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「ワン!」
「ひゃあっ!」
突如背後から聞こえた鳴き声にびくりと体を硬直させた。慌てて振り返るとそこには先程追い払った犬の魔物が立っていた。
「ああー! 来ちゃったよ!」
がくりと項垂れる沙耶。肉の味をしめてしまったのかもしれない。
それともやはり人間である沙耶を襲いに来たか。
どちらにせよもうここまできてしまえば覚悟を決めるしかなかった。この魔物を放置すれば後々どんなことになるかわからない。自分だけじゃない、圭吾には迷惑をかけられない。
沙耶はまだ残っていた枝を地面に下ろして、鉄パイプを構えるために持ち直そうとした。
「つっ!」
先程切った指は利き手の指だった。鉄パイプを握ろうとすると、傷がぱっくりと広がって血がどくどくと流れ出し、つい鉄パイプを落としてしまった。
痛みに顔をしかめた沙耶だったが、はっとして視線を魔物に戻した。この隙にいつ襲いかかられてもおかしくない。だが魔物は襲いかかるでもなく、逃げるでもなく、鼻を高く上げてふんふんと匂いを嗅いでいた。
困惑する沙耶だったが、次の魔物の行動にさらに動揺した。
犬の魔物はてくてくと沙耶へと近付くと、びくりとする沙耶を尻目に小さな前足をぽんと沙耶の足の上に乗せたのだ。
そしてじっと沙耶を見上げた。
「え、え? ええ? どういうこと?」
戸惑い頓狂な声を上げる沙耶だったが、魔物はその声すらも意に介することなく沙耶を見つめ続ける。
「ワン!」
「わっ!?」
小さく吠えた魔物に、沙耶は驚いて腰を抜かしてしまった。地面に腰を打ち付ける沙耶。痛みに顔をしかめると、魔物がひょいと沙耶の膝の上に乗ってきたのだ。
「ひえっ」
驚き、鉄パイプへ手を伸ばす沙耶。だが、指はずきりと痛んでその動きを阻害する。
魔物は動いた沙耶の腕へと顔を向けると、そちらに歩み寄った。
そして血を流す沙耶の指を小さく舐めた。すると白い魔物の毛が一瞬ぶあっと総毛立ち、目を丸くさせたと思うと、尾を振って舐め始めたのだ。
「ふひゃっ? へ、ええ? ふへ、くすぐったい……!」
犬の魔物は沙耶の指を舐め続ける。それも傷自体には触れないようにそっと舐めているのがわかった。まるで沙耶の身を労るかのような触れ方に一瞬感じ入ったが、血を舐めさせるのはよくないと思い直し、手を素早く引いた。
魔物はそれを深追いするでもなく沙耶をじっと見つめている。
「ありがとね、わんこ。でもたぶんあんま色々と良くないだろうし、もう大丈夫だから」
そう言って傷のないほうの手を振る。そして降ろした枝を拾い集めると、落とした鉄パイプを拾い直して踵を返し、その場から去ろうと立ち上がった。
「ワン!」
犬の魔物が沙耶の足にじゃれついてきた。立ち去られると直感して引き留めようとしたのかもしれない。だが真実は沙耶にはわからない。
頭を擦り寄せてくるその魔物に、沙耶は動けずにいた。
“これはもしや懐かれた? この私が? やっぱり肉を投げたせいか? あれは餌をあげたことになってしまうのか? だからってこんなにちょろくていいのか……いやよくない! なぜなら私は過去、友達の飼っている犬に犬用おやつをあげようとして威嚇されたことのある女だぞ! 人生で犬を撫でられたことなんか殆どない私だぞ! そんな私にこんな野生のわんこがすぐに懐くはずがない!”
沙耶は一人葛藤していた。
だがその間も犬の魔物は沙耶の足の間を通り抜けたり、じっと見上げたりして沙耶の反応を待っている。
頼られている、そう感じた。それは今の無力感に苛まれていた沙耶には抗いがたい感情だった。
そして沙耶は誘惑に負けた。
「圭ちゃんーごめん!」
帰りの遅い沙耶に、そろそろ心配して探しに行こうかと考えていた圭吾のもとに、情けない声を出しながら沙耶が帰ってきた。
「ああ、よかった。無事だったんだ。遅かったから心配……どうしたの、それ?」
火にかけた鍋の前から立ち上がった圭吾は、沙耶が抱えているのが薪用の枝だけでなく動く白い塊もあることに気がついて、目を丸くした。もぞもぞと動くそれは圭吾の声に反応するように耳を立てて顔を上げた。
「……犬?」
「ワン!」
圭吾の疑問に答えるかのように、犬の魔物が鳴いた。




