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「え、何? ぎっくり腰?」
「おま、ほんっと無礼な女だな。つーかぎっくり腰なわけねえだろうが。あーくそ、これが契約の縛りってやつか、えげつねえ。俺にも効くのかよ」
「何を言ってるんです? というか無礼の権化みたいなあなたに無礼とか言われたくないです。よく臆面もなくそんなこと言えますね。自分を客観視したことないんですか?」
「ぐっ……くそ、てっめえ、好き放題にすらすらと……! お前、歯に衣着せるって言葉知らねえだろ」
「わ、よくそんな言葉知ってましたね! 罵倒以外の語彙、未就学児くらいかなって思ってました」
「ああ言えばこう言う……! だあっ! もういい、埒が明かん」
男はかぶりを振り、倒れたときについた砂を手で払うと、沙耶の前に座った。
「おい、女。聞け」
「え、嫌です。命令しないでもらえます?」
「――っいいから聞け。命の恩人の話だぞ」
「はい?」
沙耶はまじまじと男の顔を見返す。そういえばこの男は、この容姿はあの時の死神に似ている。いや、死神だと思っていたのは、この男だったのだ。
「あ、あの時の!」
「やっと思い出したか! そうだ、俺があの死にかけのてめえを拾い上げてやった大恩人だ。わかったら感謝して敬え、奉れ!」
「はあ、ええと、ありがとうございます……?」
沙耶は困惑の表情を浮かべながら一応の礼の言葉を返す。確かにあの時見たのはこの男だ。
だが何故この男は自分を助けたのか。見ず知らずの人間を命がけで助けるような精神は持ち合わせていないだろう。それにあの状況からどうやって自分を助け出したのだろうか。というよりどうやってあの場にいきなり現れたのだろうか。
「おま……まあいい。……いいか、非常に、非常に不服だが俺とお前は契約が成った。この俺が、くそ、口に出すのも嫌だな。あーあれだ、隷獣ってやつだ。で、お前が主」
「契約? レイジュウ? アルジ? ……人間でない発言といい、なかなかキマってますね」
「お前、いい加減にしろよ。だあもう、面倒くせえな。……ああ、これならてめえも黙るだろ」
怪訝な顔をする沙耶の前で男は立ち上がった。すると男の背中からばっと漆黒の翼が広がった。
それは確かな質量を持ってそこにあった。無数の羽でできた翼は、男の身じろぎに合わせて一緒に小さく動いた。
目を丸くする沙耶の反応に気を良くしたのか、男は翼を大きく動かして沙耶の前に突き出した。
「おら、触ってみろ。間違いなく本物だぞ」
目を瞬かせながら沙耶はそっとその翼に触れた。
まず最初に、とろけるように滑らかな手触りに驚かされる。次にふわりとした柔らかさを感じたと思うと、筋肉のような、骨格のような確かなものを感じさせる弾力に気付く。それは友人の家で触った、人を駄目にすると謳う高級なクッションを沙耶に想起させた。だがクッションと違い、こちらは温もりを持っている。こんな命の通った作り物はない。紛れもなくこれは血の通った本物だった。
「ふ、ふわふわ……。気持ちいい」
沙耶は先程までの男への憤りをも忘れて、思わずその翼の手触りを堪能していた。極上のクッションのような手触りに、まさに羽毛布団のような柔らかさ。まるで高級品のようなそれは丁寧に、慎重に触らなければ壊れてしまいそうな気がして、沙耶はそっと撫でた。
「ふん、これでお前もわかった――」
「あ、ごめんなさい! 無遠慮に撫でちゃったけど、くすぐったくないですか?」
沙耶は男の言葉の途中で、はっと思い出したように顔を上げた。翼にもっと触れようといつの間にかかなり近付いていたために仰ぎ見るような体勢になっている。
男はてっきり、本物であるはずないと反論されるのだと身構えていたのだが、返ってきた思いがけない言葉に、息が詰まった。存在が疑われるどころか気遣われるとは思ってもいなかったのだ。
「な、わ、わかればいいんだよ。別になんともねえ。……もういいか」
「あ、はい! ありがとうございます」
またしても素直な言葉に男は面食らう。気恥ずかしさに耐えかねるように男は顔を背けると翼を畳んだ。背中ほどの大きさに畳まれた翼は、そのまま背中にあるのではなく、すっと消えた。
そういえば翼を出し入れしているはずなのに背中の服は破れていない。
「お兄さん、ファンタジーの住民だったんですね……」
しみじみと感嘆する沙耶。
「おい、ファンタジーとか馬鹿っぽく括るな。というかお前ももうこちら側の人間だからな」
「はい?」
首を傾げる沙耶。男は溜め息をつく。だがもう二人の間に先程までの殺伐とした空気はない。
「……説明してやる。だからその取ってつけたような敬語をやめろ。お前別に俺を敬ってないだろ」
「はい。敬う意味でなく、精神的距離を取るために敬語を使っています」
「馬鹿正直に言い切りやがって。だからやめろっつーの。今更寒々しいんだよ」
「え、はい。……うん」
どぎまぎしながら、片言で沙耶は返事を返す。
男はふん、と鼻を鳴らした。
「お前、名前は」
「……沙耶。藤原沙耶」
「沙耶な。いいか、俺はルシファーだ。お前にはこの俺の名を呼ぶことを許してやる。仮にも主だしな」
「えっ! ルシファー!? あの!?」
沙耶は間髪入れずに問い返す。その名はあまりに有名だ。聖書で、絵画で、物語で、あらゆる場所で目にする名だ。言われてみればそんな風貌をしているのかも知れない。
「言っておくが、たぶんお前が想像しているやつと俺は別物だからな。俺は堕天使でもサタンでもねえ」
「……?」
眉をひそめる沙耶。だがルシファーと名乗ったその男は、沙耶の疑問に答えることなく話を進めた。