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「なるほど、で、結局拾ってきちゃったんだ」
「ううーごめんなさい。ただでさえ穀潰しみたいな状態なのに、さらに厄介そうなの連れてきちゃって……」
「確かに普通なら「捨ててきなさい」って言うとこだけど……ふーん。この魔物、本当に魔物かな?」
「……?」
沙耶の両腕に抱えられる犬の魔物を、ためつすがめつ眺める圭吾だったが、少し面白げに口角を上げた。
「実はさ、大学に寄る前くらいからなんだけど、魔物っぽくない魔物をたまにちらほら見かけることがあったんだよ」
「魔物っぽくない魔物? 動物ってこと?」
「正直、動物なのかどうかはわからないんだよね。見た目は完全に唯物界の動物の姿じゃなかった。ええっと、例えば前に僕が見かけたのは、やたらと大きな角をした鹿だったんだけど、その角には真珠みたいな白い綺麗な玉がいくつもついていて、体毛も紫色だったんだ」
「それはなんとも魔物っぽい姿だね」
沙耶は圭吾の語る鹿の姿を頭の中で想像し、今まで幻視界に来てから見かけた様々な魔物の姿を比較する。沙耶の感覚ではその鹿は魔物に該当した。
「でしょ。だから僕も魔物だと思って身構えたんだけど、その鹿は僕を見るなり逃げていってしまったんだ」
「魔物が逃げる?」
「そう、そこなんだよ。僕が今まで見かけた、魔物っぽくない魔物っていうのは、見た目というよりその行動に依るところが大きいんだ。通常魔物って言うと人間を見かけるなり襲ってくるでしょ。どんなに足の遅いやつだって漏れなくそうだ。なのにその魔物っぽくない生き物たちはそうはしない。人間を警戒し、殆どの場合が逃げ出す。何ていうのかなー、えっと……」
言葉が引っかかってしまって出てこないかのように、うーんと唸る圭吾。沙耶はふと思いついたようにぽろりとそれを口に出した。
「殺意がない」
「そう、それ。魔物は皆人間を殺してやろうって殺意がどんなに小さいやつからでも感じるんだけど、そういった嫌な感じがその生き物にはないんだよね」
「うん、確かに……」
沙耶は犬の魔物と初めて会った時を思い出していた。
あの時この魔物は牙を剥いて唸り声を上げていたが、それは沙耶に対する殺意というよりは警戒心によるものだった。
現に沙耶は結局、この魔物から殺意を感じることは終始なかった。ただ見慣れぬ人間を警戒し、それが不要と判断してこうして身を委ねてきている、そういった印象だった。
「仮に人間に対する殺意を持たない生き物を動物と呼称するにしても、それは唯物界の動物とは生態系から何もかも違ってると思うんだ。ほら、沙耶ちゃんが摘んできてくれたその野草だって、僕は唯物界では一度も見たことない。だけどここ幻視界ではわりとよく見かけるんだ。草木ひとつとっても違うんだ、生き物なんて尚更だろうね」
圭吾は沙耶の腕の中でじゃれ回る犬の魔物を見つめた。
「たぶんこの犬っぽいのもそういった生き物の一種なんじゃないかと思うんだよね。ただそこはまだ全然確信はないんだ。……だからまあ実証実験的な意味でも、連れていってもいいんじゃないかな。なにより可愛いしね」
圭吾が苦笑して肩をすくめてそう言うと、沙耶がまるで罪を許されたかのように顔を明るくした。
「圭ちゃん……!」
「でもその犬のぶんの食い扶持は沙耶ちゃんが稼ぐんだよ。僕は沙耶ちゃんの面倒しか見ないからね!」
「うん! 頑張る!」
沙耶は思わず犬の魔物を両手で持ち上げた。いきなり高く持ち上げられた魔物は驚いたようだったが、沙耶の感情に感化されたようにすぐに嬉しそうに鳴いた。
圭吾は困ったように笑った。
「連れて行くのはいいんだけど、その子随分と汚れてる。先に綺麗にしちゃおう」
「確かに、薄汚れてる感はある……。アイリスにお願いしても?」
「しょうがないね。ほら」
そう言うと、圭吾はアイリスを呼び出した。
犬の魔物は突然現れたアイリスに驚き、何度か吠えたが、お互い敵意がないことを理解すると、宙に浮かぶアイリスの姿を興味深そうに眺めだした。
「よしよし、賢いね。じゃあアイリス、お願い」
圭吾が声をかけると、アイリスは鈴を転がしたような音で小さく鳴いて大きな水球を出した。そしてそのままその水球で犬の魔物を包み込んでしまった。
水球の中で水流が四方八方に一気に回る。驚き、吠えようとした犬の魔物だったが、その前に水球はさあっと形を崩してただの水となり、地面を濡らしていった。
そしてそこにはびっしょりと濡れそぼった犬の魔物の姿だけが残った。気付くとびしょ濡れになっていた犬の魔物は、ぶるぶると体を震わせて水を弾き飛ばす。そして不思議そうに辺りを見回していた。
アイリスが得意げに一声鳴いた。
「おお、これはなんとも」
「わあ、真っ白になったね、わんこ!」
魔物は嬉しそうな声を出した沙耶へと振り返る。沙耶が何に対して喜んでいるのかはわからないが、きっといいことがあったのだろうと尾を振った。
アイリスによって洗濯された犬の魔物は、汚れが落ちて灰色の毛並みから真っ白な毛色に変わっていた。
「お前美人さんだったんだなあ!」
沙耶が感嘆して魔物を撫でる。まだ濡れてしっとりとしているが、撫で心地も随分とよくなり、まるで毛足の長い高級絨毯に触れているかのようであった。
「沙耶ちゃん、さっきからわんこわんこと呼んでるけど、それまさか名前じゃないよね」
「……へ? あ、名前?」
「そうだよ、まさかずっとわんこって呼ぶつもりだったの?」
圭吾にそう指摘されてはっとする沙耶。今まで生き物を飼ったことなどない沙耶は、自分で名前をつけるという感覚がなかったのだ。他の召喚された人たちは自分の隷獣に名前をつけてるようだが、ましてや沙耶の場合、向こうからわざわざ名乗られてしまったので、その機会も逃していた。
“そっか、私が名前をつけていいんだ……!”
特別な仕事を与えられたかのように、誉高い、でも同時に重大な責任だと背筋を伸ばした。だが名を、と言われた瞬間に沙耶の心は決まっていた。
「ユキ! わんこ、お前の名前はユキにします!」
「ワン!」
「また安直な……」
自信満々に名付けた沙耶と嬉しそうなユキを見て、圭吾は苦笑いを浮かべた。白いから雪というのは確かにありきたりで平凡だ。
「いいの! 静岡県民じゃない圭ちゃんにはわかるまい、この気持ち。我らの雪への渇望を舐めちゃいけないぜ! これは憧れの名なの!」
「いや、沙耶ちゃんがいいならいいけど……雪への憧れって、そんな?」
「そんな!」
沙耶の笑顔を見て、圭吾はもう何も言わなかった。そもそもユキを連れていきたいと言われたことも、圭吾には断るつもりはなかった。そしてそれは正しかったのだと圭吾は一人納得していた。
沙耶の曇りない笑顔を久しぶりに見ることができたのだ。




