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二人は暫くその場で休んだ後、ゆっくりと歩き始めた。
圭吾は二体目の隷獣であるナズナに荷物の入った袋を括り付け、圭吾自身も荷を背負ってその隣を歩いていた。袋は大きく、その上いくつもあり、これを運ぶとなるとかなりの労力だろうと思われたが、ナズナは特に苦もなく運んでいるようだった。
沙耶は自分の分の荷物を大きな鞄に入れて担ぎ、圭吾の後について歩いていた。入っているのは必要最低限の荷物だけだろうが、それでも鞄は大きく膨らんでいて決して軽くはなかった。それに加えて沙耶の右手には、随分と使い古された鉄パイプがあった。花菜たちからの餞別だそうだ。
実際鉄パイプは早速活躍の機会が何度もあり、何体かの魔物を屠っていた。基本的には圭吾が一体目の隷獣であるアイリスで倒すのだが、同時に何体も現れた時や不意に飛び出してきた魔物には沙耶自身で対応しなければならなかったからだ。
それはつまり沙耶が戦わざるをえない、ルシファーの不在を意味していた。
あれからルシファーはいつまでたっても姿を現すことはなかった。そもそも沙耶はルシファーを指輪に戻したことがなかったので、そこから再度呼び出す方法も知らなかった。
普段どうやっているのかを圭吾に聞いたが、圭吾も感覚でやっているようで、何か決まった言葉や手順があるわけではないそうだ。それでも無理矢理言語化してもらった感覚を参考に、何度も呼び出そうと試したが、一向にルシファーが現れる気配はなかった。
そうしてルシファーが姿を見せないまま数日が経った。
圭吾はどこか目的があって旅を続けているわけではないそうで、故に二人も特にあてもなくただ今は西へ西へと流れていった。
日の出ている間に移動をし、日が落ちる前には野宿の用意をして眠る、という生活が続いた。
持ち運ぶ食料は干し肉や塩漬の野菜にドライフルーツ、生米に調味料を数種類程度だった。アイリスがいるので水はいくらでも出すことができるので、鍋で米を炊き、固い干し肉や塩味の強い野菜を食べた。
途中何箇所かウケのいる小さな拠点に立ち寄ることもあり、そこで旅に必要なものを買い足していたが、この行程の殆どは森や野原など人気のない場所ばかりだった。
沙耶の体調はすっかり戻り、最初の頃はすぐにばててしまっていたが、今では一日歩き通しでも問題なくついていくことが出来るようになっていた。また、大学を出たばかりの頃の沙耶は暗い顔で口数も少なかったが、日が経つにつれて表情も戻ってきて圭吾と他愛無い話をしながら歩くことも増えていた。
この日もそんな一日だった。
「今どれくらい歩いたんだろう。私たち結構歩いてきたよね」
「どうだろう。こういう時GPS付きの地図アプリが欲しくなるよね。あれ便利だったんだなあ」
沙耶の問いかけのような独り言のような言葉に、圭吾が答えには至らない感想のような返事をした。
この日は朝から曇っていてどんよりとした空模様だった。灰色の綿を隙間なく敷き詰めたような空は太陽を隠し、昼間だというのに薄暗い。背の低い下草を踏みしめながら、二人は森と野原の境のような場所を歩いていた。
「だいたいの地理って唯物界とこことで同じなんだよね」
「たぶん。地形は同じだって前ルシファーが言ってたから。実際ショッピングセンターから大学まで空から見た時、川の位置とか海までの距離とかがそれっぽかったんだよね」
沙耶が記憶を引っ張り出すように視線を動かしながら答えた。それを聞いた圭吾が苦笑いを浮かべる。
「ということはあの大学から見えた壁みたいなあの山はやっぱり富士山ってことになるのかな。あの光景はまさに異世界、って感じだよね」
「本当に。何だったらここからでもまだ見えるよ」
くるりと振り返った二人は、遠くにそびえる頂上の見えない山のようなものを見て、一緒に笑った。こんなものは元の世界中どこを探してもありはしないだろう。
「川も唯物界のものより随分とこう、異世界ナイズされてる感じだよね。幅とか水の勢いとかが全部大きいというか豪快というか。でも渡った本数とかこれまでの地形とかを考えるとここって多分静岡県の西側くらいなのかな。僕静岡県民じゃないからあんまり詳しくないんだけど」
「そうだったんだ」
「元は鎌倉に住んでて、そこから旅してたんだ。新幹線ならあっという間なのに、歩いていくってなるとやっぱ長いねぇ」
「新幹線ですら静岡通り抜けるの、長いもんね」
「静岡いつ終わるんだよ、って何度も思ったよ」
重く垂れ込めた空に、明るい笑い声が響いた。
その時、森の中の茂みが大きく動いた。
すぐさま圭吾がアイリスを呼び出し、沙耶を少し下がらせる。沙耶も圭吾から少し距離を取った。
するとその茂みの中から顔の大きさくらいはありそうなほどのクワガタのような魔物が飛び出してきた。勢いよく飛んできたその魔物を、アイリスは手から出した大きな水泡で包み込んだ。そして続けざまに矢のように水玉をいくつも飛ばして魔物の体を貫く。魔物はあっという間に倒され、ころりと小さな魔結晶を落とした。
「いつみてもアイリスの戦い方は優雅だ」
「えへへ。だってさ、アイリス」
アイリスは嬉しそうに鈴の音のような鳴き声を上げた。アイリスが手遊びのように空中に水を浮かせ、圭吾も労るようにそこへ手を伸ばした。
沙耶はその光景を複雑な気持ちで眺めていた。
何とも美しく心温まる光景だ。だがその光景は否が応でも、会えなくなってしまった自分の相棒を想起させる。
圭吾は何も言わないが、鉄パイプでしか戦えない自分では力になるどころか足を引っ張ってしまっているだろう。それにこうして圭吾が彼の隷獣と触れ合うのを見ると、どこか心に隙間風が吹いたように感じてしまうのだ。
“私は寂しい……のかな”
沙耶は左手の人差し指に嵌まった指輪をそっと撫でた。
“偉そうだし、態度は悪いし、言うことは聞かないあんな奴でも。それでも……”
考えを振り切るように首を振った。ただ考えるだけではどうにもならない。もう何度も試しているが、諦めきれずに再度指に力を込めた。
自分の魔素はもう十分回復している。あれだけ何度も枯渇しては満ちることを繰り返したのだ。魔素が溜まっている状態の感覚は、確信はないが掴んでいるつもりだ。
隷属契約には魔素が必要だという。ならば体に満ちていると感じるこの感覚を指先の指輪に集めればいいのではないか。そんな仮説を立てて、沙耶は何度もその行為を繰り返していた。
沙耶の意図することが実際に出来ているのかはわからない。だがこの行為をすると体が僅かにぼんやりと温かくなることは感じ取っていた。きっとこれが魔素なのだろう。そこまでは掴めたのだ。
しかし指輪はぴくりともしない。
“うーん。何がいけないんだろう。最初に呼び出す時は生命の危機とやらが必要っていうけど、私何度も危ない目に遭ってるのに出てこないし……”
うんうんと唸りながら沙耶が指輪を睨みつけていた、その時だった。
「沙耶ちゃん!」
切羽詰まった圭吾の声にはっと顔を上げると、沙耶の目の前に一抱えもあるような大きさの鳥が飛び込んできた。この鳥は魔物なのだろう、嘴を大きく開けて今にも沙耶に喰いつこうとしている。沙耶は息を呑み、そして咄嗟に右手でそれを防ごうと振りかぶった。




