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声が聞こえる。
これは優の声だ。
そうだこの声は、早く魔物を倒せと叫ぶ声だ。
――また魔物が……。早く、早く目覚めなきゃ。私がやらなきゃいけないんだから……!
気持ちは急くのに、体が動かない。だがこんなことをしている場合ではないのだ。自分がぐずぐずしている間にどんどん破壊されてしまう。そして自分を追い立てる声はひっきりなしに耳を貫く。その声はあちらからもこちらからも四方八方から沙耶に投げつけられる。
だが優の声だと思っていたそれは女の声に変わった。猫撫で声のそれは妙に聞き覚えがあった。
「藤原さん、これ対応お願いねー。あなたじゃないとわかんないんだから」
――これは
「早く、急いでるんだよ。まだ終わってないの。君に任せたって聞いてたのに」
――これは仕事の、会社の同僚の声だ
沙耶は見慣れた四角い部屋に立っていた。この低くて、照明がついているにも関わらず、どこか薄暗い部屋には見覚えがあった。
ここは家にあるオフィスだ。
家族経営の工場は小さいながらも、客は絶えることがなかった。その工場を経営するために、工場作業員以外にも事務や営業で人を雇ってすらいた。だが人数は多くはない。
だからこそ未だ学生である沙耶ですら、手伝いと称して毎日パソコンの前に座って働かなければならなかった。
当初は楽しいと、そう思っていた時期もあった気がする。頼られ、褒められれば嬉しい。それに学生の身ながらも社会人たちに交じって働けているというのはどこか誇らしくもあった。
だがいつからだろうか。何かがひずみ、ずれていった。頼られることが常態化し、業務は偏り、そしてそれが当たり前になった。
自分を頼る声が、急かす声が幾重にも頭の中で聞こえる。目を閉じても山積する書類や、夥しい数のメールがちかちかと明滅する。何人もの人の顔が迫ってくる。
その内の一つの顔が優の顔に変わった。
「あんたがやらないから死人が出たんだよ」
悲鳴のようにひゅっと息を吸い込んで、飛び起きた沙耶。脂汗が額に浮かんでいる。急に起き上がったせいで頭が鈍器で何度も殴られているかのように痛み、視界がぐらぐらと歪む。それらが胃を強引に揺らすかのように、迫り上がるものを抑えられない。
「目が覚めたね。ああ、ほら、ここに吐いて」
そう言われて差し出された小さなバケツへ、沙耶は抵抗できずに吐き戻した。とはいっても胃の中には殆ど何もなかったのだろう。酸い空気と僅かな液体だけが口から零れ落ちた。
それでも気分の悪さは変わらない。
こみ上げる不快感を目をぎゅっと瞑って押し殺す。暫くそうして、なんとか小康状態に落ち着いてきた。
沙耶はチカチカする視界で辺りを見渡した。
見覚えのない部屋だった。雰囲気からして大学内のどこかの部屋だとは思われたが、沙耶が自室として使っていたあの教授室ではないようだった。
その見知らぬ部屋に見知った顔がいた。
そこにいたのは、心配そうに沙耶を覗く圭吾の姿だった。圭吾は沙耶と目が合うと、持っていたコップを何も言わずにそっと差し出した。沙耶もそれを黙って受け取り、少しずつ口を湿らせるように飲んだ。一口ごとに口の中を洗い流せているようで、ただの水だろうに体に染み渡るようだった。
圭吾は沙耶がコップの水を飲み終わるまで、言葉を発することなくそれを見守っていた。
「落ち着いた?」
沙耶が一息ついたのを見計らって、圭吾が小声で声をかけた。沙耶は無言でこくりと頷く。それを見て圭吾がほっと肩の力を抜いた。
その時、扉を小さく叩く音がした。顔をあげる沙耶だったが、圭吾は手を伸ばして沙耶を止める仕草をすると、音を立てずに扉に近寄り、僅かに扉を開いた。
そしてその隙間からノックの相手を確かめるとその人物を部屋に招き入れた。
「よかったあ! 目、覚めたんだね」
扉の隙間から入ってきたのは、花菜だった。花菜は沙耶の顔を認めると、ぱあっと顔を明るくして声を上げた。
すると慌てたように花菜に続いて英樹も部屋に入ってきた。英樹が花菜を小さく引っ張る。
「花菜さん、静かに。声落として」
そう咎められると花菜もはっとしたように口を手で抑えた。花菜は沙耶の近くに座り、上ずりそうな声を押し殺しながら話しかけてきた。
「沙耶ちゃん、毎回倒れてたけど今回は本当に本当に心配したんだよ。いつもよりマジで顔色悪くて、死んじゃうんじゃないかと思ったんだから!」
「ええ。ずっと目覚めませんでしたし……。お加減大丈夫ですか?」
そう沙耶を心配する二人だったが、それよりも沙耶は二人の様子にどきりとした。見ると二人とも怪我の手当の痕があるのだ。服から覗く包帯が痛々しい。
「あの、それ……」
「え、ああ、ええっと、ね」
気まずそうに目を合わせる花菜と英樹。すると意を決したように英樹が沙耶に向き直った。
「実はまた巨大な魔物が現れたんです」
その言葉を聞いた瞬間、沙耶ははっとしたように立ち上がろうとするが、足に力が入らず、よろけてそのまま倒れてしまった。
花菜が慌てて駆け寄り、倒れる沙耶の体を支える。
「ち、違うの沙耶ちゃん! それはね、何とか私たちだけで倒せたの!」
目を瞬かせる沙耶。
「でもやっぱり沙耶ちゃんと同じようにはいかないね。凄く時間がかかったし、誰か死んじゃうなんてことにこそならなかったけど怪我人は大勢出た。それに今回その魔物と対峙したことで、戦うのが怖くなっちゃった人もいる」
花菜の言葉に沙耶は体を固くした。心臓が早鐘を打っている。さあっと血の気が引いていくのがわかった。脳から背中にかけて冷たいものが押し当てられたかのように冷たくなっていくようだ。
自分が気を失っている間に何が起きたのかありありと浮かぶ。きっと大勢の人が目の前の花菜や英樹のように傷付いたのだろう。
“私がやらなきゃいけなかったのに”
冷たくなる体とは対照的に目頭が熱くなる。青ざめる沙耶の様子に気付いたのか、英樹が慌てて手を振った。
「ああ、でも! お陰でそこから色々見えてきたんです! どうすればもっと上手く戦えるか。要はレイド戦と同じで、HPとヘイトの管理とあと役割を明確化してそれに基づいた行動パターンを……。ああ、えっと、とにかく自分たちだけでも巨大な魔物だって倒せたんです!」
声を抑えていてもわかるほどに興奮して話をする英樹の意図が掴めず、沙耶は困惑する。
すると英樹と花菜が目を合わて頷きあった。
「だからね、沙耶ちゃんは今の内にここを出たほうがいいって思うの」
「――え?」
頭の中が白くなる。それでいて耳鳴りのような音が響いて煩い。
「それは、私はもう要らないって、こと……」
沙耶は声を出すが、それはがくがくと震えていてひどく聞き取りづらかった。とっさに花菜が沙耶の冷たくなった両手を掴んだ。
「違うよ、沙耶ちゃん! 私だって沙耶ちゃんにはここにいてほしい! でもこのままここにいたら沙耶ちゃん……死んじゃうよ!」
顔を上げる沙耶の目の前には、今にも泣き出しそうな顔の花菜がいた。英樹が頷く。
「あなたがここにいれば結局あなたに頼ればいいと皆が自分で戦おうとしなくなる。あなたありきの、あなた頼みになってしまう。現に今回俺たちだけで巨大な魔物を倒した時も、優さんはあなたを無理矢理にでも起こして倒させようと何度も言っていました。今回はそれを押し切る形で、有志の者たちだけで何とか倒しましたが、まあこのように怪我人が出たのを見て、優さんはやはりあなた一人に任せるのが道理だ、という考えを強くしたようです。確かに一理あるのかもしれませんが、所詮一理でしかない」
「あのね、活也さんにも相談したの。で、活也さんも沙耶ちゃんはここから離れたほうがいいって。「何なら俺が指示したことにする」って言ってくれたの」
沙耶は必死に英樹たちの話を聞こうとするが、言葉が滑り落ちていくかのように自分の体の中を通り過ぎていく。考えを巡らせようとするが、頭がうまく働かない。
その後も英樹と花菜が喋りかけていたが、どこか遠くで話されているようだった。
それはせっかく出来た居場所を追われるようで、大変な状況にあるとわかっていて逃げ出すようで、悲しさと後ろめたさとで頭がいっぱいだった。
そして最後には訳がわからないままに、二人に押されるようにして首を縦に振っていた。そんな三人の様子を圭吾はただ黙って見守っていた。
すると沙耶がふと何か気付いたように視線を動かした。
「……あの、そういえばルシファーは……?」
忙しなく動き始めた花菜たちに、か細い声で尋ねる沙耶。いつも倒れた時はずっと傍にいてくれていたルシファーの姿が、今はどこにも見えない。
沙耶の問いかけに花菜たちは気まずそうに顔を見合わせた。そして逡巡して口ごもると、躊躇いがちに英樹が口を開いた。
「その……レントを倒した後から姿を見てないんです。おそらく沙耶さんが今、彼を顕現させておくだけの魔素も使い切ってしまったために出てきていないんじゃないでしょうか」
「あ、でも出しちゃ駄目だからね! 沙耶ちゃん今また魔素を使うようなことをしたら本当にどうなっちゃうかわかんないんだから!」
ぞわり、と胸の中に言い様のない不安が広がった。この不安が何なのか、沙耶にはうまく言語化できなかった。
そして不安を膨らませたまま、小さく頷いたところで沙耶の意識は途切れた。




