圭ちゃん!」
圭吾は沙耶の後についてきていなかった。建物に入ったところで倒れていたのだ。
ナズナも姿を消し、運んでいた荷物が散らばっていた。沙耶が慌てて圭吾に駆け寄る。近付いてきた沙耶の気配に気が付いたのだろう、圭吾は起き上がろうと腕を立てたのを見て、沙耶は咄嗟に圭吾の身体を支えた。
「ご、ごめん沙耶ちゃん。ちょっと今朝から頭が痛くて……気のせいかとも思ったんだけど」
「気のせいじゃないよ! 圭ちゃん、これ熱があるでしょう! 早くどこかで横にならないと」
沙耶は圭吾の脇から手を伸ばして何とか立ち上がろうとする。だが背の低い沙耶では長身の圭吾をうまく抱きかかえることが出来ない。
圭吾が弱々しい声で沙耶を止めた。
「大丈夫だから、このままで。ちょっと一眠りすればもうちょっとよくなるから、僕は置いておいて」
「そんなこと言わないで!」
圭吾は沙耶の悲鳴にも似たその声を聞く前に目を瞑ってしまった。一瞬沙耶の脳裏に最悪の予感がよぎったが、圭吾の胸がゆっくりと上下しているのを見て、ひとまず胸を撫で下ろした。
だからといって圭吾をこのままここで寝かせておくわけにもいかない。
「む、むうーっ!」
沙耶は自分の身体を圭吾の下に潜り込ませ、おぶるように圭吾を必死に持ち上げた。それでも全身は持ち上げることが出来ず、圭吾の足を引きずってしまう。振り返るとユキがばら撒かれた荷物を懸命にひとところにまとめようと、口で引っ張っている。
「ユキ……無理しなくていいからね」
息も絶え絶えにそう言い残し、沙耶は圭吾をひきずって歩き出した。背後からユキの力ない鳴き声が聞こえた。
沙耶が向かったのは、数少ない二人が入ることを許されている場所のひとつ、ロビー脇の小さな部屋だった。元は物置か何かだったのだろう、窓はなく、天井も低い。空気が澱んでどこか陰鬱な雰囲気の場所だった。だが、壁と屋根があるだけありがたい。
沙耶は圭吾の荷物の入った袋から普段から使用している寝袋を取り出し、そこに圭吾を寝かせた。
沙耶があれだけうめき声を上げ、足を引きずってきたにも関わらず圭吾は起きることがなかった。その深い眠りが怖かった。
必死に圭吾を運んだので沙耶は全身に汗をかいていたが、どこか背筋は寒くなるような感覚を覚えたのだった。
「ふう、ふう……。ああ、荷物をかき集めて、それであと、ええと圭ちゃんに何か食べるもの……それと薬があるかな」
沙耶は荒くなった息を整えながら、指を折り、何をしなければならないかを考えていた。
“圭ちゃんは気を失ってた私を大学から連れ出してくれた。それに圭ちゃんがこうなっちゃってるのは、この旅の間中私の面倒をみてくれてたからだ。……私が何とかしなきゃ”
大きく息を吸って沙耶はロビーへと駆け戻っていった。




