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となりの世界の放浪者たち  作者: 空閑 睡人
第六章:放浪
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風が頬をなでて髪を微かに吹き上げた。巻き上げられた毛先が顔にあたり、そのくすぐったさに目を覚ました。

目を覚ました沙耶の視界に写ったのは、揺れる梢と木漏れ日とそこから僅かに覗く青空だった。また風が吹いて沙耶の髪をなびかせた。顔にかかった髪を、首を振って払おうとするがうまくできずに、手で払おうと腕を持ち上げた。ぱさりと衣擦れの音がしてかかっていたブランケットが滑り落ちた。


「ああ、おはよう。沙耶ちゃん」


圭吾の声だった。

沙耶は力を入れて体を起こす。体は固く重たくなっていたが、起き上がることは出来るようになっていた。随分と回復したようだ。


ここはどうやら森の中のようだ。辺りを見渡しても、周囲には細くて背の高いまっすぐ伸びた木々しか見えない。自分が寝かされている薄い布の下は、柔らかな下草が絨毯のように広がっていた。


「だいぶ良さそうだね。食べられそうなら、ほら、これ食べて」


そう言って圭吾は沙耶に小ぶりの林檎を渡した。この小さな林檎は大学に来てから何度も食べていたものだ。皮が薄いのでそのまま齧りつけられること、そして何より数少ないきちんと美味しい食材だったからだ。当初は皮を剥かずにそのまま食べることに躊躇いを感じていた沙耶だったが、今ではもう慣れたものだ。


圭吾から林檎を受け取ろうと手を伸ばした時、沙耶は自分が来ている服に見覚えがないことに気が付いた。

上半身には袖のないのシャツのようなものを着ていて、履いているショートパンツはふわりと裾が広がりスカートのようにも見えた。どちらも淡い茶色の服だったが、上下で少し色合いが違っているようだ。さらに腰布のような膝まである一枚の布がショートパンツの更に上に細いベルトで巻かれていた。幾何学模様のはいった厚手のタイツを履き、足にはヒールのないショートブーツを身につけている。腕には肘まで伸びる手甲のようなものをつけていた。そして寝ていた沙耶に掛けられていたのはブランケットではなく、フードのついた緑青色のマントだった。


見覚えどころか、人生で一度も着たことのないような服に、驚き戸惑う沙耶。その様子を見て圭吾がくすくすと笑った。


「どうかな? 本当は一緒に選びたかったんだけど、今回は僕の一存で選んじゃった。急いでたし、とりあえずってことで、機能性重視で決めたんだけど……また今度一緒にもっと可愛いの探そう! あ、着せたのは僕じゃなくて花菜ちゃんだから安心してね」


慌てて弁明するように付け加えた圭吾に、沙耶は小さく笑った。


「ありがとう。……ああ、でもこれお金っていうか、魔結晶は? こんな一揃え、結構したんじゃ」

「だいじょうーぶだって」


圭吾が沙耶の前に座った。沙耶はおずおずと頷いた。

その時、新しい服のポケットに何か入っているのに気が付いた。何かと思ってまさぐると、小さくヒビの入った携帯電話が出てきた。


「ああ、それ。何か前着てた服のポケットにも入ってたみたいだから、新しい服の方へ移したって言ってたよ。もう点かないのに、ずっと持ち歩いてるんだね」


圭吾が不思議そうに沙耶の携帯電話を見ながら言った。

この世界には電波がない。そもそも電気すらない。それ故、唯物界では生活必需品だったこれも、この世界では無用の長物だ。実際沙耶の携帯電話は、幻視界に来てからずっと黒い画面のままだ。


「そう、なんだよね。ほら、あれかな。こう、元の世界の思い出、みたいな。よすが、みたいな……」


しどろもどろに話す沙耶の言葉を、圭吾は「ああ」と納得したように聞いていた。

だが話しながら沙耶本人は「違う」と感じていた。そうではないのだ。


“習慣、みたいなものなんだろうか”


唯物界にいた頃は、毎日片時も離すことなく、ずっと持っていた携帯電話。なぜならここには緊急の電話や絶え間ない仕事のメールが飛んでくるからだ。少し目を離せばあっという間に着信件数は溜まる。それに恐怖を感じて、沙耶は四六時中携帯電話を確認する癖がついてしまっていた。


“きっと今頃メールとかの件数、凄いことになってるのかな”


そう考えると、こんな状況になってまで仕事のことを考えてしまう自分の性格に思わず自分で苦笑いを浮かべる。


“いや、そんなこと今考えてもしょうがない”


沙耶は頭を振って、携帯電話を再び服のポケットへ突っ込んだ。


「そんなことより、ほら食べて」


圭吾が沙耶の持つ林檎を指差した。沙耶は圭吾に促されるように、おずおずと林檎に口をつけた。あまり食欲はなかったが、圭吾に見られている手前食べないわけにもいかない。

林檎は齧りつくと爽やかに甘い果汁が口に広がった。優しい味に、ほっと息をついた。


肩の力が抜けた沙耶を見て圭吾が微笑んだ。


「食べられそうだね。……うん、じゃあそのまま聞いてね」


姿勢を改める圭吾に、沙耶は口の中の林檎をごくりと飲み込んだ。


「気付いていると思うけど、ここは森の中。あの大学から歩いて一日くらいの場所だよ。もう誰も追っては来ないだろうね」


沙耶は一口齧った林檎を持ったまま、ぴくりと動きを止めた。


「ああもう、ほら、食べながらでいいから。今は食べることも大事だよ。沙耶ちゃん、倒れてから結構経つけど何も食べてないでしょ。で、えーと、どこまで話したかな。……ああ。あれからね、僕が沙耶ちゃんをあそこから連れ出した。英樹くんと花菜ちゃんは残ったよ。「ここは任せて」だって。だから沙耶ちゃんが変に気負うことはないからね」


沙耶はただ黙って圭吾の話を聞いていた。ずっと齧り続けているのに林檎の味が急にしなくなった。


「沙耶ちゃんの旅の準備を終わらせてから、夜中にこそっと抜け出したんだ。沙耶ちゃんは眠っちゃってて気付かなかっただろうけど。僕の旅の支度が間に合ってよかったよ」


圭吾はちらりと振り返ってみせた。圭吾の後ろには大きな袋がいくつか置かれていた。あれがそうなのだろう。


「ちなみに沙耶ちゃんのその服とか旅に必要な物資は、沙耶ちゃんが最後に倒した巨大な魔物二体分の魔結晶から支払ったんだ。正確には一体分にも満たないんだけどね。魔物が落とした大きな魔結晶をひとつ渡したら、それより小さな魔結晶になってたくさん返ってきたんだよ。必要な分だけウケは持っていったみたいで、例えるなら50円のものを500円玉で買って、450円分の小銭でお釣りが返ってくるような感じかな。ほらこんなにまだ残ってる」


そう言って圭吾は沙耶の前に大きく膨らんだ革袋を置いた。ずしりと重たい音がした。


「これは沙耶ちゃんに所有権があるものだから、気にすることないよ。まあ、かっぱらってきたのは僕なんだけど。ほら、これだけ交換してもこんなに残った。それを今まで全部提供してきてたんだから、むしろかなり大目に見てやってるほうだと思うね」


圭吾が袋を開けると、その中には大量の魔結晶がじゃらじゃらと輝いていた。

だがそれを見る沙耶の表情は動かない。圭吾は肩をすくめた。


「もし体調が良さそうなら、少し動こうかと思うんだけど……いいかな」


沙耶は力なく頷いた。


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