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――声が聞こえる。何か叫んでいる。とても切羽詰まったような叫び声だ。ああ、これはもしや自分を呼んでいるのだろうか。勘弁してくれ。起きたくない。起きれば酷い気分になるとわかっているのだ。
「起きろ、起きてくれ!」
「おいてめえ、黙れ!」
――ああ、ルシファーが誰かと言い争っている声がする。ああ、くそ。
「早く――起きたか!」
「馬鹿、起きるな」
鉛のように重たい瞼を何とか持ち上げた沙耶の目の前に、血眼になった優の顔があった。沙耶はルシファーの腕の中に抱えられているようだったが、それに詰め寄るように優が手を伸ばしてきた。
すかさずルシファーがその手を跳ね除けるが、優は意に介することなく言い募った。
「起きたんなら戦ってくれ! またデカい魔物が出たんだ。校舎を壊し始めてる!」
切羽詰まった声の優が指を差した方へ、沙耶も視線だけ動かす。
そして瞠目した。
図書館の隣に建っていた校舎の半分近くが崩壊して、ただの瓦礫と化している。そして今まさに残りの半分も瓦礫に変えようと巨大なレントが腕を振るっている。レントが動く度に轟音が響き渡り、合間合間に絹を裂くような悲鳴が聞こえる。
土埃で煙が立ち、塵を飛ばす風が皮膚に纏わり付いてザラザラする。
「避難誘導、完了しました」
優の後ろから駆け足で英樹と花菜がやってきた。二人とも全身にところどころ土が付いている。花菜は沙耶が目を覚ましているのを見て安堵したような表情を見せた後、すぐにその顔を曇らせた。
今、沙耶が置かれている状況をすぐに理解したのだろう。
「優さん! やっぱりあたしたちだけで戦おう! 戦闘クラスの皆を呼び戻して――」
「駄目だ!」
優の声が花菜を遮る。その声は固く強張っていた。
「そんなことは許可できない。やれるやつがやるべきだ。そうだろう」
沙耶を見る優の顔は、血の気が引いて白くなり、どこか人形めいていた。その優の言葉に沙耶は押し潰されるような感覚に襲われた。ルシファーが何かを怒鳴り返しているが、沙耶も優もお互いの声しか聞こえず、お互いの顔しか見えなくなっていた。
「あんたしか出来ないんだ。早くしないとどんどん被害が増えていく。あれを、ああいう奴らを倒すのがあんたの仕事、責任だろ」
この間にもレントが次々と破壊を続けている。建物の崩壊する音が煩いほどに響いているのに、今沙耶にはそんな音すら遠くに聞こえる。
その代わりに優の声がまるで耳元で囁かれているかのように、頭に響く。
「で、でも! もう私、魔素が……っ」
喘ぐように言葉を吐き出す。その殆どが荒い息で、声になりきれていなかった。
花菜と英樹が何かを必死に訴えている。ルシファーの怒鳴り声もする。
だがどれも沙耶と優には届いていなかった。
「魔素を殆ど使ってるんだろ。知ってるよ。でもほら、まだ残ってるじゃん」
優がすっと指を動かし、沙耶がその指先を視線で追う。
そして息を呑んだ。
視線の先には眼尻を吊り上げ、優を睨みつけるルシファーがいた。
「その隷獣を維持している分の魔素がまだ残ってる」
ルシファーはその眼光で殺せそうなほどに優を睨めつけ、立っていられなくなるほどの重い圧を放出している。近くに立っていた花菜たちは腰を抜かしている。だが優は脂汗をかきながらも、その場に立ち続けていた。
「お前、ふざけるなよ。どの立場で俺たちに指図してやがる。でけえ魔物倒すのがいつ俺らの仕事になった。責任なんぞあるわけねえだろうが!」
ルシファーが優に怒鳴りつける声がする。近くで声を張り上げているはずなのに、沙耶にはその声すらどこか遠い。沙耶の耳と目は届ける情報を選んでいるかのように、沙耶を責め立てるものだけを拾い、突きつける。
レントの唸り声。舞う砂塵。響く悲鳴。
――私が
飛び交う瓦礫。砕け散る窓ガラス。
――早く
逃げ惑う足音。倒される街灯。崩れゆく校舎。
――守らなきゃ。早く、私が!
皆が必死になってようやく築いた生活の、安らぎの場が壊されていく。
その光景は、まるで自らが校舎を破壊しているのだと錯覚すらさせるほどに沙耶を追い詰める。
耐えられなかった。
「ルシファー……お願い」
触れれば今にも爆発しそうなほどに激昂するルシファーの袖を、沙耶が小さく掴んだ。
はっとして沙耶を見るルシファー。腕を伸ばすことすら苦しそうな沙耶の、ルシファーを掴む手が震えている。息も荒い。普段なら気を失って倒れているような状態で無理矢理起き上がっているのだ。相当な負荷がかかっているのだろう。苦しさで涙が滲んだ目に、悲痛な声。
ルシファーは眉根を寄せて怒りで気色ばんだが、すぐに顔を伏せて舌打ちをすると、震える沙耶の手を取った。
「……っ! 馬鹿が!」
感情を堪えるように戦慄いた後、そう吐き捨てると、今にも倒れそうな沙耶を花菜に押し付けた。
そして漆黒の翼を大きく広げると、その場で勢いよく飛び上がった。翼が開いた風圧で優が尻もちをついたが、ルシファーはもう地上にいる者のことなど一瞥もしなかった。そしてそのまま暴れまわるレントの近くまで飛んでいく。
ルシファーの姿が太陽に重なる。眩しくて目を細めるが、よく見えない。
その時、レントの足元から轟と炎が燃え上がり、熱波が押し寄せてきたかと思うと視界が赤く染まった。
途端沙耶は意識を失った。
沙耶はこの時のこの行為を、深く後悔することになる。




